名優・山崎努が振り返る自らの「代表作」とは
山崎努 撮影/渡邉智裕
「守一さんを知ったのはたぶん20〜30年前。いつの間にかその存在は知っていて。伝記を読むとね、彼と共通するところがあるんです。画家なのに“絵を描くのはあんまり好きじゃない、遊んでたほうがいい”と言ってたり。僕も怠け者なんでね(笑)」
と語るのは、日本を代表する名優の山崎努(81)。現在公開中の『モリのいる場所』で、『死に花』以来14年ぶりに映画主演。97歳で亡くなった、モリこと実在の画家・熊谷守一を演じている。
舞台は、1974年のある夏の日。草木が生い茂り虫や生き物がすむ自宅からここ30年は外へ出たことがなく、日がな1日、庭のあちこちを見て歩くことが日課という94歳の自由人・モリの姿を描く。
「沖田修一監督が“庭”を作品のテーマの中心に持ってきたというだけあって、素晴らしい出来栄えで。撮影が終わったら元に戻してしまうと聞いてね、もったいないなと思って、撮影後に庭の見取り図を描いたりしたんです。
というのも僕、地図とか描くのが昔から好きなんです。子どものころは日本地図を描けたし、今でも案内図を描いたり。なぜ好きか? 聞かれても困っちゃうよ(笑)。でも、この作品は共演者もスタッフも素晴らしかったけど、あの庭には本当に感動しました」
守一の妻を演じたのは樹木希林。先輩の山崎とは在籍時期は違うものの、同じ文学座の出身。長年数々の作品に出演しているふたりだが、意外にも今回が初共演だった。
「この年になっても、初めて共演する人、結構多いんですよ。守一さんと一緒で、怠け者で仕事しないからだと思いますけど(笑)。希林さんは頭がよくて、感性も鋭く、素晴らしかったです。一緒に演じて本当に楽しかったですね」
ほかにも、加瀬亮や光石研など共演者への思いを語る中、ふと、この人の名前を口にした。
「あとは、工事現場監督役の青木崇高くんは面白かったな。現場で一緒のときもそうだったけど、この間テレビで、小野田寛郎さんのドキュメンタリー番組をやっていたんです。その中の再現ドラマで、小野田さんを日本へ連れ帰った、探検家の鈴木紀夫さん役が素晴らしく、 “いい俳優だな”って感心していたんですよ。そうしたら、あとで“それは青木さんです”って教えられて、びっくりして(笑)。すごいリアルな演技をされる方だなって思いました」
ものを作るやつの言葉なんて、あんまり信用できませんよ
約60年前に俳優の世界へ飛び込み、振り幅の広い演技で、今でも第一線で活躍し続ける山崎。しかし、俳優を志した理由を、
「会社勤めはまず向かないと思ってね。でも、そんな立派な考えがあって入ったわけじゃないんですよ」
と話し、こう振り返った。
「なんだかいろんな偶然が重なって、何もわからずに憧れて入っちゃった感じですね。演劇青年でも、文学青年でもなかったし、単なる普通の高校生、苦学生だったわけで。それほど辻褄(つじつま)が合った志願じゃなかったんです。でもやってるうちにね、やることが出てきて。面白いというと変だけど、熱中するようになって。だから最初はその程度でした、俳優に対する思い入れって。だいたいね、ものを作るやつの言葉なんて、あんまり信用できませんよ。守一さんもそうだけど、あてにならないんだよ(笑)」
そう冗談まじりで話す山崎は、黒澤明監督の『天国と地獄』で脚光を浴びるなど頭角を現し、デビューから着実に俳優としての階段を駆け上がっていった。
ちなみに、映画の舞台である1974年、当時38歳のころの俳優人生を振り返ってもらうと、こんな答えが。
「当時は『必殺仕置人』の撮影で、京都まで週に3日くらい通ってたのかな。あのとき僕が演じた“念仏の鉄”が評判よくて、人気あるんだよ。実は今でも鉄はパチンコのキャラクターになったり(笑)」
念仏の鉄は'77年放送の『新・必殺仕置人』でも再演。同じ役を演じたがらない彼にとっては、例外中の例外の役だった。
「『仕置人』の撮影自体は楽しかったんだけどね。同じ役と付き合っていくのが苦手で、飽きちゃうんですよ。だから途中で足を引きずってみたり、髪型変えたりしてね、キャラクターをいろいろ変えて、退屈を紛らわせてたんです(笑)。
でも今も、事あるごとに鉄の名前を挙げていただくんですよ。いろいろ映像の仕事やってきたけど、みなさんからそこまでおっしゃっていただくと、念仏の鉄が僕の演じた役の中で、代表作なんじゃないかなって。何かそう思えてきちゃいますよね」
また、『俳優のノート』を出版するなど、独自の演劇論を持つ彼は、守一の言葉“絵描きくさいのはやりきれない。それは大変な欠点です”という姿勢に惹かれ、いつも素人でいることが表現者にとっていちばん大切だと、映画の副読本『モリカズさんと私』(文藝春秋)に記している。絵描き然とした絵描き、俳優然とした俳優など、技術ばかり先行した人に、ろくな者はいないと常々思っているそう。
「うまいっていうのは、わかりやすい説明の部分が入ってくるんです。例えばある舞台で演じた場合、500人の方が見たら、みな同じような感想を持つのが昔は名優と呼ばれていた。
でも、人間はそれぞれ感性が違うわけだから、“それはどうもおかしいぞ”と前から思っていて。わかりやすい説明的な演技、つまりどんな複雑な心境で怒っているのか、喜んでいるのかというのを克明にするのがいい演技だとは思わないんです。“500人が見て500通りの答えがあるのがいい演技なんじゃないか”って思いますね」
世間とどう付き合うかは一生のテーマ
かねてから「僕のアイドル」と山崎も憧れていた熊谷守一について描いた本作。“彼のように自由に生きていくにはどうすれば?”と質問すると、
「どうしたらいいんですかね……わからないな。でも、どうやって世間と付き合っていくかっていうのは、一生のテーマだと思いますね」
と語り、思いを語った。
「世の中にはいろんな生き方をしている人がいて、日常の中で付き合って暮らしていく。それぞれなりの変わった生き方をしていると思うし、これが正しいっていうのは何もないわけです。でも、人間っていうのは群れて生きてるわけですからね。周りを気にしてしまうのはしかたないですけど、守一の生きる姿に、“人間はいろんな生き方ができるんだ”ということを感じ取っていただきつつ、ご覧いただければと思います」
やまざき・つとむ◎1936年、千葉県生まれ。俳優座養成所を経て、'59年、文学座へ入団。'60年、三島由紀夫の戯曲『熱帯樹』でデビュー。'63年劇団雲の結成に参加し、同年の映画『天国と地獄』で誘拐犯役を演じて注目を集めた。その後も数多くの映画、テレビドラマ、舞台で活躍。2000年紫綬褒章、'07年旭日小綬章を受章。著書に『俳優のノート』『柔らかな犀の角』『モリカズさんと私』(共著)がある。
(取材・文/成田全)
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【おばあちゃんの知恵袋】カンタン節約節電テク37選
イラスト/やのひろこ
外に出れば灼熱の太陽にさらされ、猛暑で食欲が落ち、疲れているのに熱帯夜でよく眠れない──。夏バテしがちなこれからの時期の生活に取り入れたいのが、エコで身体にもお財布にもやさしい“おばあちゃんの知恵”です。
打ち水で外気温を下げたり、涼しく眠れる枕を使ったり、おいしく体調をととのえられる飲み物を飲んだり、植物の力で日焼けした肌をケアしたり……。
古くから伝わる暮らしの工夫の中には、身近なものを活用しながら、お金をかけずに涼しく乗り切るアイデアがたくさん!
