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哲学探究3 永井均

第7回

自己意識・再論(2)

 

Ⅰ 誤同定の不可能性はいかにして可能か(落穂拾い的な議論)

 

1 意識が「しかなさ」という形式をとらない場合については前回の段落7で触れた。しかし、彼ら全体としては、その外部に存在する(たとえば)人間に対峙することによって、現実的な独在性としての「しかなさ」を実現することができるのだった。この意味での「しかなさ」は、(適切な語がほかにないのでヘーゲル用語を使わせてもらうなら)即自的(アン・ジッヒ)には存在しえない。〈私〉が一匹のワニであったなら、そいつは即自的には「しかない」であろうが、自分のしかなさをそれとして自覚することはできないだろう。「しかなさ」の自覚のためには、複数の同類のうちのたまたまの一個であるという捉え方が(もまた)できなければならない。「しかなさ」は(ふたたび対となるヘーゲル用語を使わせてもらうなら)対自的(フュア・ジッヒ)にしか、すなわち自己を反省的に捉えることによってしか、実現されない。のではあるが、この場合の反省とは、たんに自己に戻ってくるだけのタテ方向のそれではなく、自分を複数の同類のうちの一例として(も)捉えるというヨコ方向のそれでなければならない。「しかなさ」の成立には自分と本質的に同型の(しかしなぜか自分ではない)隣人(同類)の存在が不可欠なのだ。

2 この要請を具体化した(=具体的な形を取って実現した)ものが、すなわち言語であるともいえる。もともとそれが事実であるからその事実を反映して言語が成立したともいえるが、その場合でも事実の一面を切り取ってであり、その一面性を強調するなら、事実の他の一面をあえて無視して、その無視によって言語は捏造された、ともいえる。『哲学探究2』の第10章(特に180頁)で、そこで想定された「単独者」が他者という者を考え出すことの格別の難しさについて論じたが、もし彼が、われわれの持つような自然言語をすでに持っていたなら、それはあまりにも容易に実現されたであろう。容易というよりはむしろ自明な同語反復(トートロジ―)となったであろう。言語的には、〈私〉と他の諸々の「私」とは、たまたま持っている偶然的諸属性の違いを除けば、本質的にはまったく同じものでなければならないからだ。すなわち、一本の木が、その持つ偶然的諸属性の違いを除けば、たんに木というものの一例であるのと同様に、たんに主観性というものの一例でなければならないのだ。その場合、単独者は、事実としては単独者であるとはいえ、すでにして他者の存在可能性を自明なこととして承知していることになる。なぜなら、言語的世界把握を前提にしない場合には矛盾した存在となってしまう他者なるもの(すなわち、そのことこそが自分を自分たらしめている世界開闢的なあり方を、そこからもまた開始していると想定される、不可能な存在者)を、始めから自明に存在可能なものと見なすような世界観の下に生きていることになるからである。そのことによって、単独者は自分の主観性というものもまた客観的に位置づけることができるようになる。

3 このような考え方をすれば、①自分と②それと並び立つ他者と③それらに共通の客観的世界と(すなわち第一人称と第二人称と第三人称と)が、相互依存的(三者相補的)な仕方で存在可能となるだろう。他者が存在しなければ、自分とはまた別に客観的世界の存在を想定しなければならない強い理由はない。たしかに直接的に動かせるもの(身体)とその動かせるものを介してのみ動かせるもの(物体)の区別がありはするが、そのすべては一つの即自的な「しかなさ」の内部にあると考えられるからである。また、いま現に見えているものと見えていない(が存在はする)ものの区別もつけられもしようが、そのすべてもまた一つの即自的なしかなさの内部に位置づけうるからでもある。この場合、他者でありえなさという意味の「しかなさ」と対象でありえなさという意味の「見かけ存在性」が合致し、〈私=世界〉の全体が誤認不可能なあり方で存在することになるだろう。同格の他者が存在して初めて、いま提示したような客観的なもの主観的なもののあいだの潜在的な差異が間主観的な一致と不一致の問題と重ねられて、顕在的な客観的世界を成立させることになるだろう。

