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代表メッセージ
「そういえば松ちゃん、安部は俺らと一緒に大学行けるの?」
高校3年のGWが終わった頃、ホームルームで同級生の小谷から担任の松下先生(通称:松ちゃん)に向かってこんな言葉を投げかけた。小谷は続ける。
「安部って色々問題あるじゃん?それなのにエスカレーターで大学に進学できるの?」
(なにそれ。行けるでしょ。そうだろ?松ちゃん!!!(懇願))
「うーん、内部進学は最低限の点数を取れば基本的にはみんな行けるんだけど、ちょっと条件照らし合わせると無理かもなあ。安部は。」
(え。そうなの?ってかそれ普通、個人面談で言う話じゃない!?)
「そもそも安部は留年対象のとこを『仮進級』で上がってきてるしな、ここまで」
(え!?もう一回確認するけど、それ、ホームルームで同級生40人の前で言う話だっけ?)
「実は安部の評定平均はとっても低いんだ」
(いや、知ってるけどさ。再三になるけど、みんなに言わなくてよくない?)
「安部は欠席日数と遅刻もめちゃくちゃ多いんだ。そして皆が知っての通り、素行も悪い」
クラス中がうなずく。
「授業中に教室の後ろでミニ四駆したり、パックジュース投げ合ったり、髪を剃ってモヒカンにしたりしている」
さらにクラス中がうなずく。
(いやいや、クラスのみなさんうなづいてるけど、髪剃ったのはオレじゃなくて、お前らが剃ったんだろ!!自分一人じゃモヒカンできないよ!!!ミニ四駆もパックジュースもむしろ率先してお前らもやってたよ!!!)
「安部は中高一貫のこの学校では珍しい、一学年でちょっとしかいない高校入学組なんだが、入学前から含め問題をたくさん起こしてたりするからな」
ニヤニヤする同級生たち。そりゃ知ってるもんね。「問題」とさっくりまとめられたが、共有されるのは黒歴史。中学時代に家庭内での暴力事件を起こしてしまった話を筆頭に、行き過ぎたトラブルから家出同然の路上生活をしたりなんだりの、カロリー高めの悪事のストーリー。そういう話、ニヤニヤしながら上手に聞き出してくるんだよな、このクラスの奴ら。
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なんというか、高3のクラスの同級生は、それまでアウトサイダーだったオレを、初めから排除したり無視することがなかった。敬意、と言うとおおげさで恥ずかしい気もするが、クラスのメンバーから一人の個人として認められていたと感じている。ちなみに担任の松ちゃんは、高校3年間オレの担任だった。多分そういう差配が学校側からされていた。この人もまあ教師としてはアウトサイダーなわけだけど。
正直、今でもとても感謝している。
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「安部、それなら東大じゃね?」
隣の席の小谷が笑いながら話しかけてくる。
「いいじゃん、それ」って松ちゃん。
(おい!!あんたオレの担任3年間やってきてるんだからそんなの無理なのわかるだろ!!無責任過ぎやしないか!!!こっちは学年最下位常連だぞ!)
「安部、『ドラゴン桜』って知ってる?安部の偏差値、この主人公たちくらいなんじゃね?」
って読みかけのマンガ雑誌を見せつけてくる小谷。コイツは顔だけは異様にいいチャラ男だ。爽やかに見えて、こいつがこういう風に持ちかける話はたいていゲスな話だ。
「そうだ、安部、受験しようぜ。オレもしなきゃいけないのよ。うちは親父が3浪してるから、3年までは大丈夫。これから3年計画で病院継ぐためにオレも医学部受験するんだよ。一緒に受験して安部も3年計画で浪人しようぜ!」
こちらは運動神経いいくせにバスケ部辞めて合コンばかりしてる適当男の岡島。腹立つがコイツもよくモテる。何言ってんだ、受験なんて。実家が太くて何度でもエターナルに受験できるお前ん家とは違うんだよ!!ってかお前はオレと学年順位そこまで大差ねーけどな!!