すぐに役立つ暮らしの知恵を実践して、ムリなく賢く節約してみませんか。
暑さをしのいで涼しく過ごす知恵
【1】扇風機は開けた窓に向けて風を送る
部屋の風通しをよくするには、扇風機の風を上手に利用してみて。部屋の窓やドアを2か所以上開けて、風が出ていくほうの窓際に扇風機を置いて外に向かって風を送りましょう。部屋にたまっていた熱気が排出されて、自然の風を取り込めます。水に湿らせたガーゼを扇風機の風になびくように結ぶとよりひんやりとした風を楽しめます。
【2】網戸掃除で風通しをよくする
害虫を防ぎつつ心地よい風を感じられる網戸は、ホコリなどの汚れで目が詰まると風通しが悪くなります。乾いたスポンジ2個で網戸を挟み、片方のスポンジで軽くたたくと反対側のスポンジにホコリが落ちて目詰まりがスッキリ! また、網戸のへこみは、ヘアドライヤーの温風を短時間当てると、元に戻りますよ。
【3】首・手首・足首を冷やしてひんやり
炎天下、暑くてバテそうなときには濡れた手ぬぐいやタオルで首まわりを冷やしましょう。首の頸動脈を流れる大量の血液を冷やすことで体温を素早く低下させることができます。太い血管が通っている手首や足首も冷やすとさらに効果的。戸外で冷やすものが手元にないときには、コンビニや自動販売機で冷たい飲み物を買って当ててみて。
【4】緑のカーテンで涼を取り込む
植物には、葉から出た水分が蒸発する蒸散作用によって空気を冷やす働きがあります。窓辺や壁にネットを張り、つる植物をはわせた緑のカーテンで見た目も気温も涼しく。緑のカーテンの外側と部屋の中とでは10℃近い気温差が生じることも。食べられる植物ならゴーヤやキュウリ、観賞用には風船カズラや朝顔がおすすめ。
【5】うちわや扇子にハッカやミントのオイルをたらす
昔の日本ではうちわは涼をとる道具でもあり、お客様をおもてなしするアイテムでもありました。同じく涼風をもたらす扇子は日本発祥の道具。うちわや扇子にハッカやミントのオイルを少量たらして使用すると、涼やかな香りの風を楽しめます。五感からも涼を取り込むアイデア。
【6】湿気のコントロールでさわやかさアップ
夏でも居心地のいい空間を維持するためには、湿気を抑えて風通しをよくすること。家具と壁の間に10cmほどのすき間をつくると通気性がアップ。また、布団はひと晩で牛乳ビン1本分の汗を吸うので、テーブルやイスにかけて湿気を飛ばしましょう。洗濯物の室内干しは湿度を上げるので、できるだけ晴れた日に外に干したいもの。
【7】夏の洋服は色と形の選び方がポイント
日差しが強い夏は、白やベージュなど太陽熱を吸収しにくい明るい色合いの服を選んで着ましょう。体感温度を低く抑えられます。ゆったりとしたワンピースタイプがおすすめ。ふわっとしたシルエットの服を着ると内側で空気の対流が起こりやすくなり、服の内部が冷まされて涼しい体感になるのです。
【8】打ち水は朝か夕に
水分が蒸発するときに熱を奪う作用を利用して涼をとるのが打ち水。熱い地面に打ち水をするとスーッと涼しい風が漂い、1℃~3℃ほど地表温度が下がります。一軒家では庭や玄関前の道路などに、マンションならベランダが効果的。気温が高い時間帯は水がすぐに蒸発してしまうので、朝か夕がおすすめ。
■そのほかにも!プチ節電術
【9】エアコンは自動設定に
エアコンを自動設定にしておくと、部屋が冷えるまでは強風が吹き、その後は微風に切り替わって効率的に部屋の温度を下げてくれます。
【10】冷房時、扇風機は上向きに
冷房によって生じた冷たい空気は下にたまります。冷房をつけるときには扇風機を上向きにして回すと空気が循環し、部屋が早く冷えます。
【11】エアコンの室外機に日よけをする
室外機に直射日光が当たるとエアコンの電力効率が低下し、電気代が余計にかかってしまいます。室外機には日よけをして直射日光を避けましょう。
寝苦しい夜にぐっすり眠る知恵
【12】身近なものでひんやり気持ちいい氷枕を作る
500mlのペットボトルに水を半分入れ、冷凍庫で横にして凍らせると氷枕を作れます。使うときにはペットボトルに水を足し、タオルを巻いてひんやり具合を調整しましょう。また、スーパーなどのポリ袋に凍った保冷剤を入れて水を少量そそいで口を縛り、タオルで包んでも氷枕に。水もれ防止のため袋は二重にします。
【13】自然素材の枕がやっぱり気持ちいい
通気性と吸湿性に富んだそばがら枕は、そばがらが熱を逃がし頭を涼しく冷やしてくれます。小豆枕は中の小豆が涼やかで、頭への指圧効果がアリ。冷蔵庫で冷やすとより心地よく眠れます。枕の作り方はカンタンで、丈夫な綿天竺や綿ブロードで袋を縫い、好みの高さになるまでそばがらや小豆を詰めればできあがりです。
【14】部分浴で寝つきがアップする
お風呂でたっぷりと汗をかくと寝つきがよくなるもの。特におすすめなのが、全身浴よりも内臓への負担が軽く、リラクゼーション効果が高い半身浴と足湯。半身浴は胸から下だけ、足湯はくるぶしまでお湯に浸かります。お湯の温度は40度くらいで、半身浴は約20分、足湯は8分程度が目安。汗で老廃物が排出され心身ともにスッキリ。
【15】手のひら温湿布で眠りにつきやすく
熱帯夜でなかなか寝つけない夜には、身体をほぐしてリラックス。やり方は、おへそをはさむように両手の手のひらを当てるだけ。10分程度お腹を温めると副交感神経が優位になって身体がほぐれ、自然な眠気をもたらします。手のひらは肝臓(右肋骨あたり)や腎臓(背中側の骨盤の上あたり)に当てても効果的。
【16】香りの力で入眠を
植物が発する香りには心を鎮める成分が含まれています。ヒノキの木片やオイルが枕元にあると、緊張を緩和させるセドロールの働きで深い眠りに誘われます。また、玉ねぎの硫化アリルには鎮静作用があり、刻んだ玉ねぎを枕元に置いておくと安眠作用があるといいます。玉ねぎは、におうかにおわないか程度の少量に。多すぎると逆効果になるので注意。
【17】呼吸を意識した快眠体操でぐっすり眠る
布団に横になって目を閉じ、全身にギュッと力を込めてから脱力する快眠体操をすると身体の緊張がほぐれます。コツは腹式呼吸。鼻から息を吸い込んでお腹を膨らませ、力むときに息を止め、口からゆっくりと息を吐いて脱力しましょう。腹式呼吸に合わせて5回ほど快眠体操をすると心身ともにリラックスして自然に眠くなります。
夏バテ予防&対策 0円で健康になる知恵
【18】バテない身体をつくるお茶
●梅醤番茶:湯のみに梅干しを入れてほぐし、しょうゆを少量たらして番茶を注いだ梅醤番茶は、夏バテ対策の定番のお茶。梅干しの疲労回復力と番茶の抗酸化力、胃を健康に保つしょうゆの健胃作用の相乗効果で身体がシャキッとします。
●そば茶:香ばしくて独特のおいしさのそば茶はポリフェノールの一種であるルチンを豊富に含んでいます。ルチンには毛細血管を強くする作用があるため血行が促進され、身体のすみずみまで栄養が届く効果が。バテやすい時期の水分補給に最適です。
●ドクダミ茶:体内の毒素や老廃物を排出する働きがあるドクダミ茶は、古くから夏バテ予防の特効薬として有名。市販のものを活用するのはもちろん、自生しているドクダミの葉を乾燥させて1cm程度に刻んだものを煮出す手作りドクダミ茶もおすすめ。
【19】江戸時代の知恵! 飲む点滴の甘酒で夏バテ予防
ビタミンB1やB2、アルギニン、アミノ酸、ブドウ糖などが含まれる甘酒は点滴と同じ成分で、江戸時代には体力回復の飲み物とされていました。甘酒を飲むことで熱中症や夏バテ予防になります。また、食事の前におちょこ1杯の甘酒を飲むとドカ食いを抑えられてダイエット効果も。もち米でおかゆを作って麹を加えるだけで本格的な甘酒に。
【20】夏風邪のひきはじめには長ねぎと梅で発汗&疲労回復
長ねぎには身体を温めて汗を出し、疲労を回復させる成分が含まれ、梅干しには風邪のウイルスの増殖を抑える働きがあります。「風邪かな?」と思ったら、刻んだ長ねぎにみそ、梅干し、しょうがを加えて混ぜ合わせ、お湯をかけた風邪の特効薬を飲んで休みましょう。身体が温まり、回復力が高まります。
【21】身体にいいビールの飲み方