4 逆にまた、もし客観的世界(における客観的対象)というものが成立していなければ、自分以外に自分と同型の主観性(そこから世界が開けている、世界の開けの原点)の存在を想定することは非常に困難な仕事となるはずである。自分を客観的世界を表象する(=誤りうる仕方で再現する)主体と捉えることによってはじめて、それと同型の(本質的に同じことをしている)自分以外の主体が想定可能になるだろう。この迂回路を経ずにいきなり他者の存在を想定することは、原理的に〈これ〉としか捉ええない端的な唯一者を、他にも存在すると想定してみるという、矛盾を含んだ想定をすることにならざるをえない。矛盾を含むという以前に、そもそも何を想定したらよいのか皆目わからない、と言ったほうが適切だろう。これに対して、自分を客観的世界を表象する主体と捉えることができたなら、そういうことをしているものが他にも存在するということを考えてみることは遥かに容易になる(少なくとも矛盾を含まない)。かりにもし他の点においてはこの矛盾が受け入れざるをえないものとして後まで残るとしても、ともあれは客観的世界を表象する主体という自己把握は、他の自己というものを構想することを矛盾なく可能ならしめることは疑いえない

*後でもういちど触れると思うが、他者が存在しなければ自分とは別に客観的世界を想定しなければならない強い理由はなく、逆にまた、客観的世界が成立していなければ、自分のほかに自分と同型の主観性の存在を想定することは難しい、というこの構造は、時間の構成にも同型的に当てはまる。すなわち、他時点における現在というものが存在しなければそもそも現在性と無関係なB系列的出来事連鎖というものを想定すべき理由はなく、逆にまた、現在性と無関係なB系列的出来事連鎖というものが想定されていないならば、端的な現実の現在以外に他時点おける現在というものを考え出すのは難しいであろう。

5 このようにして導入される他者が、言語的には第二人称である。したがって、第二人称とは(第三人称である客観的世界の成立とともに)その存在が認められた他の第一人称のことであり、それを最初の第一人称の側から捉えた場合の規定であるといえる。だからもちろん、単独者が「他者」に出会うとすれば、それは第三人称としてではなく第二人称としてであらねばならない。すなわち、対象的に(=自分が見たり触れたり想像したり思考したりする対象として)ではなく、対称的に(=そうした対象的なものごとを自分と同じように見たり触れたり想像したり思考したりする同型の他の主体として)であらねばならない。象徴的に表現すれば、ヨコに並んで同じ方向(独立に存在する世界の方向)を向いており、概念的に捉えれば、自分と同型の、自分と同じ種類のもの(自分がそれらと同じ種類のもの)であらねばならない。それは、私の語る「私はあれをこう見る」に対して、同じ「私」を使って「いや私はあれをこう見る」と語る者である。たとえ実際にはそう語り合わなくとも、そのことの可能性の内に示され合う者である。とはいえ、現在のわれわれにとっては、この人称組織はすでにして(アリストテレス・カント的な意味で)カテゴリーを形成しており、それゆえ、この世界の開始の前提である、といえる**

*マルチン・ブーバーは「我‐汝」と「我‐それ」を二種類の「根源語」と見なしたうえで「我‐汝」に優位性を与えたが、本文で述べたことが第二人称の本質であるなら、この捉え方は表層的にすぎるといわざるをえない。第二人称は、矛盾を含みつつ、新しい世界像を共同して作り出す共同構成者なのだから、むしろ「語りえぬ」次元として、「我」が「我‐それ」を語ることにおいて「示される」ような存在者として、まずは捉えられねばならない。だから「永遠の汝」は、この第二人称とはまったく違う次元の存在でなければならない。ここまでのところ論じられてきた言語的世界像の構成の際に排除された(そして常に排除され続ける)「現実性」の次元を考慮に入れなければ、すなわち(次の段落で触れるような)どこまでも不可思議なヨコ問題そのものであるむきだしの現実存在そのものに焦点を合わせた後でなければ、「永遠の汝」が真の意味を持つことはありえない。神と隣人とはこの意味において完全に断絶していざるをえない。

