昨今ではGLAYのシングル楽曲を数多く手がけているが、各アーティストからの依頼により、楽曲提供やプロデュースなども精力的に行っている。
また、音楽活動の他、エイズ予防キャンペーンの一環のレッドリボンライブへの長年のレギュラー出演や、ホワイトバンドプロジェクトへの参加、東日本大震災・熊本地震の復興支援活動などにも力を注いでいる。
レギュラープログラム:
bay fm 「TERU ME NIGHT GLAY」
(O.A. 毎週水曜 23:00~24:00)
昨年、デビュー25周年を迎えた日本を代表するロックバンド・GLAY。かたや、今年デビュー10周年のシンガーソングライター・高橋優。一見交わりそうにない両者だが、「GLAYの音楽が血肉となっている」と高橋は公言する。そして『テレビ朝日ドリームフェスティバル2016』で夢の共演を果たした際に受けた、ボーカリスト・TERUの衝撃――。満を辞して実現したスペシャル対談。ノンストップでどうぞ!
GLAYが加速度的に人気を獲得し、モンスターバンドとなった90年代後半。秋田の中学生が初めて組んだバンドでGLAYをコピーした。
TERU:
あのイベント以来になるのかな?
高橋:
『テレビ朝日ドリームフェスティバル2016』ですね。
TERU:
2016!? そんなに経ってるんだ!
--ちなみに、お二人が初めてお会いになったのは?
TERU:
共通の知人がいて、その彼の結婚パーティーで優くんが弾き語りで歌っているのを見て、すごいなって思ったのが初めてですね。
高橋:
あのときが初めてでしたか!
TERU:
そうそう。2015年かな。
高橋:
僕はてっきり『テレビ朝日ドリームフェスティバル2016』本番の何日か前にご一緒したお食事会の時が初めてだと思ってました。
--高橋さんは中学の頃にGLAYが大好きで、初めて結成したバンドで『SOUL LOVE』をコピーしたというエピソードをご自身でも語っていらっしゃいますよね。
高橋:
はい。思い出せば思い出すほどGLAYが血肉となっているんだなって思うんですよね。だって聴き始めたのは小学校の頃でしたから。
TERU:
小学生かあ(笑)。そうだ、たぶん俺たち干支一緒じゃないかと思うんだよね。亥でしょ?
高橋:
はい、亥です(笑)。
TERU:
だからひと周り違うんですよ(笑)。
高橋:
小学校5年生の時に映画『ヤマトタケル』が公開されて、その主題歌がGLAYの『RAIN』だったんですよ。
TERU:
デビュー曲ですね。
高橋:
そうですよね。特撮映画が大好きで、『ヤマトタケル』にはヤマタノオロチが出てくるのでワクワクして映画館に行ったんですけど、一番心に残ったのがGLAYの『RAIN』だったんですよ。でもまだ小学生だったので、自分でCDを買うという行為まではいかなくて、そのままになったんです。で、中学校に上がって給食の時間の放送委員がずーっと『灰とダイヤモンド』(1994年インディーズでリリースしたアルバム)かけていたんですよ。
TERU:
へー!優くんが中学生になった年というと。
高橋:
1996年ですね。
TERU:
ようやくGLAYが世の中に認識し始められたくらいの頃ですね。
高橋:
中学の中でもイケてるグループというか、そういう流行りに敏感な連中がいて、「GLAY知らないの?」って校内で大プッシュしてたんですよ(笑)。その頃はまだ超メジャーっていう感じではなくて、ここからGLAYがガーっと行くぞっていうくらいの時期だったんですよね。テレビとかバンバン出始めたのって、『REVIEW-BEST OF GLAY』(1997年リリースのベストアルバム)くらいの頃ですよね?
