web春秋 はるとあき

春秋社のwebマガジン

哲学探究3 永井均

第5回

「クオリア」と「ゾンビ」の真の(隠された)意味

 

Ⅰ 実のところは何を懐疑しているのか

 

1 この連載は、ということは本になったときにはこの本はということだが、ただただ前回(や前々回)の落穂拾いを続けるだけで進んでいけるような気がしてきた。これは哲学的思索に固有のことがらかもしれず、興味深い事実であると思う。それと同時に、段落番号が最初に「まえがき」に書いたような用法とはまた別の用法で使えることがわかって、これも意外なことであった。が、考えてみれば、これは当然のことなのかもしれない。哲学の議論は直線的には進まないからだ。ある新たな議論からは必ず複数の議論が派生することになるが、それを直線的に書いていくことはできない。Aという議論からBもCも派生するとき、これをA、B、Cという順序で書くわけにはいかない。たいていの場合、Bからはまた別の議論が派生して議論が進んでしまうので、Cを差し挟む余地はなくなるのだ。このCにあたることを(文字どおり落穂拾い的に)後から思いつく場合も多いが、最初から思いついていても、やはりそうなのである。だから哲学書は、このように段落番号を付けて、落穂拾い方式で進んでいくのがよいやり方であるように思えてきた。

2 というわけで、今回もともあれまずは落穂拾いふうに進んでいこうと思う。まずは前回の段落6の注****について。そこにこうある。「他人はじつはゾンビであっても(なくても)、まったくかまわない。そんな違いを超えて、ともあれなんと他人ではないか! 驚き(タウマゼイン)は何よりもまずそこに結集されねばならない。」これはまったく正しく、ぜひとも強調しなければならないことではあるのだが、その後でなされた議論を前提してよいなら、この点についてもさらにもう一歩進んだことが言えるはずだろう。それはすなわち、他人がじつはゾンビである(あるいはない)ということの真の意味は、じつのところは「そんな違いを超えて……」としてそこに語られている問題の側から意味が与えられ、それ以外には意味を与えることができないような事柄なのではないか、ということである。すなわち、そこで「ともあれなんと他人ではないか!」といわれているような意味での自他の差異が、他者自身においてもまた(ということはつまり、その他者とその他者にとっての他者とのあいだにもまた、ということだが)もういちど適用できるような形式をその他者自身が備えているかどうか(すなわちその他者もまた《私》であるとはいえるのか)という問題としてしか考えられないのではないか、ということである。

3 このことは前回の末尾に近い段落21と段落22で明言されていた。段落21では、「ある他者(生きた人体)にはそれが無いかもしれないと疑うことは有意味であろう。それは、そこから開ける(私には感知できぬ)それがすべてでそれしかない世界の存在を疑うことである。これはつまり、私と他者のあいだに現実に存在する断絶を、概念化された仕方で他者の内部で再現してみることである。それは可能である。」と言われており、段落22では「同様にして、過去にかんしてその時の現在がなかったのではないかと疑うことに意味の与えようがないとはいえない。それはただ、その時点においてはA事実が消滅していた、すなわち「その時しかなさ」が存在しなかった、と想定するだけでよい。」と言われていた。ついでにいうと、それに続く最後の段落23では「年表のような時間軸上を〈現在〉が移動して行くはずなのに、「その動く現在は現在はどこにあるのか?」という問いが立てられてしまう、という現在概念の二重性をめぐる問題も、この議論の観点から答えられるであろう。さらに、〈私〉が時間的に持続するという不可思議な事実にも、この考察の観点から一定の示唆が得られるのではないだろうか。」とも言われていた。今回はこの最後の二つの問いに直接的に答えることはできないが、そのための基盤を整備することはできるであろう。あらかじめ方向性を述べておくなら、現在概念が二重性をもつのは〈今〉が実際に二重のあり方をしているからであり、〈私〉が時間的に持続できるのはそれと同種の〈私〉の二重性に基づくことによってである、ということになるであろう。