**このような世界像が完成すると、『世界の独在論的存在構造』の第4章で論じたように、相対主義と客観主義とが主要に対立するような(すなわち主観主義が相対主義として表象されるような)ものの見方があたかも自明なものの見方であるかのように見なされるようになる。

6 ここまでのところでは、議論は即自的なしかなさから出発しているとはいえ、全体の描き方はやはり平板(平面的)であった。それはいわば本質構造を描いたにすぎない。しかしここに不可欠なのは、古典的な本質と実存の対比で考えるなら、本質構造への実存の介入である。もちろん、ここまでの本質構造の議論の内部にも(本質と対比された)実存が暗に介入しており、いわば実存が先取りされた本質構造が提示されているのではあるが、そのようなことができるのも、ともあれまずは本質化されない、直の、むきだしの実存が存在しているからなのであり、それを考慮に入れることが、この議論には不可欠なのである。誤同定が不可能になるのも、実のところは、これだけが端的に実存しているといえる最終基盤が実存しているからであり(実のところはそれについてだけであり)、その後で、そのあり方とさらにそこから発する対比構造とが概念化され、本質化されて、実存の介入を織り込んだ本質構造が構築され、それがカテゴリー化されているからなのである

*これはつまり、「何であるか(本質)はわからないが、とにかくなぜか現にそれだけが与えられていて、それしかない」ものに、そのような(この「 」内のような)「何であるか(本質)」を与えて、そのことを一般化する、ということである。

7 この概念化、本質化によって、誤同定が起こりえない存在の仕方が一般化され、本質化されるとはいえ、それはどこまでもいわば約束ごとであって、真に誤同定が起こりえないあり方をしているかどうかは、実のところは外からでは決してわからない。〇、△、□、という三人の人間がいて、なぜか□は〈私〉で、したがって〇と△は他人であるとしよう。このとき私は、〇と△が本当に誤同定が起こりえないあり方で存在しているかどうか、実のところは知りえない。〇の口から出る「私は体がだるい」という発言は(この体のだるさの存在は「本質的見かけ存在」であるという意味では不可謬であると認めうるとしてもなお)、じつは△の身体に感じられるだるさを〇の身体に感じられるものと誤認して、〇の口から「私は……」と語った、「私」にかんする誤同定を含む偽なる言明である可能性はあるからだ。それはつまり、□である私にとっては、〇と△が本当に別人であるかどうか(=二つの独立の「しかなさ」を生きているかどうか)は決してわからない、ということである。〇と△は、見かけに反して、実は一人なのかもしれないからだ。各人ごとに(ということは事実上は身体ごとにということになるが)誤同定の不可能な「私」が成立しているという信憑は、われわれの世界を構成する根本前提であるとはいえ、そうでないこともありうるという意味では約束事にすぎない。他我の存在様式にかんする真に本質を突いた懐疑論はここに打ち込まれるべきだろう。これを逆にいえば、なぜか一人だけ誤同定の可能性が真に存在しない(いかにしてもありえない)者が存在しており、先の約束事の意味(それが何を言っているのか)はその存在の仕方を範型(モデル)にしてしか理解されえないということである。そしてさらに、いま述べたこの仕組みそのものが一般化され、本質構造化されて、だれでもみな「なぜか一人だけ誤同定の可能性が真に存在しない(いかにしてもありえない)者が現に存在しており、先の約束事の意味(それが何を言っているのか)はその存在の仕方を範型(モデル)にして理解」している、という約束事が成り立つことになる。「なぜか一人だけ端的に……」というあり方を(その実存こそを本質化して)一般化しているわけである。このことがあらかじめなされているため、私自身がこのように語る(思う)とき、私は二種類の真理を重ねて語って(思って)いることになる。それによって端的な〈私〉の存在の側はもう一方のすでに一般化された真理に隠されて「語りえぬ」こととなる。これが独我論は語りえないということの真の意味である