TERU:
そうだね。その前後だね。
高橋:
でも『グロリアス』(1996年リリースの8thシングル)は色々なところで耳にしました。だからクラスでもカッコいいやつらがGLAYを聴いていたから、聴かなきゃ!ってみんななったんですよ。で、そこから1997年に入って『REVIEW-BEST OF GLAY』が爆発的にヒットしたり、『HOWEVER』(1997年リリースの12thシングル)が何週連続1位!とかっていうのを音楽番組が報じてたりして完全にGLAY一色になっていくんですよね。さらに1998年に入って『誘惑』と『SOUL LOVE』の同時リリースですから。発売日に2枚同時に買いました。
TERU:
なんか照れくさいね(笑)。
夢を抱いて函館から東京へ。バンドの結束力を高めたデビューまでの5年間。
札幌の大学3年生は、自ら企画したイベントで坊主頭になり、プロへの道を決心した。
高橋:
僕の姉が函館の大学に進むことになって、引越しの手伝いに行ったり、何度か函館に行かせていただいたんですよ。ここか!みたいな(笑)。
TERU:
そうだったんだね(笑)。でも優くんは札幌に行くんだよね?そこはどういう経緯だったの?
高橋:
姉の手伝いで北海道に行くことが多かったんですけど、函館の次に室蘭に住んで、そのあと苫小牧に移ったんですよ。だからなんとなく僕も北海道に行きたいなっていうのがあったんですよね。函館にしても室蘭にしても自然が豊かで海があってっていうイメージで、そういう感じに憧れたんですけど、行った大学が札幌だったっていう。
TERU:
街だね(笑)。
高橋:
はい(笑)。秋田の人って、例えばバンドで成功したいって思うような人は、基本的には東京を目指すんですよ。でも僕の時代ってMTRとかで自分でCDを作れるっちゃ作れるので、東京に行かなきゃいけない理由っていうのがよくわかんなくなってたんですよね。そこで、みんなして東京行くんだったら俺は違うところ行きたいっていう天邪鬼も出ちゃって。
TERU:
なるほどね。僕たちは函館から、札幌に行くか東京に行くかの二択で悩んだ時に、TAKUROが、「一回札幌に出てそこから東京に出て行くのって結構遠回りだよね。だったら東京に出ちゃおうよ」って言ったんですよ。先輩のバンドもみんなまずは札幌に出て、次に東京っていうのが当たり前になってたんだけど、函館と札幌って車で4時間の距離だからどこか甘えが出ちゃうかもしれないって思ったんだよね。
--函館のバンドは、まずは札幌という1クッションがあるんですね。
TERU:
僕らの時代はそうでしたね。だいたい僕らの先輩はみんなまずは札幌でした。当時はバンドブームだったということもあって、オーディション・ライブに20バンドとか参加するんですよね。そこで1位を取ったらレコーディングができるんですけど、だいたいはそこで挫折して帰ってくるんです。そういう先輩たちを見ていると、だったら東京に行っちゃおうって感じでした。
高橋:
東京に行って、アルバイトをされたり、結構ご苦労もあったんですよね?
TERU:
誰も知り合いがいなくて、友達がバンドメンバーしかいなかったんで、だからこそ結束力が強まったという面はあるけどね。だんだん他のバンドの人たちとも知り合うようになるんだけど、大抵の人は実家が東京にあって生活に困ることはないわけだから、どこかストイックさが足りないなっていうのは感じたかな。だからもし札幌に出てたら僕らもそんなふうだったわけで、やっぱり東京に出て来て良かったなって思った。
高橋:
壁を壊すバイトをしてたって聞いたことがあるんですけど(笑)。
TERU:
そうそう(笑)。ライブが入ると仕事を休まなきゃいけないから、そういうことを考えると土木建築関係になっていくんだよね(笑)。解体工事の現場も行ったし、水道工事もやったし、あとは大工さんのお手伝いとか、いろんなことをやったね。当時僕は金髪で長髪だったから、一度ガソリンスタンドの面接に行ったら、髪の色を黒くしたら雇ってあげるって言われて。こっちから行かなかったけどね(笑)。
高橋:
黒くしてたまるかと。
TERU:
何をしに東京に来たんだってことだからね。アルバイトをしに来たわけじゃない。バンドをやりに来たんだっていうのが一番だったから。生活のために髪の毛を黒くしたら、自分の夢まで塗り潰されるような気がしたんだよね。
高橋:
TERUさんはどのへんの段階でプロになろうって決めたんですか?