お腹を冷やさないことが夏の体調管理には大切。ビールは、ビタミンやミネラルをバランスよく含むので、発汗で失われたビタミンやエネルギーを取り戻す効果が。カロリーが気になる人は、レモンを搾って飲むといい。レモンに含まれるレモンポリフェノールには脂肪吸収を抑える作用があり、ダイエット効果が期待できます。ただし、適量を心がけて。
■おばあちゃん的熱中症の対処法
【22】涼しい場所へ移動して横になる
「熱中症かな?」と思ったら、すぐに日陰やエアコンの効いた場所へ移動して横になること。周囲の人が熱中症になった場合も、涼しい場所へ誘導し横にして休ませましょう。
【23】水分を補給する
スポーツドリンクや薄い食塩水などを飲み、失われた水分や塩分を体内から補います。自分でうまく飲めない場合や吐き気などがある場合は医療機関を受診しましょう。
【24】ベルトなどをゆるめて血流をよくする
熱中症は脳や身体を流れる血液の量が減ることで起こります。ベルトなどで身体をしめつけていると血流が悪くなるので、ゆるめて安静にします。
【25】リンパ節を冷やして身体を冷やす
わきの下や股の動脈を氷や保冷剤で冷やします。氷がない場合は冷えた缶ジュースやペットボトルでも可。それでも回復しなければ、必ず医師の診察を受けましょう。
エコで節約効果も!! 夏の家事の知恵
【26】洗たくのすすぎに酢を入れて衣類や洗濯機の殺菌
私たちが普段、使っている洗剤はアルカリ性のものが多いといわれており、アルカリ成分が洗濯物に残っていると衣類がゴワゴワになってしまうことも。酸性の酢にはアルカリ成分を中和して衣類の繊維を柔らかくする効果があり、すすぎのときにカップ1杯の酢を入れれば柔軟剤代わりに。また酢には洗濯槽の殺菌効果も。
【27】生ゴミに酢をかけてニオイを防止
生ゴミを処理せずに放置しておくとイヤなニオイを放ちます。ニオイの原因は生ゴミをエサに増える雑菌やカビ。酢には雑菌やカビの増殖を抑制する効果があるので、生ゴミに直接かけると悪臭対策になります。また、酸性の酢には生ゴミのアルカリ性成分を中和してニオイを抑える働きも。
【28】白い衣類の黄ばみは煮込み洗いで解決
汗じみなどで黄ばみが目立ってきた白いTシャツやワイシャツには「煮込み洗い」がおすすめ。水1リットルにつき小さじ2杯程度の粉せっけんを加え、30分ほど煮込んでからもみ洗いをすると汚れがスッキリ! なお、煮込み洗いでアルミ鍋を使うと化学反応で鍋が黒ずむ可能性があるので、ステンレスかほうろうの鍋を使用。
【29】畳の掃除は塩を使ってサッパリ
汚れを落ちやすくするうえに除菌効果もある、身体にも安心のお掃除アイテムのひとつが塩。塩を畳にまいてから歯ブラシでトントンとたたくと畳に入り込んだ汚れが浮き上がり、掃除機で吸い取れば掃除は完了。また、バケツ1杯に大さじ1杯程度の塩を混ぜた水で畳や床を拭くと、サッパリと掃除ができます。
■夏こそ知っておきたい冷蔵庫の賢い節電術
【30】内側にビニールシートを
冷蔵庫の開け閉めのたびに冷気が外に漏れると庫内の温度が上がり、余計に電力を消費してしまいます。冷蔵庫の大きさに切ったビニールシートの上部を両面テープで貼ると、冷気の漏れを防止できます。
【31】日が当たらない場所へ
冷蔵庫が直射日光にさらされると冷却効率が低下し、電気代がかさんでしまうこともあります。直射日光が当たらず風通しのよい場所が設置場所として理想です。
【32】冷蔵庫の周囲にすき間を
冷蔵庫の庫内を冷やすためには、外への放熱が必要。冷蔵庫の左右には5mm以上、上部には5cm以上のすき間があると、放熱しやすくなり冷やす力が落ちません。節電のためにも、できるだけ周囲にすき間をあけて。
【33】7割収納に
暑い季節は食材が傷まないよう、ついつい冷蔵庫に詰め込んでしまいがち。庫内がパンパンだと冷気の循環が悪くなり、余分な電力が必要になります。中身を7割程度に抑えると電気代を約10%も節約できます。
強い日差しもオフ!「0円」美容の知恵
【34】日焼けのあとには紅茶風呂
強い日差しに焼かれた肌は紅茶のお風呂で癒しましょう。紅茶に含まれるタンニンには炎症を鎮める効果があり、古くからヤケドに効くとされてきました。ぬるめのお湯を張った浴槽の中に濃いめに入れたポット1杯分の紅茶かティーバッグ2袋を入れればOK。紅茶の代わりに緑茶でも代用できます。
【35】牛乳パックでほてった肌に潤いを
クレオパトラは美容のために牛乳風呂に入っていたといわれているほど、牛乳は美肌づくりに欠かせない栄養源。冷たい牛乳を含ませたコットンを、ほてった肌の上に直接のせる牛乳パックをすると、牛乳の脂肪分が日焼けした肌を保護してくれます。コットンが体温でぬるくなったら、再び冷たい牛乳に浸してオン。
【36】塩洗髪でサラサラの髪に
せっけんやシャンプーが普及する前の時代、女性たちが黒髪のお手入れに使っていたアイテムのひとつが塩。手のひらにひとつまみの塩をとり、少量の水で混ぜ合わせたものを頭全体になじませ、頭皮をマッサージして洗い流す塩洗髪をしてみましょう。塩の浸透圧で毛穴の汚れが浮き出てサラサラの髪になります。
【37】残った果物の皮で全身エステ
食べた後に残った果物の皮や果肉には美容成分が詰まっています。入浴時に美肌効果のあるフルーツ酸が含まれているスイカやメロンの皮で全身をマッサージ。ひじやひざの黒ずみが気になったら、ビタミンCたっぷりのレモンの皮や搾りカスでこすりましょう。また、天日干ししたミカンの皮を湯船に浮かべれば肌の潤いがアップ。
※肌の弱い人は様子を見ながら行って
《監修/NPO法人おばあちゃんの知恵袋の会 取材・文/熊谷あづさ》
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山崎ハコが語った、最愛の亡き夫との思い出
山崎ハコ
情念を込めた歌で熱狂的な支持を集めてきた山崎ハコ。実際は朗らかな性格で、事務所にいわれるまま暗いイメージを保ち続けたという。その檻から解放してくれたのが夫でギタリストの故・安田裕美さんだった。夫との永遠の別れを経て、今、新たな決意を抱いた彼女に心境を聞いた―。
「呼んでくれればいつでもギターを弾くから」
2020年7月6日に逝去したギタリストの安田裕美さんは、井上陽水、小椋佳、布施明、杏里、松任谷由実、中島みゆき、松山千春、アリス、山口百恵、石川さゆり……と、錚々たるアーティストとセッションを重ねてきた。
その妻で、シンガー・ソングライターの山崎ハコ(64)が、今年7月4日に一周忌イベント「安田裕美の会」を開催。アルバム『山崎ハコ セレクション ギタリスト安田裕美の軌跡』もリリースし、多くのミュージシャンが安田さんを偲んでいる。
最愛の夫を亡くした山崎は、ふたりの出会いをこう振り返る。
「結婚したのは20年前で、私が44歳のときでした。事務所が倒産し、どん底の状態だった私を心配して声をかけてくれ、『呼んでくれればいつでもギターを弾くから。ギャラはいらないから』と言ってくれたのが安田さんでした」
音楽を愛する者同士の大人の結婚で、ふたりは絆を深めていき、ライブもアルバム作りもいつも安田さんと二人三脚で行ってきた。
「ふたりで決めていたのは、どっちが先に逝っても後を追うのだけはダメだということ。音楽が好きという相手の魂を引き継いで、残された者がそれを届けていくのが役目だからと誓い合いました。安田さんがいなくなって、本当に悲しくてつらくて、どうしようもなかったのですが、1年たって、やっとどうにか曲を作り始め、前を向こうという思いが出てきました」
山崎は1975年にデビュー。じつはデビュー前に井上陽水のバックでギターを弾いていた安田さんに会っており、デビューアルバムの最初の曲を弾いてくれたのも安田さんだった。
しかし、当時は安田さんと仲よくなるどころか、事務所から男性と付き合うことを禁止されており、まじめな山崎はそれをずっと守ってきた。
フォークギターの弾き語りで、情念や怨念を歌い上げるスタイルで人気を博したが、事務所は歌の世界のイメージを崩さないことを要求。その結果、山崎は、世間から歌の内容どおりの暗くて怖い女性と見られるように。
これは完全に作られたキャラであり、山崎はそのギャップに翻弄され続けることになる。
世間にウソをつき続けるのが心苦しかった