*こう言うと、ウィトゲンシュタインもそういう意味でそう言ったのか、などと問う人が必ず出てくるが、そんなことはわからない。私が言いたいことは、彼もこのような意味でそう言ったのであれば彼の言ったことは正しい、ということである。しかし、これが独我論は語りえないということの真の意味だとすれば、ここには不思議なことが二つ重なって存在していることになる。第一はもちろん、現在における〈私〉の現実存在だ。なぜここ数十年(だけ)はこんな変なものが存在するのか。それは何なのか。第二は、その意味で〈私〉でない人々も、つまり他人たちも、その変なものを捉える際のやり方と同じやり方を適用していると見做さないと捉えられない、という事実である。その二つが重なって、後者が前者を隠してしまうわけだ。これを神の存在にかんする存在論的証明の場合と重ねて語ってみるとこうなるだろう。われわれはいわば存在論的証明が完全に成功してしまっているような(つまり神が定義上「存在する」とされているような)言語ゲームを最初からさせられているので、「なんと神は本当に存在する!」という驚くべき事実を語ることができなくなってしまっている、と。神の場合の存在論的証明は成功していないであろうが、われわれの場合の存在論的証明は世界構成の規約として前提されており、その成功によって問題なくその存在が語られている神とは別に真の神が(なぜか今は)存在している!というわけである。

8 とはいえ、どの身体が感じていようと、どの口から発せられようと、〇△合一体たるその人自身が感じているということは、その人自身にとっては疑う余地がない。という事実が存在しうることを、□である私は自分の存在の仕方を範型(モデル)にして理解し承認することができる(その経路を経てしか理解し承認することができない)ことに変わりはない。これはつまり、〇△合一体たるその人にとっては、そいつしかそもそも端的に感じる者(デカルト風にいえば端的に「思うもの res cogitans」)が存在しない、ということであり、そういう事実を受け入れる、ということでもある。ここに成立する「とっては・しかなさ」が、《 》で表現される《私》の本質である。これはその当人(ここでは〇△合一体)にとっては「とっては」という限定がない(あってはならない)ということを意味してもいるので、この「にとっては「にとっては」がない」という独特の矛盾的構造こそが《 》で表現されていることである、ともいえる。「とっては」付きの「しかなさ」という「とっては」と「しかなさ」のこの独特の結合は、そこにおいて本質的に異なる二種の世界像が合体していることを示している。逆にいえば、本質的に異なる二種の世界像が合体しているこの合成的世界像(われわれの世界がそれなのだが)には矛盾が内在しており、その矛盾を象徴的に表現しているのが「とっては」と「しかなさ」のこの合体なのだ、ということもできる。

9 このようにして想定可能なこの「とっては・しかなさ」もまたじつは無いことがありうるという点については、第5回に論じた通りである。ただ単純に「とっては・しかなさ」が無い場合ではなく、意識はあるのに「とっては・しかなさ」が無い場合を考えてみると、私以外のすべての人が(この例でいえば◇も▽も……)合して一人(一心別体)の人である場合がすぐに思い浮かぶが、その場合でもじつは一人であるその人(=彼ら)が(私のことを第二人称化して同類の他者と見なせば)誤同定による誤りの起こる可能性のない自己知を持ちうることになる(一体ぼっちのあいつの側ではなく大群のこっちの側がなぜか現に〈私〉だ、と)。もちろんそれは、私から見ればたんなる(「とっては「とっては」がない」だけの)たんなる「とっては・しかなさ」にすぎない。一心別体の彼らが私を本質において同型の他者(隣人)と認めない場合は、彼らが自分とは別に客観的世界の存在は認めていたとしても、ある意味ではやはり自分=世界と捉えているともいえるので、その場合には(森羅万象という意味での)世界については誤同定がありえないのと同じ意味で誤同定の可能性がない**。 