TERU:
TAKUROと一緒にGLAYをやり始めたのが高校1年生の夏の終わりくらいだったんだけど、そこから高校のあいだずっとバンドを続けていって、3年生になって就職活動が始まる時に、どうしようかってなって。その時に、さっきも話したみたいに「まずは東京に行ってみたいね」っていう話になって、そこから淡い夢を抱き始めたのかな。で、親に黙って東京で就職先を決めたんだよね。先生から親に連絡が行ったら、「なんですかそれ!」って母親が慌てるっていう(笑)。全然言ってなかったから。東京に行こうって決めた時点でプロになりたいって思ってたんだろうね、今思うと。母親からも、東京に行くんだったらプロになりなさいって言われたし、3年やってダメだったら帰ってきなさいって。
高橋:
函館で活動されてた高校生の頃には結構人気があったんですよね?
TERU:
そう、それがあったから夢を見たんだよね。高校の卒業式の日のライブには80人くらいお客さんが来てくれてたんで。
高橋:
それ、すごいですよね。東京で初めてライブをした時のことって覚えてますか?
TERU:
覚えてる。僕とTAKUROが働いてたところにバンドをやっている友達がいて、一緒にライブやらない?って話になってGLAYとその友達のバンドとの対バンでやったのが最初。浦和の「ポテトハウス」ってライブハウスでやったんだけど、お客さんは相手のバンドのボーカルの彼女とその友達の2人だけ。そのバンドが終わったらフロアには誰もいなくなるっていうね(笑)。
--高橋さんはプロになろうって意識したのはいつなんですか?
高橋:
僕は大学の3年生の時ですね。札幌の大学だったんですけど、3年生になると勝手に就職セミナーみたいなのが始まるんですよ。90分の授業の中の40分くらいが就職の話になるんですよ。え、洗脳じゃんって思って。1年生の時には「映画監督になりたい」とか「作家になりたい」って言ってた人たちが、その就職セミナーが始まった途端、「映画監督にはなりたいけど、とりあえず映画館で働いてみようかな」とか、「作家になりたいけど、とりあえず本屋で働こう」って、現実的な方にぐるっと方向を変えるんですよ。もちろんそれがその人にとっては幸せなことかもしれないから、間違いとかそういうことでは全然ないんですけど、当時の僕からしたらそうなってしまうことがすごい恐怖だったんです。ずっと路上ライブはしてたんですけど、どうしたらいいんだろうってその時に思ったんですよね。とにかく就職セミナーには行きたくないからサボって、その時まで片手間みたいにやっていた路上ライブを真剣にやるようになったり、ライブハウスをブッキングしたりし始めたんです。それで、「100人集められなかったら坊主にするライブ」っていうのをやったんですよ。結局100人集められなくて坊主にしたんですけど(笑)。でもがんばって98人集めたんですけどね。
TERU:
えー、すげえ!