4 ある意味では、問題はまったく簡単である。「私と他者のあいだに現実に存在する断絶を、概念化された仕方で他者の内部で再現してみること」が可能であることは、すでに前回の議論で確認されているからだ。当然、「過去にかんしてその時の現在がなかった」可能性を考えることもできることになる。それはただ、その時点には「その時しかなさ」が存在しなかったと想定するだけでよい。さてしかし、他時点にかんしてその時点における「その時しかなさ」の存在を疑ったり、他者にかんして「そこから開けるそれがすべてでそれしかない世界」の存在を疑ったりすることは、簡単なことであろうか。ある意味では、それは簡単ではない、どころか、不可能である。なぜなら、そもそも「その時しかなさ」がないからこそその時は他時(現在ではない時、すなわち過去か未来)なのであり、もしそれがあったならその時は現在になってしまうであろうし、「そこから開けるそれがすべてでそれしかない世界」が存在しないからこそそいつは他者なのであって、もしそれが存在しているならそいつは私になってしまうだろうからだ。しかし、別の意味ではこれらは必ず可能でなければならない。今度は、そうでなければそもそも他者や他時になれないからである。他者とはその人における私のことであり他時とはその時における今のことだからである。それらはいずれも(その人における、その時における)「しかなさ」によって成り立っている。じつはそれしか与えられていないから、そいつは私なのであり、その時は今なのである。だから、それらには現実の「しかなさ」はないにもかかわらず、想定上必然的に「しかなさ」の形式を備えていなければならないのだ。じつはそういう形式を備えていてもいなかったとしても、外からはまったく判別がつかないとしても、正常な場合には必ずその形式を備えていなければならず、したがって、正常に備えている場合とじつは備えていない場合とのあいだにははっきりした違いがあることになる。

*決してわからないというのは、現実の〈私〉や現実の〈今〉から見てわからないということであるから、まったくあたりまえのことでなければならない。そこにそういう根源的な断絶が存在することはここでの議論の大前提である。ここで興味深い点は、いまここで考えられている《私》や《今》にかんしても、想定上、それとまったく同じことがいえるのでなければならない(そのような《私》や《今》の成立そのものについて考えている)ということである。同種の「決してわからなさ」があちら側からも成立していると考えなければならない、そのなければならなさについて、ここでは考えているわけである。

5 したがって、その形式を備えていると想定されてはいるがじつは備えていない場合、という言い方で理解されうるものに、次の二種類が区別されねばならない。①外から見える特徴によってそれを備えているように見えるだけでなく、その形式そのものも形式としてはちゃんと備えているのだが、その形式がじつはたんなる形式だけで(その形式が要求しているはずの)中身がなぜかじつは満たされていない場合と②外から見える特徴によってあたかもそれを備えているように見えるだけで、その形式そのものをじつは備えていない場合との二種である。この分け方できっぱりと二種に分けられると見なすのはじつは単純すぎる見方なのではあるが、ある程度は単純化しないとそもそも何を問題にしているのかさえさっぱり理解してもらえない可能性があるので、ここではむしろそちらを懼れて、一応この分け方に従って語るとするなら、ここで考えられているのはあくまでもこの②の場合であるといえる。なぜなら、①のような場合は、そもそも他者や他時であるかぎり当然そうでなければならないことであるから、といえるからだ。もしこの「しかなさ」の形式が、形式であることを超えて、その要求どおりに十全に満たされてしまえば、その人は他者ではなく〈私〉になってしまうし、その時は他時ではなく〈今〉になってしまう、といえるからである。最終的にはこのような(=直前のセンテンスで言ったような)ことがいえるという点が、この問題を考察するうえではきわめて重要ではあるとはいえ、ここで考えているのは、あくまでもその人における〈私〉やその時における〈今〉という問題なのだから、①のような意味では満たされていないことはむしろ自明の前提でなければならない**。これに対して、②のような意味での欠如があるかどうかは、かりにそれを最終的に検証したり反証したりすることは不可能だとしても、「疑う」ということのある意味においては、もしかしたらある他者や他時はそうかもしれないと疑ってみることが有意味に可能であり、そうである場合とそうでない場合との違いもまた考察に値する問題として存在するわけである。