*この議論は〈私〉や《私》が時間的に連続することを素朴に前提にしている。その連続性を何が保証するかという点は、ここではまったく触れていないが、じつはここで論じている問題と同型の問題が関与してくることになる。その議論そのものではないが、それに関連する問題には段落12で少しだけ触れる。

**この場合、「私はだるい、思い出している、意図している、……」と言うよりも「だるさ、思い出し、意図、……が存在している」と言うほうが適切だろう。 

10  同型の他者(隣人)の存在を認めない場合は、その世界には矛盾(平板な世界像といびつな世界像との)がなく、そこに存在する唯一の主体は、客観的世界との対比において意識であっても、同型の他者たちとの対比において自分を唯一の現実的意識として捉えることができないため、自己意識をもつことはできない。自分であるというあり方をいったん一般化し、複数の「自己」の存在を認めて**、その唯一の現実的実例と捉えることができるのでなければ自己意識は生じない。もちろん、この把握には矛盾が内在している。複数存在するもののたんなる一例にすぎないにもかかわらず唯一の現実的な実例であるのだから。ここには矛盾する二種の世界像が輻輳しており、この矛盾ぬきには自己意識はありえない。 

*もちろん、そのように私が想定しているにすぎないという観点から見れば、それもまたたんなる(「とっては「とっては」がない」だけの)「とっては・しかなさ」にすぎないことになり、矛盾が入り込んでくるが。

**言い換えれば、いったん「ものごとの理解の基本形式」に収めて、ということである。最初の「同型の他者(隣人)の存在を認めない場合」は、物事の理解の基本形式に収まらないので、その意味で(「何であるか」の欠如のため)存在しないものとなるだろう。いったん「ものごとの理解の基本形式」に収めて、「その唯一の現実的な実例」のように(矛盾を含んで)捉えなければならないゆえんである。

11 この構造の不可思議さをひとことで言い表すなら、まったく理由なしに奇跡的に実存した〈私〉がそれゆえにこそ持つはずの例外的なあり方の特質を、すべての心、意識、主観、等々(とされるもの)があらかじめ持っていなければならない、ということである。それをさらに言い換えれば、まさにこの不可思議さそれ自体が、それらのそれぞれの心、意識、主観、等々に反復的に適用されて、そこから出発しても形式的・概念的には正確に同じあり方が成立していなければならない、ということである。自己の誤同定不可能性(自分自身を捉え間違えることのできなさ)はこの独特の構造に由来する問題であろう。だから、このことが一般的な事実として語られるときには、矛盾を含む重層的世界像がすでに採用されていなければならない。そしてもちろん、現実に採用されている! 一般的な意識の私秘性という考え方もじつはそうであったが、一般的な自己の誤同定不可能性の場合はよりあからさまに二つの世界像の重なりが象徴的に現れているだろう。 