高橋:
奇跡を期待して100席用意したんですけど、あとちょっと届かなくて。でもそれで腹を括ったというか。で、4年生になって、最低限の単位だけ取って大学を卒業して、僕の場合はデビューしたいというよりも、自分でCDを作って自分でライブを企画して、その収入がサラリーマンと同じくらいになれば、「何をやっている人?」って聞かれた時に、「歌をやっている人」って答えられるって思ったから、まずはそうなりたいと思ったし、そうなれなければ歌い手じゃないと思ったんですよ。そうなった先に、もしかしたらどこかから声がかかってデビューができるかもしれないって思ってましたね。
TERU:
もし今だったら、優くんは完全に自分だけでやってたのかもしれないね。今はYouTubeにしろ自分でどんどんできる環境があるし、優くんはもしかしたらそういうタイプの人なのかもしれないなって話を聞きながら思った(笑)。
高橋:
そうかもしれないですね(笑)。当時もデビューとかは雲をつかむようなイメージで、あまり意識になかったですね。どんだけがんばっても自分の背中から羽なんか生えるわけないし、それよりも今の自分でどれくらいのことがやれるんだろうって常に試してみたくなったのが、その大学3年生の坊主になってからですね(笑)。
TERU:
うちの中ではTAKUROがすごく現実的な人なので、高校生の頃から、ライブをやってそこで上がったお金でデモを作るためのMTRを買いましょうとか、次のライブをするための資金にしましょうとか、根っこは今と変わらないやり方をしていて、それで東京に出て、なかなかブッキングできないって状況になった時に、じゃあ自分たちでイベントを作っちゃおうって言って立ち上げて、そうやっていくうちにイベントにつくお客さんが増えていったんだよね。最終的には200人くらいは集まるようにはなってた。それで市川でライブをやっている時にYOSHIKIさんが突然現れて「このあと時間ある?」って言われて、ないとも言えないし(笑)、ついていったらエクスタシーレコードとの契約の話をされるっていう。
函館から出てきたロックバンドと、
秋田から札幌を経由して出てきたシンガーソングライターが時代を超えてついに交錯した。
--高橋さんの場合は、中学生の頃にGLAYが好きになって、当然バンドというものにずっと憧れを抱いていたわけですよね。それが気づけば坊主頭になるまで一人で歌っているという(笑)。その変遷というのはどういうことがあったんですか?シンガーソングライターになろうって決心したタイミングがあったんですか?
高橋:
今、高橋優の歌を好きで聴いてくれている人には申し訳ない言葉になってしまうかもしれないんですけど、やむを得なかったんですよ。正直言えばずっとバンドを組みたかったんですよ(笑)。中学3年生の時にはじめてバンドを組んで文化祭で『SOUL LOVE』をコピーさせていただいた時も、僕だけ火がついちゃって、「これからも一緒にバンドをやって行こうよ!」って盛り上がってるんですけど、「いや受験じゃん」ってあとのメンバーはめちゃ冷静みたいな(笑)。バンドを組むってことはあくまで趣味であって、それ以上のものではないという人がほとんどなんですよね。当たり前だと思うんですけど。でも僕はバカだったのか何だったのか(笑)、「受験なんてべつにいいじゃん。それよりもバンドやろうよ」って一人で言ってたんですよ。それがずーっと続くんです。高校で組んだバンドでも同じ感じになり、それでいい加減バンドは難しいのかなって思いながら大学に入って札幌で路上ライブを一人でやってたんです。そしたら同じように路上ライブをやっているミュージシャンに声をかけられて、一回男3人でアコースティック・トリオを組んだんですよ。「カリフォルニア・キッド」って名前の。
TERU:
はははは。
高橋:
札幌なのに(笑)。3人でやり始めたら、まあまあお客さんが集まったんですよ。そしたら僕以外の2人が急にモテだして、彼女とか作っちゃって。「デートあるからスタジオ入れない」とか言い出すようになっちゃって。いやいやいや、こっちは3人でMステのオープニングで階段を降りる練習とかもっとしておきたいのにって(笑)。ソファーに3人並びで座って「カウントダウンTVをご覧の皆さん」っていう練習もビデオを回しながらもっとやりたいのに(笑)。結局みんな別の幸せを見つけていくんだなって思いました。そういう人たちと僕は出会う運命なんだなってバンドは諦めましたね。
TERU:
2000年になるかならないかくらいのあたりから、ちょっとバンドに対する人の意識が変わってきたっていうのかな、そういうのをすごく感じたことは実はあったんだよね。98年にHideさんが亡くなって、2000年にLUNA SEAが終幕して、90年代初頭に起こったバンドブームからの流れがそこでリセットされたんですよね。そういう時代を通過して、さらに2000年以降も続けている俺たちから見たら、わりと醒めている人たちが多いなっていう印象はあるんだよね。だから優くんってすごい珍しいなと思って(笑)。時代感覚的にはたぶんカリフォルニア・キッドの優くん以外の2人の方が普通だったんだと思う。バンドやろうぜ!って、完全に僕たちの世代の感じだもん(笑)。
--80年代後半に青春時代を送っていたら、バンドでデビューしていたかもしれませんね(笑)。
高橋:
ほんとですよ(笑)。でも今でもバンドへの憧れっていうのはありますけどね。だから、『テレビ朝日ドリームフェスティバル2016』は本当に僕にとってドリームだったんですよ。
--GLAYの演奏でTERUさんと一緒に『SOUL LOVE』を歌うというミラクル。
高橋:
すごいことが起こるもんだと。
TERU:
すごい楽しかったよね。
高橋:
はい。もう本番の2日前くらいから驚愕しっぱなしでしたから。このストーリーって映画にできるんじゃないかなって本気で思いました(笑)。
--冒頭におっしゃっていた、本番前のお食事会で一緒にやろうって話になったんですか?