*なぜなら、ここで問題になっている形式とはある特定の種類の内容で満たされているという(まさにそのことの)形式だからである。それゆえ、その内容が形式的にしか満たされていない場合でも、当然のことながら、ある意味ではそれはちゃんと満たされていることになり、この事実によってこの二種のあいだに累進関係が成立することになるわけである。たしかに、最終的・究極的には完全に満たしている特別の場合が存在している、と言えはするのだが、そしてその事実は破格に重要ではあるのだが、それがどこで実現しているかは、人により時点により異なっており、決して客観化・一般化・平板化することができない。という意味においてはやはり、どこまでも形式的にしか満たされえない(だからここにはもともと累進構造しかないのだ)ともいえるわけである。問題のこの構造を明確に理解したうえで、そのうえでやはり①と②の区別に訴えるべき必要性をここでは理解していただかねばならない。

** とはいっても、この言い方がやはり不十分であるのは、前注*に述べたとおりである。

6 この①と②の違いが、前々回(第3回)に論じた、哲学的懐疑論はそもそも何を懐疑しているのかという問題や、前回(第4回)に論じた、私の問題提起はなぜか必ずある特定の仕方で誤解されるという問題と深く関連していることは、だれの目にも明らかであろう。しかし、それは精確にはどのような関連であろうか。まずはそれを探ってみよう。

7 前々回の段落13では、私は次のような趣旨のことを言っていた。他人はもちろんゾンビかもしれないし人間そっくりのロボットかもしれない。が、そのような異常なことがまったく起きていない、まったく正常な場合でも、やはり他人と他人でない人(すなわち私である人)の違いは存在している(また存在していない時もある)。そういう何も異常なことが起きていない場合、他人である人と私である人のあいだには、他方はなんとゾンビであるといったような根源的な違いが何もないにもかかわらず、どうして他人であることと私であることという、きわめて根源的な違いが生じうるのだろうか。何がこの違いを生じさせているのだろうか。何がこの違いを生じさせうるのだろうか。他人はもしかしたらゾンビかもしれないといった問題の背後には、この問題が隠れているのでなければならない。もしそうでなければ、ゾンビ問題は、たとえそれがたしかに疑いうる懐疑だとしても、とくに哲学的な意味があるそれだとはいえないだろう。問題の出発点は、人間という同じ種類の者たちのうちに、なぜか私であるというあり方をした者と他人であるというあり方をした者(というあまりにもあり方の異なる者)が存在するということにあるのでなければならない。他人の心の存在に対する懐疑論である他我問題が、一般的な問題として問われる際にも、実のところは背後にこの問いが隠れていなければならないはずである。

8 これに対して、いまここで新たに問おうとしていることは、他人はじつはゾンビかもしれないではないかという懐疑は、たしかに①を背景としなければ意味をもたないのではあるが、それはその問いが(①から派生した)②の問いだからなのではないか、そしてじつはそれ以外の仕方では他我問題などありえないのではないか、という問いなのである。他人たちが①の意味において「しかなさ」を欠いているのは(そうでなければ他人ではありえないのだから)たんにあたりまえのことであるとはいえ、①の意味においては「しかなさ」形式を十全には満たしていないこととはまた別に、もしかするとそれが成立しうる形式そのものを②の意味において欠いているのではあるまいか、と疑うことは、(形式的に見れば①にあったものをそのまま使いまわしているだけであるとはいえ)①そのものの問題とはまた異なる意味をもつ、独立の疑問となりうるのではなかろうか。①のような事実が生じていることは、たしかにどこまでも不可思議なことではあるのだが、それをすでにして既定的な事実として前提してよいなら、その不可思議な事実そのものを「範型」として、そこから出発して(それを形式化して)成立した②の形において、改めてその形式の欠如を疑うことは意味を持ちうるはずなのである。それはいわば「他人は私ではないのではなかろうか」と問うことであるから、ある意味ではまったくあたりまえのことを問うているとも思われるとはいえ、そう思われる際に前提されている形式をそのまま他人にあてはめて、そう思われる際の「私である」ということがもたねばならない形式そのものを、その他人はじつは欠いているのではあるまいかと疑うことは十分に意味のある問いであるはずなのだ(なぜなら他人とはその形式を備えているとの了解のもとに成立しているあり方だからである)。もちろん、この疑いを私が私自身に対して持つことは不可能なのであるが、その不可能性が成り立つ際に成立している現実的な中心性を仮想的に他者の側に移してみて、それが成り立つために不可欠な形式そのものが(つまり現実性ぬきの中心性が)そこでは成立していない可能性を考えてみることができるわけである。言い方を変えれば、それは他者が(もちろん〈私〉ではないとはいえ)《私》ではありえているのかを疑うということだ。そしておそらくは、この形式を備えていないということこそが、通常「ゾンビ」という語によって哲学的に問題にされることの真の意味なのである。平板な(平面的な)実在性の水準においてはクオリア(感覚的要素)の欠如として表象されてきた事実は、実のところは、いびつさを含む(立体的な)現実性の水準においてはじめて意味をもつ「しかなさ」形式の欠如を意味していると考えねばならない