小谷や岡島みたいなキャラが声を上げるとそれに呼応する感じでクラス中がさらにニヤニヤしだす。
「安部、ここは漢(おとこ)見せるしかないんじゃね?」
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大学付属校の高校3年生は暇だ。彼らは部活が終わっても受験がない。だから何か面白いことはないか、探している。
そして彼らは見つけたのだ。他人の受験、しかも当時流行っていた「ドラゴン桜」という一発逆転系受験漫画の再現チャレンジという、面白そうなイベントを。
ぶっちゃけ、ここまで読んでわかるように、彼らに真剣さなどはない。オレの人生のためを思ってしてくれたアドバイスなんかではない。ただただ、面白そうだから、はやし立てただけだ。そして、そのはやし立てられたのを、真に受けた男がいた。
それがオレだ。
はっきり言って、勘違いする能力は高い。
そうして3年E組発の「ドラゴン桜プロジェクト」は、多くの同級生にとって、悪ノリとしてスタートした。だけど、この瞬間が、少なくともオレの人生にとっては転換点だった。
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オレは10代半ばの当時、家で事件を起こしたりして、ほんの少しだけ非行少年だった。その関係で、家族や学校、大人からずいぶん疎遠になっていた。当然高校進学も危うかったが、ばあちゃんのサポートも得ながら、今の高校になんとか入学できた。
しかし、松ちゃんの言うように、高校から編入してくる生徒はせいぜい5人とか10人。1学年200人そこそこの同質なコミュニティからすれば、当時のオレは明らかにマイノリティだった。
しかもそれまで大幅にこじらせた奴だったから、浮かないほうがおかしい。高2までの間は、ほぼ人と話した記憶がない。サボりも多く、昼過ぎに学校に着けばいい方だった。もっと言えば、学校の中にいても、居場所はみじんもない。フラ〜っとすぐに境界を越えて、悪い方に流される、主体性のかけらもないロクでもない奴だった。オレは、まだ、わかりやすく"社会問題サイド"にいる人間だった。
しかし、この時を境に、自分の人生がうまくいかないことを大人のせいにして、反射的で短絡的な反抗を繰り返していた自分が、誰かに見守ってもらえていることで安心できるようになった。そして、だからこそ主体的に生きたいと思えた。誰かに見守られて応援されて、安心して生きていける「環境」があるからこそ、「自己責任」は成り立つんだと思う。ロクデナシな人生から抜け出すためのアクションが、オレの場合は東大受験だった。
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学校というシステムは、一斉授業で「効率的に」生徒のスキルを上げていく近代の大きな発明の一つだ。日本でも高度経済成長を確実に支えてきたことは言うまでもないし、何なら日本は世界で一番強固に築かれた学校システムを持っている。
しかし、効率性を良しとすることは、同質性も良しとしてきたことになる。入学時の学力検査で、面接で、なるべく同質な生徒を選抜し、クラスを平準化することで、授業の理解度も整える。教師が教えやすくなることは確かだ。
一方でこの学校社会の同質性は、同質でないものの排除を促してしまう。これがいわゆる「いじめ」の一つの構造にもなる。何かの拍子で混ざり込んだオレのようなマイノリティを、普通のクラスメイトは敬遠する。それがエスカレートすれば、いじめにどんどん近づいていくだろう。実際高1高2のクラスでは、この同質性のループからオレは抜け出すことができなかった。特にそれまで所属していた野球部の同級生は、強力にオレの異質性を嫌っていたようにも思う。体育会という文化はこの同質性への圧力がより強い。それはそれで気が滅入る状況だったが、今考えると彼らからすれば、それは自然なことだったのかもしれない。
そうしてみると、高3のクラスはオレにとって奇跡的なクラスだった。おそらく教員たちの配慮もあったと思うが、3年連続で松ちゃんが担任なことに加え、野球部員があまりいなかった。