「事務所の社長から、インタビューでは一切しゃべるなと言われ、“人間嫌い”という設定になっていたんです。家族とも絶縁したことになっていて、電話も解約させられたため、本当に家族と音信不通になってしまいました。実際は、歌っているとき以外はごく普通の女の子だったんですよ。
なにより、世間にウソをつき続けるのが心苦しかったです。一方で、とにかく歌が1番で、歌を歌えるならキャラなんてどうでもいいという思いもありました。社長の言うとおりにしていれば、一生、大事に面倒を見てもらえると思っていて、それを疑わずに生きてきたんです」
これが大きな間違いだったとわかるのは、事務所が倒産し、住む家もなくなってからのことだ。
「22年間、事務所の言うとおりにしてきましたが、印税をまったくもらってなくて、最後に社長から渡された私の通帳には1000円しか入ってなかったんです。
住んでいた家を追い出され、ホームレスのような状態になって初めて、いかに自分が世間知らずだったかに気づきました。
私には『呪い』というタイトルの歌がありますが(笑)、実際に人を恨むのは嫌だったので、社長を訴えることはしませんでした。そんなときに安田さんに再会して、これからは、今までやっていないことをやろう、いろんなことを経験しないとダメだと決意し、結婚もしてみようと思ったんです。
2001年の元日に入籍したのは、イヤなことは20世紀に置いてきて、21世紀は今と前だけを向いて生きていくと決めたからです」
歌い始めてから22年、初めて自由の身となり、自分の意思で行動できるようになった山崎は、音信不通だったクラスメートと再会したり、旅行に行ったりと、これまでしてこなかったことを謳歌するように。
「『ハコちゃんは自由にしていいんだよ。いっぱい遊んだらいいよ。音楽も変わってくるよ』と安田さんが言ってくれて。本当に優しい人で、いつも私のためにギターを弾いてくれました。そのギターを私が『ちょうだい』と言うと、『ダメ。貸すならいいよ』と断られ、それくらい安田さんはギターを大事にしていたんです。でも病気になってから『ギター、ハコちゃんにあげるよ』と言うので、今度は私が『くれなくていい。ずっと貸して』と返しました。
今回、そのギターを弾いて『安田裕美の会』を行いましたが、今もギターは安田さんから借りているだけなんです。ひとりになってしまいましたが、安田さんの音楽をずっと守っていかないといけないので、ひとりではありません」
「ハコちゃん、自由に好きなことをしな」
安田さんが亡くなってからは、黒い服しか着ず、喪に服していたという山崎。
「彼の子どものころの写真を見たり、彼が載っている昔の記事を読んだり、あらためて安田さんの軌跡を追っている時間でした。そのうち『あの曲のギターを弾いていたのは安田さんなんです』と多くの人に知ってもらいたくなりました。
それで、アルバムを作ろうと思い立ち、たくさんのミュージシャンから快諾をいただき、形にすることができたんです。バックミュージシャンはシングル盤では名前も載っていませんが、歌い手にとっては欠かせない存在です。安田さんは、歌に触れずに寄り添ってくれるギターで、だからいつも私は、プレッシャーの中でも心地よく歌うことができました。
井上陽水さん、石川さゆりさん、松山千春さんなど、いろんな方がこのCDの中で競演していて、それをつないでいるのが安田さんのギターなんです。本当にいい曲ばかりなので、ぜひ一家に1枚置いてほしいですね」
かわいがってくれている芸能界の仲間の存在もありがたい。
「(同じく夫を亡くした)お世話になっている歌手のイルカさんは『気持ちは何にも言わなくてもわかるからね』とメールをくださいました。同じ経験をされた先輩方からも。パートナーを亡くして、この気持ちをわかってくれる人はここにもいる。元気を出さなくては、と思いました」
一周忌があけ、ようやく最近は笑顔も少し出るようになったという山崎。
「安田さんは、結婚したときのように『ハコちゃん、自由に好きなことをしな』と天国で思っているでしょうから、これからは大好きな芝居などにもまた足を運びます。
再会するためには早く死ねばいいわけではありません。第一、安田さんが喜ばない。人生を全うしたら、絶対会える。それを胸に、音楽を続けながらこれからも生きていきます」
『山崎ハコ セレクションギタリスト安田裕美の軌跡』(税込み3300円 テイチクエンタテインメント)
井上陽水、小椋佳、松山千春をはじめ、数多くのアーティストとレコーディングをしてきたアコースティック・ギターのトッププレーヤーの、当時のオリジナル音源を集めた軌跡。
山崎ハコ(やまさき・はこ)●シンガー・ソングライター、女優、文筆家。
1957年、大分県生まれ。高校在学中、コンテストへの出場がきっかけで1975年にアルバム『飛・び・ま・す』でレコードデビュー。パワフルな声量・表現力を誇る歌唱と、暗く鋭く愛から社会をえぐる歌詞で、デビュー当時、中島みゆきのライバルと言われた。シンガー・ソングライターとして活躍する一方で、エッセイの執筆、舞台出演など多彩な活動を行う。
〈取材・文/紀和静〉
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木下優樹菜、フジモンを「ブサイク」呼びした過去に見る恋愛観
「ヤバい女になりたくない」そうおっしゃるあなた。有名人の言動を鋭く分析するライターの仁科友里さんによれば、すべてのオンナはヤバいもの。問題は「よいヤバさ」か「悪いヤバさ」か。この連載では、仁科さんがさまざまなタイプの「ヤバい女=ヤバ女(ヤバジョ)」を分析していきます。
2011年、結婚披露宴で笑顔のフジモンと木下優樹菜
第60回 木下優樹菜
世間サマからヤバいと言われるオンナは、本当にヤバいのか──。そんな気持ちで2018年より始まった本連載ですが、ヤバ女にもトレンドがあるような気がしています。
最近のヤバ女のトレンドは「どうして自分が叩かれているかが理解できない、もしくは全く気にしない」ことではないでしょうか。
ガソリン代や議員パスの不正使用疑惑や、若手弁護士との不倫疑惑など、何かとお騒がせの国民民主党代議士・山尾志桜里センセイは次期衆院議員選挙の不出馬を表明しました。山尾センセイは『週刊朝日』7月9日号のインタビューに対し、「女性議員の私生活に向けられる関心の高さが異常ですよね。好奇のまなざしが男性の政治家へのものとはまったく違う」と、ご自分への反感が一種の女性差別であると話をすり替えています。
大ヒット漫画『キングダム』作者の原泰久センセイとの破局を発表したタレント・小島瑠璃子。原センセイには糟糠の妻と3人のお子さん、そして不倫相手だったアイドルAさん(現在は引退)がいたことから、「略奪の略奪疑惑」が巻き起こったわけですが、小島には不倫に対する一般人の嫌悪感が理解できない模様。破局後に出演した『グータンヌーボ2』(関西テレビ)で「(交際する前に、セックスを)いたさないと怖いです。いたす前につきあうってどういう勇気? と思う」とネットニュースになりそうな発言をしていました。
番組の視聴率アップのためのサービス精神かもしれませんが、不倫疑惑が完全に消えない状態でこういう発言をすると、「ということは、原センセイとも交際前にいたしたのか、もしそうなら不倫かもしれないじゃないか」と思われる可能性が高くなることに気づいていない、もしくはそう思われたところでビクともしない強メンタルなのかもしれません。
ヤンキーではなく 「いい年して、ダメなオトナ」
この人も本当に“世間の声”を気にしないのだと思います。芸能界は引退したはずですが、モデルやインフルエンサーとして活動を再開した木下優樹菜。7月8日配信の『FRIDAY DIGITAL』は、優樹菜とJ1『湘南ベルマーレ』に所属する三幸秀稔選手との熱愛、半同棲を報じています。優樹菜はお笑いコンビFUJIWARAのフジモンこと藤本敏史と離婚していて独身ですから、交際は自由です。
とはいえ、タピオカ店主に恫喝まがいのことをした件は未だに解決されていないようです。元ヤンキャラが優樹菜のウリではありましたが、ここで言うヤンキーとは「ファッションや言葉遣いは多少アレかもしれないけれど、義理人情に厚く、曲がったことが嫌いな人」を指すのではないでしょうか。人に迷惑をかけても謝ることすらできないなら、それはヤンキーではなく「いい年して、ダメなオトナ」です。恋愛より先にやるべきこと(謝罪)があるのではないかと冷たい目で見る人もいるかもしれません。