*すなわち、意識を成立させている諸要素のうちから直接に感じられる感覚的な質の成分だけを取り出すという側面はじつは必要ないということである。「クオリア」概念はじつはそれとは別の側面をあわせもっており、そうでなければそれはこの懐疑論においてはたらきをもちえない(ということをこれから論じていく)。また、それとは別のことだが、この②の形式の問いであれば、まったく一般的に、つまり他者同士のあいだでも、そのまま成り立ちうるのは当然のことだといえるだろう(すでに形式化された後の、その形式の有無の問題であるのだから)。

9 もう一つの、前回の段落6においては、私は次のようなことを言っていた。今度はそのまま引用しよう。「私の問題感覚を先鋭に(=他と混同されないように)取り出すには、すでにたくさんの中心性が存在しているのだが、なぜかそのうち一つだけが現実的な中心性であること、なぜかそういう変わったものが(現在は)存在していること、そのことに論点が絞られねばならない。すなわち、なぜ他人にも中心性があるとわかるのかといった認識論的な問題意識をそこから切り離さなければならないのだ。この存在論的な現実性への驚きは認識論的独我論の問題感覚とはまた別のものであること、これが私が言いたいことである。」これは要するに、①の問題提起が②の問題設定に読み換えられてしまうことに対する告発にほかならない。そこでは、それは人々が「ものごとの理解の基本形式」に即座に従ってしまうことによって引き起こされるとされている。そして①は②とはまったく違う問いなのだということが強調されていた。その段落の最後の注****ではさらに次のようなことが強く主張されていた。「私の問い」は「他人はもしかしたらゾンビかもしれない等々といった種類の問題とは異なる水準にある」、「他人はじつはゾンビであっても(なくても)、まったくかまわない。そんな違いを超えて、ともあれなんと他人ではないか!」と。

10 これに対して、いまここで新たに問おうとしていることは、他人はじつはゾンビかもしれないではないかといった懐疑論は、たしかに①とははっきり区別されねばならず、にもかかわらずまた①を背景としなければ哲学的な意味をもたない問いでもあるのだが、そうであるのはそれが(本質的に①の問いからの派生態としてしか意味を持ちえない)②の問いだからなのではなかろうか、という問いなのである。これまでそう理解されてきた「クオリアの欠如」という側面からこれを捉え返すなら、この問題は、たしかに平板な(平面的な)世界理解においては第0次内包レベルにおける感覚的な質の欠如と解釈されざるをえないとはいえ、じつのところは、平板な(平面的な)世界理解の内部ではそもそも理解不可能な、それを超えたいびつな(立体的な)世界理解において初めて理解可能となる、「無内包の現実性」としての〈私〉(およびその概念的理解としての《私》)の成立とその欠如にかんする問題にほかならないのではあるまいか、という問いなのである。比喩的に語るなら、クオリア(感覚質)とは立体的な事実が平面へ投影された姿でしかないのではあるまいか、ということである。

 

Ⅱ 「クオリア」とそれを欠くとされる「ゾンビ」の真の(隠された)意味

 

11 そもそもクオリアとは複数の人間(や動物など)がただ並列的に存在しているという平板な世界理解の内部に位置を持ちうるものなのであろうか。実際のところ、痒かったり青く見えたり甘く感じたりするといったことは、世界中にどんなにたくさん起こっているとしても、なぜかそのうち一つ(一系列の連鎖)しか経験できないというあり方をしており、そういうあり方をしているほかはないだろう。そしてこれは、じつのところは、痒かったり青く見えたり甘く感じたりするといったことだけでなく、かつて自分の身に起こったことを思い出したり、これからの身の振り方を考えたり、複雑な計算や推論をしたりすることにかんしても、それを自分がしている(それが自分に起こっている)という面においては同じことであろう。いま言っていることは、私自身のことを念頭に置いてだけ言っているだけではなく、またこれを読んでいる読者それぞれの実存に訴えて言っているだけでもなく、読者のだれから見てもまったく平板な(平面的な)あり方をしているように見える、たとえば18世紀の地球世界などを考えても、やはりそうなのではないか、と言っているのである。すなわち、クオリアというものはそもそも、各主体がそれぞれ対等にもつというあり方で存在することが不可能なあり方でしか存在できないものなのではあるまいか、ということなのである**