代わりに、校外でバンド活動しているやつもいれば、重度のアニメのオタクもいたし、まともに東大を目指す優等生もいるし、ここまでニヤニヤ絡んでくる小谷は、別の見方をすれば学年で浮くくらいチャラい。岡島だってバスケ部やめてる時点でアウトサイダーと言える。みんなそれぞれ、ある程度確固とした自分を持っていて、なおかつどこかしら校内でマイノリティな側面を持っていた。そんな中だから、オレの異質な感じは比較的受け入れられやすかったし、みんなから排除されるあの嫌な感じがなかった。
とは言っても、ドラゴン桜プロジェクトはノリではじまったプロジェクト。最初に声を上げた小谷は結局言いっ放しで、時々からかう以外はその後何もせず、サポートしてくれたのは別の同級生たちだった。その別の同級生たちはセンター試験の直前まで一緒に勉強を教えてくれた。
それでも、最初にふっかけてくれた彼らにも、後半期に勉強を伴走してくれた同級生たちと同じようにとても感謝している。ノリで声を上げてくれただけで、伴走するスタンスを示してくれただけで、十分だった。むしろ変に同情されない方が気持ちいい。彼らがけしかけてくれなかったらオレの人生は動き出さなかったのだから。
そのうえで、彼らは、他人に頼っていいということを教えてくれた。そして、一つの目標に向かって合意形成していく体験も。気がつけばオレの学校生活はそれまでとは変わっていた。予備校にも通い、人気のない授業を選んで出ては、寝に来ているほかの生徒を尻目に、一人わからないところを講師に質問し倒したりしていた。
結局、その年の受験ではオレは東大には受からず、別の大学に入学する。
そこから紆余曲折あって、1年間の仮面浪人を経て東大に入った。
本当に東大に合格できた2007年3月。どんだけ喜んでくれるかと期待して連絡してみたところ、まだ繋がっていた一部の同級生には驚愕を持って受け止められたが、ドラゴン桜プロジェクトにテンション上がっていたはずの多くの同級生たちは、楽しすぎる彼ら自身の大学生活にそれどころではなく、大したリアクションもなかった。
なんだよそれ、とも思ったけど、これはまあ、そんなものだろう。
問題は解決していくプロセスが大事なんだ。結果は出てしまうと意外と呆気ない。オレ個人の中に充足感があり、周りは何も変わらない。そんな感じでそれぞれの人生はちょっとずつ前に進んでいく。
人の幸せは、問題解決に向かっていくそのプロセスに所属すること、とイコールなのかもしれない。少なくともこの経験以降、オレは結果そのものではなく、そこに至るまでのプロセスも楽しめるようになった。
*****
オレの通っていた高校には、「仮進級」という制度があった。留年対象の学生にチャンスを与えるという制度だ。その対象者は年度末に集められるのだが、当時もちろんオレにも声がかかった。
後から聞いた話だと、高校1年生の時に一緒に集められた十数人の「仮進級」扱いの生徒の中で、オレ以外で留年や退学を経ることなく卒業できた人はいなかったそうだ。一度学校の中で居場所を失うと、構造的にそこから抜け出すのは難しい。学校は、「当たり前」からはみ出した人にはとても風当たりが強い。
オレが特に高校時代の前半で経験した学校社会、マイノリティに対する構造は、後に数多く目にすることになる社会問題の多くと同じだった。加害者が自分の加害を正しく認知せず、被害者は自分ひとりの力ではその状況から抜け出せない。そして被害者の側も自分が被害者であることも受け入れたくない。いじめられっ子は、いじめられていることを認めるのが一番嫌なんだ。その葛藤のなかで、手を差し伸べてくれようとする他者にあたってしまうこともある。
その他大勢の傍観者は無関心を決め込んで、沈黙で状況を是認する。是認されているので、状況の悪化は加速し、被害者はより自分でなんともできない。
そしてこの共通項を強く認識するうち、自分のやりたいことも定まってきた。この負の循環を断ち切ることだ。学校というシステムだけじゃなくて、世の中全体というシステムで。
振り返ると、今の自分がいるのは、当時のクラスメイトがそれぞれ少しだけ多様にマイノリティで、だから寛容で、結果として存在していたやさしい関心のネットワークによって受け入れてもらったからだ。