しかし、婚活視点で考えると、すごいと思える点もあるのです。それは、ちゃんと優樹菜が「自分の好み」をわかった上でパートナーを見つけていることなのです。
度を越していた 夫・フジモンの容姿いじり
2011年に発売された『ユキナ婚』(講談社)では、優樹菜と元夫であるフジモンとのなれそめについて書かれています。「そもそもユキナは目が大きくて『THE・イケメン』って感じの人が好きだったから、トトちゃん(※筆者注・フジモンのこと)はたとえ同じクラスにいても、友達であっても、絶対に好きにならないタイプ」と思っていたそうで。同書では表現を変えながら、執拗なまでに「イケメンが好き」「フジモン、ブサイク」と書いています。
優樹菜はフジモンを単なる友達としか思っていませんでしたが、フジモンは優樹菜に恋をしてしまう。気を持たせるのも悪いので優樹菜は「もう会わない」と告げたそうです。しかし、「おまえはSに見せかけて、М」「本当は弱いのわかってるぞ」というふうに内面を見抜かれたこととで、フジモンを意識するようになったそうです。やがて優樹菜の誕生日がやってきますが、「もう会わない」と優樹菜に言われてしまったフジモンは、誕生日を祝えない。けれど、フジモンは誕生日を祝う気持ちを伝えたくて、優樹菜の住むマンションのそばの川に「誕生日おめでとう」と垂れ幕をかけてくれたそうです。それを見た優樹菜は涙が止まらなくなり、交際するようになったといいます。
心が汚れている私には何がいいんだかさっぱりわかりませんが、「好みではないけれど、情にほだされて」付き合うようになったということでしょう。フジモンが17歳も年上なことから、親御さんには「先死んじゃうけど、いいの?」と聞かれたそうですが、「それでもいいんじゃない」と言ったとも明かしています。好きになったら、深いことは考えないタイプなのかもしれません。
が、人の気持ちというのは変わるもの。結婚してしばらく経ってから、優樹菜がフジモンの容姿を悪く言うようになり、それが度を越しているように私には感じられました。たとえば、2018年1月14日放送の『おしゃれイズム』(日本テレビ系)に出演したときは「一周回ってブサイクが愛おしいと思うかもしれないと思ったけど、無理だった」と説明しています。
2019年6月12日放送の『徳井と後藤と麗しのSHELLYと芳しの指原が今夜くらべてみました』(日本テレビ系)では、優樹菜はフジモンから着信があると、俳優・斎藤工の顔が表示される設定にしていることを明かし、その理由を「毎日ブサイクと一緒にいるから」「ちょっと現実逃避したくなっちゃって」と説明していました。フジモンが芸人で、威圧感のあるキャラクターでないことから言いやすい部分はあるのでしょうが、いくら何でもちょっと言い過ぎではないでしょうか。
「自分の欲しいもの」だけは ハッキリしている
ですが、面白いことに優樹菜はフジモンのカネについて、テレビでも『ユキナ婚』でも不満をほとんど漏らしていないのです。結婚当初から、いろいろな番組でフジモンが「年齢が17歳も離れているのに、収入は優樹菜のほうが上」と話していました。細かい数字こそ言わなかったものの、2020年3月24日放送の『ロンドンハーツ』(テレビ朝日系)に出演したフジモンが「(家に)ベンツとミニクーパーがあって、買ったのは両方とも優樹菜」と話していましたから、なかなかの経済力なのでしょう。
テレビで夫のカオについて文句は言っても、カネのことは愚痴らない。それは木下にとって、大事なことはカオであり、経済力はさほど重要ではないということを示しているのではないでしょうか。
新恋人は5歳年下のイケメンです。現時点でチームの主力ではないので、ネットでは「たいした選手ではない」と恋人を軽んじるかのような書き込みが見られましたが、仮にそうだとしても、優樹菜にとって、そこは問題ではないような気がします。
前出『ユキナ婚』では、前夫フジモンはきれい好きな優樹菜のために頼まれなくても家を掃除したり、優樹菜好みの服装をしたりと、優樹菜の趣味に合わせる生活をしていたようです。もし、彼氏や夫がその世界を代表するような大物であるのなら、仕事量や責任の重さから考えて、プライベートが削られることは間違いないでしょう。当然、彼女や家族に割く時間は減ってしまいますし、そこを理解できるかは関係性が続くかどうかのポイントになると思います。
優樹菜は自分にかまってくれない大物よりも、仕事もお金もそこそこでいいから、自分を中心にしてくれるフジモン的な男性が好みで、プラスして新パートナーにイケメンであることを求めたのではないでしょうか。もしそうなら、恋人は大物でないほうが好ましいのです。
婚活でパートナーを見つけるときに、避けて通れないのがカネとカオです。友達に紹介を頼むにも「カオがいい人が希望」とか「できるだけ、カネ持っている人」とは言い出しにくいものですし、自分の本心をわかっていない人も多い。「カオはフツウでいい」と言っている人が、実はものすごい面食いだったりします。ツイッターをやっている人は、自分のツイートを読み直してみましょう。人のカオについてのつぶやきが多い人はカオをよく見ているということですし、反対にカネに関するツイートが多ければ、カネに敏感と言えるでしょう。
タピオカ事件以降、意固地になってヤバい方向に行っている気がしないでもない優樹菜ですが、「自分の欲しいもの」だけはハッキリしているタイプな気がします。婚活中の女性は、恥ずかしがらずに、自分の本音と向き合ってみることをおすすめします。
<プロフィール>
仁科友里(にしな・ゆり)
1974年生まれ。会社員を経てフリーライターに。『サイゾーウーマン』『週刊SPA!』『GINGER』『steady.』などにタレント論、女子アナ批評を寄稿。また、自身のブログ、ツイッターで婚活に悩む男女の相談に応えている。2015年に『間違いだらけの婚活にサヨナラ!』(主婦と生活社)を発表し、異例の女性向け婚活本として話題に。好きな言葉は「勝てば官軍、負ければ賊軍」
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新型コロナ経験者の漫画家&ライター、こんなに違った「症状と療養生活」
作画/大沖(漫画家)
2021年7月、東京都で再び新型コロナウイルス感染者が再び増加。12日、4回目の緊急事態宣言が発令されました。ワクチンも、まだ希望者全員が接種できる状態ではありません。
前回の緊急事態宣言が発令中だった今年5月、新型コロナを発症したときの様子を綴ったとある4コマ漫画が、ツイッターで大反響を巻き起こしました。描いたのは37歳の人気漫画家・大沖(だいおき)さんです。
同年3月、感染者数が比較的落ち着いていた時期、当時36歳だったフリーライター・若林理央(筆者)も、新型コロナを発症しました。「どうして自分が」。大沖さんも若林も、そう思ったのには理由があります。
今回、同年代の漫画家とフリーライターによる“新型コロナ対談”が実現。発症前の生活、発症後の症状、隔離生活中に仕事はできたかなど、詳しくお話をさせていただきました。
じゅうぶんな予防をしていても
若林:昨年から、新型コロナ陽性になった人を「予防していなかったのでは?」と決めつける風潮があると感じていて。今年3月に自分が発症したとき「(予防をしなかっただなんて、)そんなことない」と改めて実感しました。5月の大沖さんのツイートには、発症前、どれほど予防をしていたかが詳しく描かれていて、経験者として、とてもありがたかったです。
大沖:私は漫画家なので、もともと自宅にいることがほとんどなんです。打ち合わせも電話だし、外出といえば、マスクをして生活必需品を買いに行くぐらい。店の出入り口にある消毒液は必ず使っていたし、エアコン工事の業者さんが来たときも、お互いにマスクをしていました。だから、どこで感染したのか全然わかりませんでした。発症前、若林さんはどんな感じでしたか?