*そこには〈私〉という同一平面からの異様な突出体が存在していないから、平板(平面的)な世界なのである。もちろん、そのような世界にいる《私》たちも、各人にとってはやはり(そいつだけが自分であるという)突出的なあり方をしていざるをえない。それ以外のあり方はできないからである。しかし、それにもかかわらず、そのあり方はじつはそのようなあり方はしていないのではあるまいかと疑われるうるようなあり方でもあるのだ。

** 念のためにしつこく確認しておくが、ここで「そのうち一つ(一系列の連鎖)しか経験できない」とは各人がそれぞれ平板に(対等に)私秘性をもつことになるという意味ではなく、その逆に、そういう並列的に私秘的なあり方をするということ自体がそもそも不可能ではないか、という意味である。「突出」という語を使って表現するなら、みんなが対等に並んで「突出」してしまったらもはや「突出」ではなく平板になってしまうが、幸か不幸か、そういう平板なあり方は私秘性の本質からしてもじつはそもそも不可能なのではないか、ということである。

12 同じことを、第一基準という観点から言い直してみよう。18世紀であろうといつであろうと、人間はだれでも、第一基準によって自己を他から識別していたであろう。第一基準とは、『世界の独在論的存在構造』の第7章で新たに定式化された形では、「現実に物が見え、音が聞こえ、現実に思考し、想像し、現実に思い出したり予期したりする人」である。そこでは、「これらの志向作用の対象(見えているものや、考えられているものや、思い出されているものなど)がその志向的意識(見たり、考えたり、思い出したりすること)に内在しているかどうか(とかその種の問題)は問題にされていない。そういう志向的意識を持つとされる多くの者たちのうち、現実にそれを持つ者(とそうでない者)がいるということだけが問題」なのだとされていた。ということはつまり、第一基準による自己の識別とは、現になぜかそのクオリアが与えられてしまっており、なぜかそれ以外は与えられていない、という事実による識別だといえる。ここで「クオリア」というのは、意識の感覚的成分のことではなく、思い出したり計画を立てたり推論をしたりするといったことにおいてもまた必ず伴っていなければならない、それが自分に起こっているという事実のことである。それがなければ自分がそれをしている(自分にそれが起こっている)ことにならないからだ*。それゆえ、もし心的事象を質的成分と意味的成分に分けるなら、後者であってもかまわない。 

*ここで「自分」というと、今度は自己意識の成立が必要なのではないかと思う人も多いようだが、そのようなものはまったく必要ない。自己意識はむしろ、平板な(平面的な)世界理解を超えた「なぜかこいつだけが……」という「突出」の事実を平板な(平面的な)共通世界に位置づけるための独特な装置だと考えられるが、その問題については次回以降に詳述したいと思う。 

13 絵画の比喩で言えば、絵画はすべて絵具による色の配置からなりたっているが、それが前者の質的成分であり、それの集まりが合して向日葵なり富士山なりを表現しているなら、その向日葵や富士山が意味的成分である。われわれの心的事象もまたこのように成分分析できると見なした場合の前者の成分がクオリアと呼ばれることが多いが、われわれがいま考えている「クオリア」はそういう通常の理解に於けるクオリアとは異なる。このことを、意味的成分には意味的成分のクオリアがある、と表現してもよい。たとえば推論することにおいては(痒みを感じることや酸っぱく感じることなどとは違って)質的成分は本質的な役割を果たさない(どんな質が伴っていようとそれはその推論の本質と無関係である)から、その意味ではその成分は存在しなくてもよいといえるが、自分が推論しているとわかる以上、この意味でのクオリアは必ず存在していなければならない。推論においては感覚的成分の場合とは異なる自発性という働きが自己性を形成すると見なす議論もありうるが、たとえそうだとしても、それはだれの推論においてもそうであるのだから、他者ではなく私がしている推論であるとわかるためには、そのようなこととはまた別の何かが必要不可欠なはずだ。その点において、問題の構造は質的成分の場合であっても意味的成分の場合でもまったく変わらない。いずれにせよ、たくさん存在している意識主体の意識経験のうち、どの主体の意識経験がただ一つ現実に体験されるかという問題が、いいかえれば平板な世界理解を超えた「突出」の事実が、ここに介入してこざるをえないわけである。