オレが持っていたマイノリティ性を帯びた”バックグラウンド”をクラス全員がなんとなく知っていたし、小谷や岡島が持つマイノリティ性や人間的な大きさを、オレの方もなんとなく感じていた。マイノリティ同士なんだけど、そこにはフラットに敬意があった。それぞれのことを全部理解しているわけでもないから、その分足りないところはやさしい想像力で埋め合わせる。ちょっと美化し過ぎかしれないけれど、これが3年E組にあった関心のネットワークだ。
この時のクラスは、オレにとって自分の人生で初めて経験する、心理的安全性が確保された疑似社会だった。多くの社会問題で苦悩する当事者に必要なのは、この関心ではないか。このとき感じた安心感からそういう仮説を持つようになった。「傍観者」が大半を占め無関心があふれた今の社会を、やさしい関心のネットワークがある社会に変えていきたいと思った。
「無関心の連鎖が問題を加速する」という問題意識は、主語を一人の人間に替えると
「社会問題なんて自分には関係ない」という言葉に変わる。その「関係ない」を「そうでもない」にしていくこと。「社会の無関心の打破」を行うリディラバの原点だ。
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今回ふとこうして自分の人生の転換点を振り返った時、あらためて学校はこの国の大半の人が経験してきた「社会」なのではないかと思った。オレは10代の頃、マイノリティとして、ある種の社会問題の当事者として過ごしてきた。そのマイノリティとしての実感は、路上だけでなく学校の中でも体験した。そして、運良くその社会問題から脱する経験も、学校という環境の中で体験した。
ではその差分はなんだったのだろうか。
それは「やさしい関心のネットワーク」が機能しているかどうか、だったように思う。
ちょっと気にかけているけれど、だからと言ってそれが支援/被支援のような対立軸に陥るわけでもない、そういう適度な距離感での人と人のつながりにおけるバッファ機能だ。
そういうネットワークがあると、「個人の困りごと」が「みんなの問題」になりやすい。オレの大学進学の困りごとは、小谷や岡島がけしかけてくれたからこそ、クラスのホームルームの議題になった。
そして「みんなの問題」になることでそれは誰かの手を借りやすくなる。一人じゃできないことも多くの人が協力すると意外に問題解決に繋がる。オレのセンター試験は、何人かの神のようにやさしくて優秀な友人たちなしでは乗り越えられなかった。
そしてそういうネットワークは、人の自立を促す。オレは仮面浪人の1年は一人で勉強をした。だけど、それは以前に感じていた孤独とは別のものだった。十分に与えてもらったサポートを今度は返す側に回りたかったから、そのためには一人でできることを増やすことが大事だった。
周囲のサポートは、自助のためのステップでもある。
自助も共助も公助も、それは相互補完的な機能だ。
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リディラバでは、このやさしい関心のセーフティネットの言い換えを、「問題の発見」→「問題の社会化」→「資源の投入」という流れで整理している。そして、その先には「問題に関わる当事者の自立」というものもあると思う。どれも、正直恥ずかしいくらい、自分の高校3年生の原体験だ。
でも思った以上にこの整理は社会問題という分野を理解するのに役立つ。
例えば子供の貧困。
実は子供の貧困という問題は発見が難しい。なぜならば一つに、当事者となる子供やその周囲の人にとっては意外にそれが「当たり前」のことが多いからだ。
以前、九州のいくつかの市を周り教育委員会や学校にお話を聞きに行ったことがある。
すると、とある市の校長先生はこんなことを私に教えてくれた。
「安部さん、そもそもこの地域の子達は、3分の1が生活保護やなんらかの社会的なサポートを受けている家庭の子達です。そして半分くらいはひとり親だったりして家庭環境的にも厳しい。そんな地域の学校にとって、家計を圧迫する東京までの修学旅行は実現できないんです。だから九州一周という形で、福岡や長崎に行く旅行をとるわけです。そしてそんな子達は、周りがみんな貧困状態だから、貧困ということをそこまで相対的に理解出来ないのです」
と。