高橋:
そうです。お誘いいただいて食事会の場所に行ったらGLAYのメンバーの方々が4人全員いるっていう。そこに対面で座らせてもらって。その時もTERUさんがすごいたくさん僕に話しかけてくれて、僭越ながら僕のGLAY愛もお話しさせていただいて、そしたら「2日後の本番、一緒に『SOUL LOVE』やっちゃう?」っていう流れになって、そこで決まるという(笑)。
TERU:
そうだったね(笑)。
--その、「やっちゃう?」でやっちゃえる潔さもバンドのカッコよさですよね。
高橋:
でもね、そんなふうに即決してやれるバンドって実はそんなにいないと思うんですよ。それこそそこも時代が関係あるような気がしていて、90年代からずっとやってきたからこそですよね。だって『テレビ朝日ドリームフェスティバル2016』ってイベントの規模がでかいですから。会場は国立代々木第一体育館ですよ。そんな規模のイベントで2日前にセットリストを変えるって、関わってくる人の数もめちゃくちゃ多いでしょうし、なかなかできないですよね。僕もさすがにその大変さがわかるくらいは音楽業界にいるので、それでも「やっちゃう?」で実際にやっちゃう、そのフィジカル(笑)。足腰の強さ半端ないですよね。GLAYの4人もそうですけど、バンドを取り巻くすべてのスタッフを含めたチームの団結力に凄まじいものを感じたんですよ。
TERU:
そこまで、あんまり考えてなかったね(笑)。その感じがフィジカルの強さにつながるのかもしれないけどね。
高橋:
イベント当日、TERUさんが時々通われているという針治療に行こうってことになって、治療院の前で待ち合わせをしたんですけど、「お待たせー」ってTERUさんが街中に現れた時は、僕夢を見てるのかなって思いましたもん(笑)。
--その時のステージで高橋さんを呼び込んでTERUさんが「続けていけば夢は叶うというのを実感してください」っておっしゃったのが印象的でしたね。
TERU:
優くんの話を聞いて、すごく光栄だなって思ったんですよ。GLAYが好きだった中学生が、こうして僕たちと一緒にステージに立っているって奇跡的なことではあるし、でも一方で諦めずにがんばっていれば夢は叶うということでもあるし。べつに音楽じゃなくてもね、いろんな形の夢があると思うし、そういうことをファンの子たちにも伝えてあげたいって思ったんですよね。
バンドであり続けることの奇跡と
シンガーソングライターとしてのプライド
--高橋さんは札幌から上京して、そこから約2年間ですか、下積み的な日々を送っていくわけですが、当然バンドではありませんから、一人でとなると相当精神的にはキツかったんじゃないですか?
高橋:
そうなんですよ。僕を札幌から連れてきてくれたマネージャーが「俺は梶ヶ谷に住んでるから隣の溝ノ口に引越してきな」って言われて、その通りに溝ノ口で物件を見つけてきたら、その翌月にその人は武蔵小杉に引っ越したんですよ。
TERU:
はははは。
高橋:
完全に一人ぼっちですよ(笑)。上京してすぐにコンベンション・ライブって言って、業界の人だけが見るライブに出させていただいて、そこに出てたのが僕とflumpoolとあと2組の計4組だったんですよ。そこで認められたのがflumpoolだったんです。それが2008年だったんですけど、その年の秋にはflumpoolは華々しくデビューして、最速ホールツアー決定!みたいな感じですごかったんですよ。その姿を横目にずっと見てて、その時は(山村)隆太となんて一生仲良くならないって思ってましたもん(笑)。
TERU:
根に持ってたんだ(笑)。
高橋:
クッソーって(笑)。でも今にして思えば、そこから2010年にデビューするまでの2年半というのがなかったら、たぶんこうして10年も続けられなかったと思います。僕も上京してからお客さんが全然いないライブハウスでたくさんやらせてもらって、お客さんがいないと自分に向き合うしかないから、「何でお客さんがいないんだろう?」「何がダメだったんだろう?」ってずっと考え続けたし、曲もその期間でたくさん書きましたし、そこでの悔しい思いがちゃんとあったおかげで、その思いは消えずに今もありますから。すべてが良かったと思います。
--TERUさんからすると上京して一人だったらって考えるといかがですか?