14 この事実を「(それ)しかなさ」といういわばネガティヴな形で表象することもできるが、するとこの「しかなさ」はクオリア(として捉えられてきたことがらのある重要な一面)と同じことを表現しているといえることになるだろう。第一基準は、この意味でのクオリアの存在に依存して成立しており、それが存在しなければ第一基準はそもそも発動不可能であるといえるだろう。重要なのはその点なのだ。しかし逆に、クオリアさえあれば第一基準は発動されうるとはもちろんいえない。なぜなら、それは第一基準というものは「私」という語をどのように使用するかという語の適用にかんする基準だからであって、その成立水準で考えれば、クオリアがあっても何らかの言語的な理由で第一基準が適用できないことはありうるのは当然のことだ。

*前に使った比喩でいえば、前者が立体的で後者がその平面的投影である。

15 しかし、自己識別の基準としての第一基準は、人間に於けるように語の適用基準として、いわば自己意識の成立基準のように働いてはいなくても、たとえば意識あるものとして理解された犬や猫のような動物においても、彼らが自分を他者からは識別しえていると考えられるかぎり、必ず暗に(つまり非言語的な仕方で)はたらいていると考えられる。それは「私」という語の適用基準ではないにしても、それでもじつはやはり「私」の識別基準ではあって、「私」というあり方の本質をむしろそのように(つまり反省的自己意識の成立とは無関係に)捉えるほうが適切であろうと思う。すでにちょっと触れたように、反省的に成立する自己という概念は平板な世界理解を超える事実を平板な世界理解に馴染ませる(=平板な世界理解において有効にはたらく言語というしくみによって何とか表現させる)ための独特のしくみなのだと思う**

*おそらく、サルトルが「前(非)反省的」と呼んだ意識の本質理解は、じつはこのことを捉えていたのだろうと思う。それは、平板に捉えられた一つの共通世界には収まらない(収められる以前の)ある事実を表現しようとしていたに違いない。ともあれある一つが他から突出して「それしかない」あり方をしており、それが後から「反省的」に他の人々と相並ぶ「自分」として共通世界内に位置づけられる、ということこそが捉えられていた問題の実相であろうと思う。

** すでに述べたように、この問題については次回以降に詳述したい。

16 その点を明らかにするために、今度は、このような《私》のはたらき方のある一面を、倫理学上の一つの議論から眺め直してみよう。R. M. ヘアは、「他人の立場に身を置く」という彼の倫理学の方法論を語る際に、A氏が「AがBであったならば……」と想像することは不可能だが「私がBであったならば……」と想像することは可能である、と前提していた。これはA氏という人が自分を捉える際に、A氏という人間(人格同一性)として捉えるだけでなく、いわばそこから世界が開ける唯一の原点としても、つまりは第一基準を適用しても捉えているし、そう捉えざるをえない、ということを物語っている。それゆえ、「私がBであったならば……」と想像するとは「世界がそこから開ける唯一の原点が(現実にはAであるが)もしBであったならば……」と想像するということを意味するだろう。このときBにはもとのAが持っていた要素は少しも持ち込まれないことになるが、実際問題としてはこれは不可能であろう。しかし、これはいわば論理的には可能であり、実際問題としてもできるだけ近づけてみることが可能であると考えられている。いまここでのわれわれの暫定的な用語法をいささか強引にこの事態に適用するなら、それはクオリアがAからBに移ることだ、といえるだろう。その用語法の可否は別にして、ここでぜひとも確認しておかねばならないことは、われわれはこのような想定ができる者としてしか人間というもの(たとえばここのA氏)を捉えることができない、ということである。それはつまりは、自分自身をまずは第一基準で捉えている者としてということだ。「私」という語は、文法上も(つまりまったく客観的に)その用法で使われており、ヘアのような種類の思考実験**などをしていない通常の場合でもつねにそうであって、そうであるほかはありえないのだ。