一方で、都会の私立の学校の中などには、一学年全体の中で周囲に誰も貧困状態にある世帯の子がいない、という学校もある。そしてそういう学校に仮に一人か二人、貧しい環境にある子がいたとして、そういう子達はその事実を隠そうととする。
相対化されず自覚されない上に、仮に自覚しても隠したくなる。社会問題というのはそういうものだ。だからこそ、少し数を大きくして、ぼやかしながら問題として可視化するのだ。
そして何とか問題として発見できたとしても、それを「みんなにとっての問題」と社会全体で考えられるまでには、「問題の社会化」というステップを踏まなくてはならない。
子どもに関する問題で、貧困とは別に発見されるものに、児童虐待がある。2020年代の現在、児童虐待問題は社会問題として既に広く知られているが、例えば1990年代、まだ学校でも体罰をしつけとみなしていた時代には、学校でも家庭でも、子どもに対する暴力自体がそこまで大きな問題として考えられていなかった。そのような状況下では、第三者が今で言う虐待に当たる行為を発見できたとしても、個別の家庭におけるただの行き過ぎた行為と考えられる事が多かった。児童虐待は、被害者が死に至るような痛ましい事件が続く中で、学校での体罰や家庭での厳しいしつけに対する正当性が社会全体で大きく揺らぎ、2000年代に入ってからようやく法整備が進みだした。体罰が虐待の一つと法律へ明記されたのは2019年。令和になってからの話だ。
「みんなの問題だから、なんとかしなければ。」
この合意を得る道のりの、なんと長いことだろう。リディラバは、こういった「問題の社会化」のスピードを上げていくことで、少しでもその当事者の泣き寝入りを減らすことを目指している。
さて、この児童虐待問題は、社会問題として誰もが認知した今、解決していると言えるだろうか。
これも誰もが知るとおり、残念ながら、NOである。児童虐待の通報件数は、2020年11月に発表された値によると、19万3780件。みんなが何とかしなければならない問題となっても、それだけでは解決にはまだ到達しない。児童虐待の解決へ歩を進めるには、まだ取り組まなければならない具体的な課題があり、大抵この段階まで残っている課題は、複雑性も難易度もかなり高くなっている。この課題を乗り越えるには、ヒト・モノ・カネだけに留まらず、社会的な「資源」を投入していく事が必要だ。
例えば児童虐待において資源を投入すべき課題の一つは「発見が困難」というものだ。貧困を当事者たちが隠すのと同じ構造で、虐待被害者の子どもも加害者の親も、家庭という閉じた空間から虐待という問題を外に出そうとしない。加えて子ども自身、親自身もその虐待行為を愛情表現と誤認しているケースがあり、これも貧困と同じ様に、本人たちが気づいていない可能性がある。そうなるとより外からはわかりにくい。こういった構造が問題の発見を遅らせる。
この「発見され難い」という構造的な課題の解決に対して、児童虐待がみんなの問題だと認知され「社会化」されることで、大きく投入される資源がある。「周囲の目」だ。児童虐待の通報件数は、児童福祉法改正のあった2000年から19年で、約11倍に増えた。過度な通報による弊害はもちろん存在する。多くはないが適切でない通報もあるし、虐待の通報の増加が結果的に子供の臓器移植を阻む、といったことも起きる。しかしそれでも、問題が社会化し、資源が投入されたことで、解決に向けて壁を乗り越えることができた一つの例と言えるだろう。
一方で、発見しただけでは、まだ児童虐待は解決しない。さらなる資源の投入が必要だ。例えば、あなたが隣家の窓越しに虐待かも知れない親子間の行為を目撃したとして、
「ちょっとなにやってるんですか!やめなさい!」
とその隣家に踏み入ることは、できない。不法侵入という別の罪になる可能性があるからだ。また、親子間のトラブルという閉じた関係に第三者が介入することは、プライバシーの侵害という問題もはらんでいる。さらに、
「そんなもん関係ない!子どもを助けなきゃ!」