TERU:
だからソロのシンガーソングライターの人たちって、どうやって精神状態を保っているんだろう?って思うことが多くて。今年はこのコロナ禍にあって、なかなかバンドでの動きがしづらいので、自分で企画して配信ライブを5回やってきたんですよ。でも何から何まで全部自分でやっていると、やっぱり精神的な負担ってものすごくあるんですよね。そこで改めてソロの人たちってすごいなって思ったんですよね。曲を作って歌えばいいってわけじゃないじゃないですか。企画もそうだし、マネージメントとも向き合わなきゃいけないし。逆に言えば、バンドがあることに感謝しましたね。こういう部分はTAKUROに任せておけば安心だし、とか、逆にこういうマニアックなところはHISAHIだな、ここはJIROのセンスが欲しいなっていうふうに分担できるんですよね。だからほんと、優くんみたいにソロで闘っている人たちってすごいですよ。
高橋:
でも、一人でやれるから楽な部分というのもたくさんあるんですよね。曲作りに関してもそうですし、ライブでもみんなが自分を見てくれてるっていう実感があったりするんですけど、バンドをやられてる方々って、やっぱそこにどうしても人間関係が出てくると思うんですよ。家族だって嫌な時ってあるじゃないですか?兄弟だって疎遠になっちゃう場合もありますよね。そう考えると、もう25年以上ずっと一緒に活動されているGLAYの皆さんって本当にすごいなと思います。一緒にお食事させてもらった時の印象と、『テレビ朝日ドリームフェスティバル2016』本番日の楽屋で垣間見た時の印象がまったく変わらなくて、もう何て言ったらいいんですかね、世界で一番仲良しの4人がそこにいるって感じに見えたんですよ。だいたいバンドの人たちってそれぞれがそれぞれの現場で飲みに行ったりご飯を食べに行ったりだと思うんですけど、さっきも言ったみたいに、お食事の場に4人揃っていらっしゃいましたから(笑)。
--4人の関係性は変わらないんですか?
TERU:
変わらないですね。ある意味でずっといい距離感を保っているからかもしれないですね。ただ、バンドの中心はやっぱりTAKUROで、TAKUROは常に他のメンバーの様子をうかがっていて、誰かがちょっと落ち込んでたりすると、必ずそこに寄り添っていきますね。よくみんなでご飯を食べてる時なんかに話すんですけど、TAKUROがいなかったらたぶん解散とかしてるよねって(笑)。
高橋:
TERUさんも落ち込むことはあるんですか?