*拙著『倫理とは何か――猫のアインジヒトの挑戦』の第六章⑮も参照されたい。

**思考実験にかんしていえば、ゾンビの人は、このヘアのような思考実験もだが、たとえば分裂の思考実験のような、独在性に関連する思考実験の意味が、理解できないことになる。知的・概念的にも理解ができないことが生じる、という点が重要な点だ。ここに、感覚的な成分が欠けていることとはまた違う種類の問題の存在を見て取っていただきたい。いいかえれば、ここには第0次内包的な諸問題に関連する事柄とはまた違う無内包的な問題に関連する事柄が関与していざるをえないことを。

17 実をいえば、人間だけではなく、意識あるものとして考えられた犬や猫の場合も、やはり同じことだろう。ここではそれほど詳しく論じることができないが、以上の考察からむしろ、犬や猫にかんしては通常理解される意味での「哲学的ゾンビ」が十全な形で想定可能であるが、人間にかんしてはある特殊な意味において十全な形でのゾンビが想定できないことになるのではないか、と考えられることになるだろう。犬猫ゾンビは、ふつうの犬猫と外からはまったく区別がつかないことが可能であるが、人間ゾンビは「私」(や「今」)という語を正しい文法に従って(すなわち第一基準を言語的に適用して)使用することができない可能性が生じるからである。動物たちは、じつはこのやり方で自己を識別していなくても外から見ていふつうとまったく同じように振る舞うことが可能だが、人間は、じつはこのやり方で自己を識別できていないと、外から見ても人間的に振る舞うことができない(とりわけ「私」や「今」という語を文法的に正しく使えない)可能性が生じるだろう

*まずは、これを「私には甘く感じられる」というようなことが言えないといった、第0次内包の水準でその存在が疑われる欠陥と区別することが重要である。ここで重要な哲学的論点は、われわれが「私」という語をもしゾンビだったら従えないような特殊な文法に(客観的に)従って使用しているという点にある。この場合、たとえば外見上「私」という語をふつうに使ってヘアのような思考実験を語るゾンビが存在したとしても(あるいはそういうロボットが設計できても)それはかまわない。彼らが何をしていることになるか、何をしている必要があるか、が言語(哲)学上の興味深いテーマとなる、ということである。

18 ある一つが他から突出して「それしかない」あり方をまずはしており、後からそれが他と相並ぶものとして共通の地平に置き直されていく、というあり方の必然性を、いいかえればこの独特の〈一者の突出の不可避性〉と〈対等突出の不可能性〉の仕組みを理解するには、人間世界のあり方を考察するよりも時間のあり方を観察したほうが手っ取り早いかもしれない。さて、まず、じつはこの今しか存在しない。これは端的な事実だ。第三回の最初の落穂拾いにおいてマクタガート解釈と絡めて比較的くわしく考察したように、これは、この今においてはこの今しか存在しない、ということではなく、端的にこの今しか存在しない、ということである。そういう突出者、それ「しかない」ものが存在しなければ時間というものは存在できない。まずはこの事実を――端的さの水準で――驚きをもって受け止めていただきたい。その後で、この事実は、形式的には、どの時点にかんしても同じようにあてはまるのでなければならないという事実に、もう一度――しかしこんどは別の驚きを――驚いていただきたい。二つ目で重要なのは「驚き」よりも「別の」である。そして、それだからこそ(=これが「別の」だからこそ)、前段落で提示された問題はここでもやはり成り立つのだ、ということを理解していただきたい。1721年にいる人が「1721年が2021年だったならば……」と考えることはできないが「今年が2021年だったならば……」と考えることはできる。これは、1721年の人が「今年」を捉える際に、1721年という年の特徴によって捉えるだけでなく、そこから世界が開ける唯一の原点としての「今」がある年としても捉えているし、そう捉えざるをえないということである。その際のわれわれの暫定的な用語法をここでもあえて適用してみるなら、これをクオリアが1721年から2021年へ移る、と表現することができるだろう**。ここでもまたぜひ確認しておかねばならないことは、われわれはこのような想定が可能なものとしてしか「その時」(たとえば1721年)というものを捉えることができない、ということである。しかし、まさにそれだからこそ、つまりそうとしか捉えられないにもかかわらずそれがじつは捉え方にすぎないからこそ、その捉え方の否定としての「今ゾンビ時」もまた想定可能なのである。