*『世界の独在論的存在構造』の終章の中の「「私秘性」という概念に含まれている矛盾」という箇所を参照されたい。 

12 以上とほぼ同じことは時間における今(現在)についてもいえるので、そう読む場合のヒントを簡単に述べておく。まずは段落2の「言語的には、〈私〉と他の諸々の「私」とは、たまたま持っている偶然的諸属性の違いを除けば、本質的にはまったく同じものでなければならない……」の、〈私〉を〈今〉に、「私」を「今」に置き替えて、段落全体を再読していただきたい。段落3における「他者」を「他時点における今」に、「自分」を「現在」に、「客観的世界」を「B系列的な出来事連鎖」に置き替える操作と、段落4におけるその逆の操作については、段落4の末尾に付した注*においてすでに実行しているので、ここで再読していただきたい。重要なことは、この相補的構成によって、本文の議論にかんしては見間違いや聞き間違いの可能性が、注*の時間の問題にかんしては記憶違いの可能性が、それぞれはじめて成り立つという点である。この構成が成功していない場合、そもそもわれわれが現在理解している意味での知覚や記憶は成立しないといえるであろう。(例えば後者の記憶の場合でいえば、実際には過去の出来事を再現するような記憶表象が生起していたとしても、それを過去の出来事を再現している――つまり記憶である――と見なすべき理由は存在しないであろう。たとえそれが純然たる内的出来事であったとしてもそうであろう。段落5では、「第二人称」の代わりに、対象として見られている過去や未来ではなく、そこから世界が開ける起点としての過去や未来を、すなわち過去や未来における現在を考えていただきたい。段落6以降の「誤同定」をめぐる話は、本質的にはすべて「今」にも当てはまるとはいえ、個々に対応させてみる価値はあまりないだろう。しかし最後の段落11は、たんに〈私〉を〈今〉に置き替えるだけで、そのまま同じことがいえる。すなわち、「この構造の不可思議さをひとことで言い表すならなら、まったく理由なしに奇跡的に実存している〈今〉がそれゆえにこそ持つはずの例外的なあり方の特質を、すべての時点にあるとされる「今」があらかじめ持っていなければならない、ということである」と。つまり、端的な現実の今において(のみ)実現される独在的なA事実が、一般的なA変化の理解において先取りされていなければならないわけである。すると、端的な現実の現在においてはそれにさらに何が付け加わるのか、が謎となるわけだ(すなわち「独今論は語りえない」という問題が起こるわけだ)。もしこの構造がなければ、各時点に誤同定が不可能な今が存在することなど考えてみることさえできないはずだろう

*これらのことを時計の比喩を使って象徴的に表現するとこうなる。時計は文字盤とその上を動く針の二要素だけでは(動きはあっても)たんにB系列にすぎず、それだけでは「今は何時ですか?」を教える時計としての本来の機能を持ちえない。不可欠な第三の要素は、その針の動きを「今、見る」(今しか見えない)ことにある。それはもちろん端的な現実の〈今〉においてしかなされず(その誤同定は不可能であり)、だからこそ今が何時かがわかるのではあるが、にもかかわらず、その同じ「端的な現実の〈今〉において」が、その形式においては、いつの「今」においても、まったく同じ仕方で反復されるのでなければならない(それらにおいても誤同定は不可能でなければならない)。そして、このような反復によって構築されたものは、最初に「今見る」抜きに想定されたたんなる針の動きそのものとはまた別のものなのである。

 

Ⅱ 『自己意識と他性』の続き

 

13 今回は、最初に前回の落穂拾い的な議論をちょっとだけ膨らませておいて、すぐに『自己意識と他性』の前回の続きの箇所に入って行こうと思っていたのだが、前半の議論が思いのほか大きく膨らんでしまい後半を圧迫することになってしまった。それでも一応、予定通りの仕事に一歩だけは踏み込んでおこう。ダン・ザハヴィは続けて、この誤同定の不可能性の根拠を探って、「二つのさらなる論証」を与えている。まずは、その一つ目を取り上げたい。 

14 〝一、自己意識は基準となる自己同定の結果として生じることはない。なぜなら、これは無限背進に至るだろうからである。何かを自己自身として同定するためには、すでに自己自身について真であると知っている何かをそれについて真であると見なさなければならない。……自己認識のあらゆる項目が同定によっているという仮定は無限背進に至る。このことは内観を通じて得られる自己同定にさえもいえる。すなわち、内観の対象はそれを私であると直接的に同定するような特性を持っているのだ、という事実によって内観は識別されるのだ、と主張しても役に立たない。なぜなら、他の自己は決してそれを持つことはできないからである、つまりまさしく私の内観の私秘的かつ排他的な対象であるという特性を持つことはできないからである。この説明は役に立たないのだ。なぜなら、私がそれは私の内観の対象だと知っているのでなければ、すなわちこの内観をおこなっているのは事実であると知っているのでなければ、私は、それが私によって内観的に観察されるという事実によっては、内観される自己を私自身として同定することはできないからである。そして、この知は、もし無限背進を回避すべきであるならば、それ自体が同定に基づいていることはできない。〟(『自己意識と他性』17~18頁、Dan Zahavi, Self-Awareness and Alterity, Northwestern UP, 1999, pp. 7-8. 訳文はかなり変更を加えているところがある。) 