若林:私はどうしても出かけないといけないときは、2時間ごとにトイレで手を洗って消毒液をかけていました。同居している夫も感染したのですが、フルリモート勤務に切り替えていたので、大沖さんと同じで、感染経路は今もわかりません。発症した日、大沖さんは寒気がしたと漫画で描かれていましたね。それはいつですか?
大沖:5月7日(金)です。部屋を換気していたからだと思って寝て、起きたら全身に関節痛がありました。過去に経験したインフルエンザに近い症状でしたね。
若林:私の発症日はその約2か月前の3月14日(日)で、最初は倦怠感と咳だけでした。次の日、38.8℃の高熱が出ました。
大沖:私は平熱が35.8℃、発症2日目は36.5℃でした。
若林:同年代で近い時期に発症しても、症状や発症後の状態ってほんとに違いますね。
大沖:「こんな症状が出たらコロナ」と、一概には言えないんですよね。
症状は人によってこんなに違う
若林:発症後、「食べ物の味はする?」とよく聞かれたのですが、私は発症してから回復するまでずっと、味覚と嗅覚は通常どおりでした。
大沖:私も、発症日からしばらくはいつもどおり。発症してから6日たったころに鼻がツンとして、その2日後くらい、ホテル療養中に支給された昼食のカレーを食べたときに、ほとんどにおいが感じられないことに気づきました。さらに、その日の夕食は完全ににおいがしませんでした。「塩辛い」とか「甘い」とかはわかったので味覚はあるはずなのですが、においの強い食事は味もほとんど感じられなくて、療養が解除された後も症状が続きました。
若林:今は治りましたか?
大沖:はい。鼻がツンとしたのは1週間くらいで治りました。嗅覚異常が治ったのは、コロナ発症から1か月たったころですね。6月初旬に自宅でカレーパンを食べたら、すごくにおいがしてほっとしました。今は、ほぼ回復しています。
若林:長い間、においが感じられないのはつらかったですよね……。私の場合、症状がいちばんひどかったのは、発症の翌日でした。朝に激しい咳で飛び起きて熱を測ると38.8℃。すぐに発熱センターと病院に電話して受診、PCR検査を受けたんですが、夜に体調が悪化し、関節痛と嘔吐がひどくて何も食べられない状態でした。発熱も続いていたので、救急外来のある近隣の病院4つに電話をかけたのですが、「高熱の患者は受け入れられない」もしくは「ベッドの空きがない」と言われて行けませんでした。
大沖:陽性だとわかったのはその次の日ですか?
若林:はい、翌朝です。前日のPCR検査の結果が出る前に、医師の判断で抗原検査を受け、すぐに陽性だと判明しました。その日は3月16日で、東京都の新規感染者数が300人ちょうどだったのを覚えています。大沖さんが発症した5月上旬は、感染者数が再び増えていた時期ですよね。発症後はスムーズに受診できましたか?
大沖:発症翌日は土曜で、仮眠をとっても関節痛が治らなくて。土曜の夜は病院も閉まっているし発熱もなかったので寝て、日曜、まだ関節が痛かったので発熱センターに電話すると「高熱がないなら月曜日に受診を」と勧められました。
若林:「もしかして」という気持ちはありましたか?
大沖:はい。ネットなどで調べて、熱がなくても陽性の人がいることを知ったので、知人に「食事を買って玄関先に置いてほしい」とお願いしました。
若林:同じくです。私は近所に住む妹に頼みました。ただ、陽性だとわかってからは早かったです。診断を受けた3時間後には保健所から電話があり、30分ほど話して病院入院が決定。翌日から入院しました。
療養中は仕事ができないほど苦しかった
大沖:私の場合、月曜に受診しPCR検査を受けて、次の日に電話で陽性だと言われました。それが5月11日です。
若林:調べたところ、その日の東京都の新規感染者数は925人 。私が陽性と診断された日の3倍以上の数です。保健所からの電話は、その日のうちにありましたか?
大沖:ありましたが短時間で、発熱があるかなどを聞かれました。たぶん、病院への入院が必要か判断するためだったと思います。詳しいヒアリングは次の日でした。
若林:症状に変化はありましたか?
大沖:そのころから、運動したときのような熱っぽさを肺に感じるようになりました。宿泊療養ホテルに入所したのはその2日後の金曜からです。
若林:ホテル療養は私が経験した病院療養と異なることが多いと思うので、気になります。
大沖:施設によって違うかもしれませんが、着いてすぐ、名前と部屋番号の書かれた大きな袋を受け取って、自分で部屋に行きました。袋の中に同意書や説明書、ペン、医師や看護師と連絡をとるためのガラケー、毎日の血中酸素濃度や体温を入力するためのiPad、体温計、パルスオキシメーター(血中酸素濃度を測る機械)が入っていて。部屋に着いてから、今の状態を電話とiPadで伝えました。
若林:入所日に人と接触したのは、袋を受け取るときだけですか?
大沖:そうです。他のやりとりは、部屋に入ってから電話で行いました。毎日、iPadに血中酸素濃度と体温の数値、それと「咳はありますか」といったチェック項目を入力します。その後に医師か看護師から電話がかかってきて、「熱が下がっていますね」とか「新たな症状は?」といった話をしました。
若林:私の入院した病院は1日3回、看護師が病院食を持ってきてくれました。大沖さんはどのように食事を?
大沖:あらかじめ指定された時間にロビーに行くと、お弁当とマスクが入った袋と、自由にもらえるようになっている水やタオル、ペーパー類があるんです。必要なものを部屋に持ち帰ってお弁当を食べていました。病院は看護師が様子を見に来るのですか?
若林:私の入院先は看護師が頻繁に来てくれて、入院した日と退院前日は、医師から対面で直接、説明も受けました。ただ、夫が入院した病院はナースコールや電話でのやりとりがほとんどだったみたいです。不安だったのは仕事ですね……。私はフリーライターなので、仕事をしないと収入がない。病室でパソコンに向き合っても、すぐに咳が止まらなくなってしまって。
大沖:私も入所の際、仕事道具を持って行きました。次の漫画の構想を練ろうと思っていたので、ネームやラフを描きたくて。ただ、体温と血中酸素濃度は正常値だったんですが、息苦しさとだるさがあったので寝ていました。「何事もなく退所できたらいいな」と考えていましたね。
若林:わかります。私も“仕事より治すほうを優先しないと入院が長引くぞ”と思い、仕事をもらっている媒体に相談すると、みなさん「気にしないで今は休んでください」と気遣ってくださって助かりました。また、私は入院中にかなり症状がよくなったのもあって、入院は3月17日から23日までの7日間で済みました。大沖さんの療養期間は?