*繰り返すが、ここでのポイントは、この「今年」は1721年における「今年」であり、現実の「今年」ではない、という点にある。その場合にのみ「今ゾンビ」の懐疑が可能な形式が成立することになるからだ。②は①と意味上の本質的な繋がりを保持しながらも画然と区別されていなければならないということである。この議論の構造には色々な点で味わうべき妙味があると私は感じるが、どうだろうか。(私の哲学というものに対する印象を語るなら、哲学は反論不可能な議論を構築することを目指すようなものではなく、むしろ妙味のある一つの視点を提示することを目指すべきものであると思える。)

** それはもちろん、〈しかなさ〉が1721年から2021年へ移るという事を意味している。

19 「今ゾンビ時間」とは要するにA系列の存在しないB系列だけの時間、つまり現在が存在しない相対的な前後関係だけの時間である。端的な現在そのものは現にあれば必ずあるので(そもそもが見かけ存在であるから)現にないと想定することが(まさにデカルト的意味で)できないから、ないと想定できるのは想定されたそれらだけであることになる。じつは、端的な現実の現在以外にはそれぞれの現在というものはなく、ただただより以前とより以後の相対関係があるだけなのだ、とみなすことは可能であろう。その場合、(ちょうど「私」という語がその語が発せられる口の付いた人を指すことになるように)「今」という語はその語が発せられるその時を指すことになるだろう。そういう世界に存在する犬は、もちろん今ゾンビ犬となるだろうがふつうの犬との区別はつかない。だが、そこに存在する今ゾンビ人間は「今年が2121年だったならば……」などと語ることは(もちろん考えることも)できない**。またタイムトラベルは、人間がそれを考えることができないというより、その世界はそもそもタイムトラベルのような可能性が(可能性そのものが)原理的にありえない世界であることになるだろう***。ここで重要ことは、それはヘアが考えたようなこと(や分裂の思考実験などなど)のような種類のことが不可能であることと同じ種類の問題であるということである。ここに同種性を見て取ることが何よりも重要だろう。そして、そこにこそ「ゾンビ」という語の真の(隠された)意味があり、「クオリア」という語の真の(隠された)意味もそこに見て取られねばならないと思う。

*端的な〈私〉が存在する以外には、《私》たちは存在しない、と見なすことが可能であるのと同様に。

**ここでこの注を付けるのはあまり適切な場所だとはいえないが、ここで言いたくなったのでここで言っておくなら、われわれはみな〈今〉を語るが、それはつまりそこにおいて〈今〉の存在という無内包の現実性(アクチュアリティ)であるはずのことが言語という実在的(リアル)でもあるもののうちに表れ出てしまうということであり、同じことはもちろん〈私〉についてもいえるので、結局のところわれわれは、いわば語りえぬ(ただ示されるべき)ことを語って生きる生き物であることになり、それだからまた、語りえぬ(ただ示されるべき)ことの欠如もまた欠如として表れ出てしまうことになるのだろう、と思われる。

***タイムトラベルとは現在というものがふつうと違う仕方で移動することなのだから、現在なしにはありえないのはあたりまえのことにすぎないが。

20 今回の議論を簡単にまとめるならばこうだ。ゾンビがそれを欠くとされる(その意味での)クオリアなるものは、じつは平板な(平面的な)世界理解の内部にはそもそも存在できず、いびつな(立体的な)、すなわち独在性をともなう世界理解においてはじめて存在するものなのだが、まさにそれゆえに、それが概念化・形式化された際には、その非存在が疑われうることにならざるをえない。しかし、その存在と非存在の差異はそもそもが無内包の現実性にかんするものなので、(それをあえて語ってしまう)言語が介在しないかぎり、外から見れば在っても無くても同じことであり、どこにも表れ出てこない。

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 永井均

    哲学者。1951年東京生まれ。慶応義塾大学大学院文学研究科博士課程単位取得。信州大学教授、千葉大学教授を経て、現在、日本大学文理学部教授。専攻は、哲学・倫理学。幅広いファンをもつ。著書多数。