と無理に踏み込んだとしても、その時点から子どもを親から遠ざけることは、法的には難しい。親には親権がある。日本の場合その権利は特に強固だ。あなたが親の許可無く子どもを遠ざけると、最悪、未成年者略取で刑事事件になる。先に触れたように、もし子ども自身、親自身が虐待行為を親の愛情表現と誤認していたりすれば、その可能性はなお高い。そう考えると、親子間の虐待(に見える)行為に介入するには、かなり特殊な法整備が必要で、一個人では対応に限界があることが分かるだろう。この「介入が困難」という課題を解決するには、これまで挙げたような親子関係や家族を守る法律よりも、虐待の防止を優先することが許される存在が必要だ。それが、いわゆる児童相談所ということになる。この児童相談所で、虐待に対応するフロントプレイヤーである児童福祉司は、法改正のあった2000年から19年で、実に2.9倍に増加した。これも、課題解決に向けた資源が大きく増えたと考えることができる。
さあ、ではいよいよ児童虐待は解決するのだろうか。
既に報道されている通り、新たな課題がそこには立ち上がっている。通報件数が11倍になった事に対し、それに応じる児童福祉司は2.9倍しか増えていない。児童福祉司一人あたりの対応件数は19年間で約3.8倍に増加。もちろん地域によって多寡の差はあるが、緊急を要する事態に迅速な対応ができないケースも発生し得るだろう。
この課題解決には、何が必要だろう。どこがボトルネックになっているだろうか。例えば、虐待の疑いがある子どものケガの写真をAIが解析して、虐待の可能性を判別できるテクノロジーを用いれば、年間20万件弱寄せられる通報のうち、児童福祉司が今すぐ対応すべき件数自体が減らせるかも知れない。児童福祉司のさらなる増員には、さらなる法整備や待遇改善も必要だろう。前者はそういった技術を持つ企業と事業開発を行う必要があり、後者はその予算を取るための政策提言を行っていく必要がある。
そして、さらに言えば問題はその対応だけでは終わらない。虐待行為のある親から子どもを引き離せたとして、その受け入れ先である児童養護施設は足りているだろうか。施設から出た後の子どものケアは。子どもを奪われた親のケアは…。
社会課題の解決は難しい。でも別の見方をすれば、児童虐待は、こういった個別の課題に対し「資源の投入」を検討できるステップまで上がってきたという言うこともできる。「課題が発見」され、「多くの人が関心を持つように社会化」されたからこそ、一つ一つの紐の結び目を解くような「資源の投入」が可能になる。そして、それは一気には進まない。一つ一つ階段を上りながら解決していくのだ。
2020年から、リディラバは組織を再編し、この「資源の投入」の段階を担う事業として「事業開発・政策立案」をスタートさせている。行政・企業などとパートナーシップを組み、社会課題解決を持続可能な事業として行う難易度が高い仕事だが、社会を塗り替えるという意味で、やりがいもまた大きい。
活動開始から12年たち、問題発見を行う調査報道の事業、社会化を行うコミュニティ事業や教育旅行などを担うツアー事業、カンファレンス事業、企業研修の事業、そして課題解決のための「事業開発・政策立案」の事業。創業以来スタディツアーで扱ってきたテーマは350を超え、構造的な調査を行ったテーマも40以上、1万人以上が社会問題の現場に実際に足を運んでくれた。先に挙げたように最近では政策や事業も手がけられるようになってきたことは、大きな変化と言える。それでも実際のインパクトはまだ限定的で、やるべきこと、やりたいことは、もちろんまだまだある。
やはり、ここから先に進むには、より多くのみなさんの力が必要だ。
ここまで見てきたように「問題の発見」→「問題の社会化」→「資源の投入」の流れの起点となるのは、これを読むあなたが示す社会への関心、誰かの困りごとへの関心だ。その関心は、大したものでなくていい。当事者に対してフラットな敬意さえあれば、あとは例えば小谷や岡島がオレに向けたようなバカバカしいものなら、あなたの考える以上に物事は大きく動き出すかも知れない。
あなたの関心は、確実に誰かの物語に重なっていて、その誰かの明日を変える。もしあなたの中に自分では扱いきれない悩み事があったなら、それはいつか必ず他の誰かの関心が重なることで道が拓ける。そうみんなが確信できるようにしていきたい。
そんな、今まで考えてきたことを12年目にして初めて言葉にした。このサイトのトップページにある、ステートメントとスローガンだ。
**
社会課題なんて、自分には関係ない。
本当にそうでしょうか?