大沖:5月14日から17日までの4日間です。退所後も症状は残っていましたが、療養中よりもよくなっていたので、仕事はすぐに再開しました。ただ、嗅覚異常は1か月続きましたね。
若林:人によりますが、退院もしくは施設退所=完治したとは限らないんですよね。私の場合は、退院後も咳が1か月続きました。
日本は医療の仕組みがしっかりしている
若林:自分自身が陽性になって、新型コロナが他人事ではなくなりました。医療従事者の方々が奮闘されている姿を目の当たりにしたことも大きくて。大沖さんは、発症してから気づいたことはありますか?
大沖:日本は医療の仕組みがしっかりしているな、と実感しました。陽性だとわかってからの流れがスムーズですよね。
若林:2018年のはじめ、海外旅行中に別の病気で入院したんです。入院中ずっと苦しくて、それを英語で必死に伝えても看護師に舌打ちされるし、間違いがあっても謝ってもらえないし。帰国後、日本の病院に行ったら一気にストレスがなくなって、安心感が押し寄せてきました。だから今回、新型コロナで入院して、ますます日本の医療や医療従事者ってすごいなと思いました。
大沖:私が発症したとき、感染が拡大していたにも関わらずスムーズに療養できたのはそのおかげだと思うし、感謝しています。
若林:陽性患者が迅速に療養するためには、個々で予防をして、感染者を増やさないようにすることが大切ですよね。ワクチンもまだ希望者全員が接種できる段階ではないようですし、東京都は新規感染者がまたジワジワ増えて、4回目の緊急事態宣言が発令されました。
大沖:予防、大事ですよね。あと、自分と同じ場所にいた人が陽性になったら、すぐに情報共有ができるようになるといいなと思っています。一方で、どんなに予防していても、かかるときにはかかってしまうんですよね。
若林:大沖さんも私も、予防に力を入れていたのに感染してしまいました。周囲の理解も必要ですよね。大沖さんは、新型コロナの経験を出版するご予定はありますか?
大沖:今のところないのですが、機会があれば漫画にしようと思っています。一例として参考になればと。
若林:いろいろな人の役に立つと思います。大沖さんの経験をもっといろいろな人に知ってほしいという気持ちが、今回の対談で強まりました。
(取材・文/若林理央)
【PROFILE】
大沖(だいおき) ◎漫画家。主な作品に『はるみねーしょん』 『ひらめきはつめちゃん』『わくわくろっこモーション』『たのしいたのししま』 『小学生半沢直樹くん』などがある。ツイッター→@daioki
若林理央(わかばやし・りお) ◎読書好きのフリーライター。大阪府出身、東京都在住。書評やコラム、取材記事を執筆している。掲載媒体は『ダ・ヴィンチニュース』『好書好日』『70seeds』など。ツイッター→@momojaponaise
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なぜエリートの息子が犯罪者に?親たちの誤算
経済産業省
6月末、新型コロナの給付金詐欺で2人の経産省キャリア官僚が逮捕された。事件を受け、「なぜ、エリート官僚が?」という声も少なくない。凶悪事件も含め、200件以上の殺人事件などの“加害者家族”を支援してきたNPO法人World Open Heartの理事長・阿部恭子さんが、これまで見てきた実例から「エリート息子の転落」を解説する。
コロナの影響で売り上げが減少した中小企業の関係者を装い、国の「家賃支援給付金」約550万円を騙し取ったとして、経済産業省産業政策局産業資金課の桜井真(28)と同局産業組織課の新井雄太郎(28)が詐欺罪で逮捕された。2人は共謀して犯行に及んだと報道されている。
桜井容疑者は給料より高いマンションに住み、高級車を2台所有するなど明らかに派手な生活が事件を露呈させたようだ。罪を犯さずとも、人並み以上の生活ができたであろうエリート官僚がなぜ犯罪に手を染めたのか。
エリートに育てたはずの息子が事件を起こし、本人だけでなく、家族の人生まで台無しにしてしまったふたつの事件を基に、加害者の「歪んだ価値観」がどこで身についたものなのか考えてみたい。
土下座して謝罪に回る両親
「出世して、社会貢献してほしいと思っていたのに、社会に多大な迷惑をかけることになってしまって……。本当に親として情けない限りです」
敏子(仮名・60代)の次男・智也(仮名・30代)は、投資詐欺で総額約2,000万円を知人らから騙し取り、逮捕された。
被害者はみな、智也の友人や幼馴染だった。智也の実家は東日本大震災で被害を受けた地域であり、国や自治体からの支援金が入っている家が多かった。被災者をターゲットにした卑劣な犯行に、地域住民は憤った。怒りの矛先は、塀の中の智也にではなく、地域に住む智也の家族へ向けられた。
「智君だから信用して預けたのに! 絶対許せない!」
連日、自宅に訪ねてくる被害者一人一人に対し、敏子と夫は土下座をして謝罪した。年金生活の両親が息子の代わりに返済する資力はなく、謝罪することしかできなかった。
敏子にとって、智也は自慢の息子だった。一流大学を出て一流企業に入り、震災後は復興支援事業を始めると地元に戻ってきてくれた。派手な生活をしている様子もなく、真面目で堅物の息子が、間違っても人様から金を騙し取るなど夢にも思わなかった。
「こんなもんいらないから金返せ! あんたらも騙し取った金で遊んでたくせに!」
被害者のひとりは、敏子が沖縄を旅行した際に渡したお土産を投げつけた。智也は働き出してから、ずっと両親に仕送りを続けていた。夫の定年退職後、敏子は夫とよく旅行に出かけたが、そうした余裕は智也の援助あってのことだった。楽しかった旅の思い出も、すべて罪悪感に変わった。
「泥棒!」
「詐欺師!」
「よくもあんなクズ育てて」
敏子はあらゆる言葉で非難された。親戚からも絶縁され、「親族の恥」と罵られた。事件が起きる前までは、「優秀な智君のお母さん」「智君は親族の誇り」とほめそやされていたはずが、人生のすべてを否定されたと感じた。
「悪夢を見ているようでした。何かの魔法にかけられて、一晩で悪魔にされてしまったような……」
追いつめられた家族は、長年暮らしてきた故郷を去らざるを得なかった。
優等生が犯罪者になるまで
「被災地の役に立ちたくて、会社を辞めてきました」
智也は周囲にそう話していた。人の役に立ちたいという気持ちは嘘ではなかったが、会社を辞めた理由は他にあった。
智也は、同じ職場の女性と交際するようになり、女性は智也との結婚を前提に退職し、ふたりは同棲生活を始めていた。ところが、ある日突然、女性は他に好きな人ができたと智也の下を去った。そして、女性が次に交際を始めたのは智也の部下だった。同僚にはまもなく彼女と結婚すると話しており、智也は職場に行きづらくなった。
そこで、復興支援事業を始めることを理由に退社したのである。
「子どものころは“ガリ勉”といじめられてました。あまり褒められたことがなかったので、地元の人たちが受け入れてくれて嬉しかった反面、急に掌を返されたような気もしていました」
会社を設立したものの身が入らず、ギャンブルにばかりのめり込むようになった智也。家庭を築く目的を失い、自暴自棄だったという。
そんな智也に、何も知らない地域の人々は、疑いもなくお金を預けた。
「金というより、他人をコントロールすることに快感を得ていたのだと思います」
智也は幼いころ、身体が弱く性格も内向的だった。勉強ができるより、活発な男の子がもてはやされる地域で、智也は友達もなく孤独に育った。両親は、スポーツで活躍する兄の応援にばかり夢中で、智也は家庭の中でも孤立していた。
兄はスポーツ推薦で有名高校に進学したが大学受験に失敗し、その後はフリーター生活だった。両親は、兄に恥ずかしいから実家に戻って来るなといい、今度は智也ばかりを可愛がるようになった。
父親は、事件後まもなく他界。敏子は、罪悪感から食事をとることができなくなってしまった。刑務所に収監された息子の帰りを待つと、拒食症を克服したが、息子の顔を見ることができないまま亡くなってしまった。
刑務所で母の死の知らせを聞いた智也は、ようやく犯した過ちを心から悔いたという。
子の学歴は親の買い物