TERU:
俺はないっす(笑)。そういう性格のバランスも4人それぞれで、ちょうど合うんじゃないかな。みんなのことを気遣えるTAKUROがいて、俺はのんきにキャッキャ走り回るような感じで(笑)、JIROは本当に几帳面だし。一人だけA型なんですけどね。HISASHIはいつもわけのわかんないことばっかりやってるし(笑)。でも音楽に関しては常に貪欲でいろんな引き出しがあるし。そういう感じの4人が集まってるので、お互いに頼れるところがあってバランスがいいっていうのがGLAYのいいところなんじゃないかなって思う。みんながそれぞれGLAYのことが好きなんですよね。
--高橋さんの最新アルバム『PERSONALIY』では、様々なアレンジャーさんと共作されましたが、よりシンガーソングライターらしいアプローチですよね。
高橋:
これまでの10年で華々しい栄光があったとは思っていないんですけど、その中でもひとつあったかなというのは、どんなアレンジで歌っても高橋優が歌ったら高橋優になるっていう自負はあるんですよ。今まではやっぱりバンドが好きだから、レコーディングのメンバーも固めた中でバンドサウンドを意識したものを作ってきていたんですけど、今回はいろんなアレンジャーさんにどれだけ染めてもらっても、それでも高橋優になるかなっていう実験をしてみたんですよ、言ってしまえば。だからR&B調のアレンジがあったりカントリー調のものがあったりするんですけど、今回収録した15曲の15通りの高橋優と、でもどれをとっても高橋優しかないっていう、そのバランスを楽しんでもらえたらいいかなと思って作りました。すごいワクワクしましたよ。
これからもずっと歌い続けるために――
バンドとして、シンガーソングライターとして、今をどう生きていくか
高橋:
話が戻っちゃうんですけど、『テレビ朝日ドリームフェスティバル2016』の時の音が忘れられなくて。イヤモニもしてたんですけど、生で音を聴きたいから途中で取ってやってたんですよ。転がし(足元にあるモニター)から聴こえてくるTERUさんの歌がめっちゃデカいんですよ。そこで鳥肌が立つっていうか。そのフィジカルに圧倒されましたよ。どれだけ鍛えて、研ぎ澄ませれば、2日前にやるって決めた曲でここまでのパフォーマンスができるんだろうって。その体験を経て、9割は感動に震えてるんですけど、残りの1割で凹んだんですよ、僕は。バンドの人--というかその時はボーカリストとしてのTERUさんに対してですね、ただ歩んできたんじゃないんだなっていうことがわかったんですよ。だから、正しく落ち込むことができました。次にまた一緒にやらせていただける機会があったら、今度は優しさではない意味合いで、「一緒にやろうよ」って言っていただけるようなパフォーマンスをできるようになっていたいなって思いました。それが僕の中で目標になっているんですよ。
TERU:
個性の強いギタリストとかベーシストとかとやると自ずと自分が成長していかないといけないという環境になるんだよね。ステージ上の音ってバンドによって様々なんだけど、GLAYってとにかくアンプからドンっていう感じでデカい。だからそこに対抗しなきゃいけないんで、それが自然と僕のスタイルになっていったんだろうね。レコーディングも同じことが言えて、HISASHIが出す音と俺の音域がすごい近いので、その中でどうやって自分の個性を出していくかっていうのも考えながらやってきた25年間だったような気がしますね。だからただ仲良しなだけじゃなくて、一緒にいるバンドメンバーの中に闘いというのはあるんだなっていうのをいつも感じているんだよね。だから優くんの場合は、ソロだからどんどんいろんな人たちとやっていくことで個性が磨かれていくような気がする。そういう意味では今回のアルバムでやったチャレンジはすごくいいことなんじゃないかなって思う。またGLAYと一緒にやりましょう。
高橋:
そのときには僕ももうちょっと大きな声で歌いたいですね(笑)。中学生の時は『SOUL LOVE』の一番ハイトーンのところの声が出なかったんですよ。それがドリフェスの時は一応歌えたっていうので、自分的には「やった!」って思ってました(笑)。もう、まったくそんなレベルの話をしている場合ではないんですけど(笑)。
TERU:
でもいつまでも原曲のキーのまま歌えるボーカリストでいたいと思うよね。ポール・マッカートニーを観に行ったら、全て原曲キーでやってて感動したので、やっぱり憧れるよね。だから50代をどういう生き方をしていけば、あの時の70代のポール・マッカートニーの歌声に近づけるんだろうかというのを目標にしていますね。歌に関しても自分なりに考えてやっていて、コロナ禍の中で自分で配信ライブを行ったのも、歌うことを止めたら絶対に下手になるって思ったんですよ。
高橋:
歌もそうですけどバンドのサウンドも常に新しくて生き生きしてるんですよね。だからGLAYに対しての尊敬って、昔よく聴いていましたっていうのでは全然なくて、ずっと最新作が楽しみなバンドであり続けてるところなんですよね。