なんとなく、誰かがつけた「社会課題」というラベルだけで、
自分の問題じゃないと決めつけてしまう。
そのラベルを剥がしてみれば、あらゆる問題は誰かの困りごとであり、
あなたやあなたの身近にいる人の物語なのに。
このラベルを剥がすには「想像力」という力が必要です。
ひとりひとりが誰かの物語に、思いを巡らせて、関心が生まれる。
やがて「関心のネットワーク」となり、社会を変える力になる。
だからリディラバは、あなたに呼びかけます。
知ろう、考えよう、議論しよう。そして行動しよう。
誰もが社会課題を自分ごととして考える社会は、
いつか、あなたやあなたの大切な人を助けてくれる社会にもなるのだから。
「社会課題を、みんなのものに。」
*
新しくなったロゴマークも見てほしい。2つの吹き出しは異なる意見の対話を表しているが、重なり合ってハートに似た形になっている。対話して、相容れないところはあるにしても、相手にフラットな敬意を持って、少しだけ分かり合っていく。その先に、みんなを包み込むやさしい関心がある、愛ある社会が作れる。そういう未来を表したロゴだ。
リディラバは、あなたと一緒にこの「やさしい関心がある社会」を作りたいと思っている。
いつかどこかでご一緒するのを楽しみにしています。あなたの小さな関心で、きっと、社会は前に進むから。
※ 文中に登場する個人名などは全て架空のものです。
本当にそうでしょうか?
なんとなく、誰かがつけた「社会課題」というラベルだけで、
自分の問題じゃないと決めつけてしまう。
そのラベルを剥がしてみれば、あらゆる問題は誰かの困りごとであり、
あなたやあなたの身近にいる人の物語なのに。
このラベルを剥がすには「想像力」という力が必要です。
ひとりひとりが誰かの物語に、思いを巡らせて、関心が生まれる。
やがて「関心のネットワーク」となり、社会を変える力になる。
だからリディラバは、あなたに呼びかけます。
知ろう、考えよう、議論しよう。そして行動しよう。
誰もが社会課題を自分ごととして考える社会は、
いつか、あなたやあなたの大切な人を助けてくれる社会にもなるのだから。
「社会課題を、みんなのものに。」
安部 敏樹あべ としき
1987年生まれ。
2009年、東京大学在学中に、社会問題をツアーにして発信・共有するプラットフォーム『リディラバ』を開始。
2012年に一般社団法人、翌年に株式会社Ridiloverを設立。
2012年度より東京大学教養学部にて、1・2年生向けに社会起業の授業を教える。特技はマグロを素手で取ること。
第1回 総務省「NICT起業家甲子園」優勝、「KDDI∞Labo(ムゲンラボ)」第4期 最優秀賞 など、受賞多数。2017年、米誌「Forbes(フォーブス)」が選ぶアジアを代表するU-30選出。
著書『いつかリーダーになる君たちへ』(日経BP社)『日本につけるクスリ』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)。
組織概要
会社名 | 株式会社Ridilover |
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設立 | 2013年3月28日 |
代表 | 安部敏樹 |
所在地 | 〒113-0033東京都文京区本郷3-9-1 井口ビル2階 |
資本金 | 2327万円 |
旅行業登録 | 東京都知事登録旅行業 第2-6698号・ (社)全国旅行業協会正会員 |
事業概要 | 社会問題を扱うウェブメディア・コミュニティ事業 社会問題に関する教育・研修の事業 カンファレンス事業 教育事業 企業・官公庁との協働事業 |
法人名 | 一般社団法人リディラバ |
---|---|
設立 | 2012年6月28日 |
代表 | 安部敏樹 |
所在地 | 〒113-0033東京都文京区本郷3-9-1 井口ビル2階 |
事業概要 | スタディツアー事業 修学旅行事業 ウェブメディアの企画・運営 |