15 ここでザハヴィは、ひょっとするとそうとは自覚せずに、非常に重要なことを言っている。とりわけ「もし私がそれは私の内観の対象だと知っているのでなければ、すなわちこの内観をおこなっているのは事実であると知っているのでなければ、……」という(二か所の強調された「私」を含む)発言を、「他の自己」との対比においておこなっている箇所に注目したい。「それは私の内観の対象だと知っているのでなければ……」とはつまり、ただたんに内観の対象であっても仕方がないということである。最初から私の」でなければならず、最初から「事実である」のでなければならなのだ。この知は何らかの同定によっては得られない。これはつまり、タテ問題ではないという意味である。同定によってでは駄目なら、何によってなら得られるのか。彼はその答えを(myやmeをイタリックで強調して見せるだけで)概念的に明確に説明してはいないが、答えは一つしかありえない。すなわち、端的な「しかなさ」によってである。強調されたmyとmeはヨコ問題の存在を、すなわち独在性の介入を表現しており、つまりは〈私〉の存在を語っている。しかし、ザハヴィがそのことをはっきりと自覚していたかどうかは微妙である。なぜなら彼はこれに続けて、この自分の主張と同じことを述べたものとして、シドニー・シューメイカーの次のような文章を引用しているからである。(以下に再引用するのはその後半部である。) 

16 〝というのは、現前呈示された対象はφであったという意識は、すでにその対象を自分自身として同定していたのでなければ、ある人にその人自身がφであったとは告げないだろうからである。そして、ある人が自己知をすでに持っていたのでなければ、すなわち、これが自分自身であると示すために取られた、現前呈示された対象のどんな特性であれ、その人だけがそれらの唯一独自の所有者であるという知をすでに持っていたのでなければ、その対象を自分自身として同定することはできないであろう。〟(『自己意識と他性』18~19頁、Dan Zahavi, Self-Awareness and Alterity, Northwestern UP, 1999, p. 8. 訳文はかなり変更を加えているところがある。) 

17 もし、これまで私が論じてきたような問題の存在を考慮に入れなければ、ここでザハヴィとシューメイカーは同じことを主張していると解釈されるほかはない。しかし、私の考察はここにこそ楔を打ち込むものであった。この二人はじつは違うことを言っている。もちろん、「すでにその対象を自分自身として同定していたのでなければ……」と言われる際の「すでになされている同定」は「しかなさ」によってなされるほかはない。しかし、このことが「ある人が……これが自分自身であると示すために取られた、現前呈示された対象のどんな特性であれ、その人だけがそれらの唯一独自の所有者であるという知をすでに持っていたのでなければ……」(強調は引用者)と言い換えられている以上、それは最初から「とっては・しかなさ」として捉えられていると考えざるをえない。すなわち、〈私〉の存在ではなく《私》の存在を語っている。時間論用語を使って語るなら、これはいわば同じ事実についてのA系列的表現とB系列的表現の違いなのだともいえるが、より精確に(私自身の用語を使って)表現するならA事実の存在から出発している表現とA変化の存在から出発している表現の違い、すなわちA事実的表現とA変化的表現の違いなのだ、と表現すべきだといえる。

18 この問題についての詳しい議論は次回におこないたい。二人の差異を、第三回の「落穂拾い1」で論じた、マクタガートによる「現在である」の「現在において現在」への書き換えによって生じる差異と重ね合わせて考えてみたい。

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著者略歴

  1. 永井均

    哲学者。1951年東京生まれ。慶応義塾大学大学院文学研究科博士課程単位取得。信州大学教授、千葉大学教授を経て、現在、日本大学文理学部教授。専攻は、哲学・倫理学。幅広いファンをもつ。著書多数。