里子(仮名・50代)の長男・祐樹(仮名・20代)は、都内の有名大学に通う学生だったが、振り込め詐欺で逮捕された。祐樹は、これまで友人からの借金やアルバイト先での横領などさまざまな金銭トラブルを起こし、その都度、すべて親が代わりに返済してきた。
「退学だけにはならないようにと援助してきたのですが、すべてが水の泡になりました」
子どもの尻拭いにあたる親の「援助」が報われることはない。むしろ、さらなる事態の悪化を招くのである。
親は学歴にこだわるが、祐樹はほとんど大学に行ったことはなかった。“教育ママ”の里子は成績第一で、幼いころから息子の生活や交友関係を厳しく制限していた。高校時代はもっとも厳しく、趣味や部活は許さなかった。受験先は親が決めたようなもので、祐樹にとってはどこでもよかったのだ。合格すればひとり暮らしができ、新車も買ってもらえるというので、実家を出たい一心で勉強に励んだ。
祐樹はコミュニケーションが苦手で、大学で友達を作ることが難しかった。対等な関係を築くことができず、相手より優位に立たなければ信頼関係を構築できなかった。優位に立つために奢ったり、交際相手には高価なプレゼント送ることで関係を維持していた。次第に周りには悪い仲間ばかり集まるようになり、振り込め詐欺集団に取り込まれることになる。
事件の影響で、祐樹の父親は退職せざるを得なくなった。すでに祐樹の事件で貯金を使い果たしており、そのしわ寄せは、これから進学を控えているきょうだいに及んでいる。
加害の原点
殺人事件などに比べ、詐欺や横領の場合、犯行手口に焦点が当てられ、その動機が掘り下げられることは少ない。お金はないよりもあったほうがよく、あればあるだけいいと考えるのは当然のことかもしれない。
しかし、正当な手段で豊かな生活を手に入れられる立場にある者が、あえてリスクを冒すのはなぜなのか。若年者の犯行の場合、生育歴に原因が潜んでいるケースは少なくない。
智也と祐樹は、家庭の中で無条件に愛される経験を欠いていた。まるで成果に対する報酬のように、親の期待に答えることを条件に、家族の一員として認められるのである。
智也にとって金は、支配欲求を満たすものであり、祐樹にとってはコミュニケーション能力の欠如を補うためのものだった。そして2人には、リスクを選択するにあたって歯止めになるような、守るべきものがなかったのだ。
金や権力に過剰に固執する人の中には、自己肯定感が低い人も少なくない。価値観の歪みに気が付くことが更生の第一歩である。
桜井容疑者、新井容疑者もまた、「加害の原点」と向き合って欲しい。
阿部恭子(あべ・きょうこ)
NPO法人World Open Heart理事長。日本で初めて犯罪加害者家族を対象とした支援組織を設立。全国の加害者家族からの相談に対応しながら講演や執筆活動を展開。著書『家族という呪い―加害者と暮らし続けるということ』(幻冬舎新書、2019)、『息子が人を殺しました―加害者家族の真実』(幻冬舎新書、2017)など。
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スーパークレイジー君、クソ真面目な素顔
スーパークレイジー君(ツイッターより)
「若者のためにも、自分を信じて一票を投じてくれた有権者のためにも最後まで戦い抜きます」
とある週刊誌の取材にそう答えるのは、スーパークレイジー君(本名・西本誠氏)。彼が初めて表舞台に登場したのは、昨年の都知事選。落選するも、特攻服を着て選挙活動をする姿が話題をさらった。
「宮崎県生まれの彼は、最終学歴が中学校卒。少年院に5年入り、逮捕歴は8回。全身にタトゥーが入っていて、ホストやヒップホップ歌手、銀座のクラブの黒服を経験するなど異色すぎる経歴の持ち主です」(スポーツ紙記者)
のちに“都知事選は売名行為”と告白したスーパークレイジー君。そんな彼が今年1月、満を持して挑んだのが埼玉県戸田市の市議選だった。
「彼の親族や友人たちが住んでいて馴染みのある戸田市で出馬したいと思ったそうです」(同・スポーツ紙記者)
結果、定数26人で25位というギリギリ当選を果たしたのだが、
「市民から“彼は戸田市に3か月以上居住している実態がない”という異議申し立てがありました。公職選挙法によると、地方議員は選挙に出馬する前にその自治体に3か月以上居住しなければならない。戸田市選挙管理委員会(以下、選管)が調査した末、4月に彼の当選が無効だという結論が出ました」(戸田市市民)
はたして政治活動をしているのか
この決定を不服として、埼玉県選管に審査申し立てするも7月9日付で棄却された。同県選管に問い合わせると、
「戸田市のアパートの名義が本人でないほか、昨年10月から生活を始めたことの裏付けを認められませんでした」
冒頭の言葉どおり、県選管の決定も受け入れずに高等裁判所に提訴したスーパークレイジー君。だが、戸田市民からはごもっともな声が――。
「どうでもいいけど、彼は政治活動してるの!?」
4月から始まった“当選無効”騒動。その期間も、彼には議員報酬として毎月45万円、6月には期末手当として約120万円(ともに額面)も支払われている。見た目からして仕事をしてなさそうに思えてしまうが……。
同市市議を7期務める山崎雅俊議員に、彼の仕事ぶりについて聞いた。
「この5か月、彼が委員会を休んだことは一度もないと思います。僕の印象は、誠実、真摯に政治活動に取り組んでいる好青年ですよ。ベテランの私に“これはどうやったらいいんでしょうか?”と熱心に質問もしてきてくれます」
子ども食堂の支援も熱心やっていて、
「スーパーマンの格好をした彼が食堂に現れて(笑)。子どもたちも大喜びでしたよ」(同・山崎議員)
元ヤン政治家の素顔は“スーパー真面目君”のようだ。とはいえ、当選無効という立場のまま市議の報酬をもらい続けるのはいかがなものか――。税金をムダにしないためにも、早く彼を政治家として認めるのか否かの判断をすべきだろう。
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雅子さま、五輪開会式ご欠席の背景と天皇陛下が憂う国民との“距離感”
天皇陛下の御誕生日に際し、本を御覧になる天皇皇后両陛下(宮内庁提供・2021年)
雅子皇后陛下が、7月23日に開催される東京五輪開会式にご欠席になる。
今月14日夕方のニュースで明らかになったもので、宮内庁の正式発表には至っていないが、ご欠席は間違いのないものだ。
「緊急事態宣言下での開催となり、宮内庁は、天皇陛下両陛下にオンラインでご臨席することなども含めて検討してきたようですが、陛下が東京五輪・パラリンピックの名誉総裁を務めているということや、陛下のお気持ちから決断したようです。ただ発表となると、緊急事態宣言下だけに、さまざまなところから不満が出かねない。皇后さまのご欠席ということもあり、メデイアが一報を打つというクッションを使うことで、国民に理解を求めたのかもしれません」(皇室報道記者)
雅子さまがご欠席を決断された理由とは
ニュースが駆けめぐったこの日、宮内庁は新しくなった御所を報道陣に公開していた。午後1時からマスコミの代表者による撮影が始まり、宮内庁担当記者の取材に移ったのは、午後3時。記者たちが宮内庁職員と接する機会は多くあった。一報のニュースが報道されたのは午後4時過ぎという流れだった。
「宮内庁次長による定例会見は、毎週木曜日に行われているのですが、夏休みに入ったことから隔週となっていて、今週は休みでした。来週の木曜日はオリンピック前日ということもあって、水曜日を予定していましたが、皇后さまのご欠席となれば直前の公表を避けたかったのでしょう」(宮内記者)
雅子皇后のご欠席の理由は、無観客での開催となり、大会関係者にも制約があることから配慮したといわれた。さらに、世界各国の首脳たちが次々と不参加を表明している背景もあった。
五輪憲章は、開催国の国家元首が開会宣言を行うと規定している。皇后に臨席する義務はないが、これまで国内の五輪では、東京大会、札幌大会に名誉総裁の昭和天皇は香淳皇后とともにご臨席されている。平成10年の長野五輪開会式では、上皇陛下が宣言されて、美智子上皇后がご臨席された。
当初から両陛下や皇族方の競技場での観戦は行われないといわれている。皇族方も絞ってのご出席となるそうだ。
だが、日本の皇后として世界にお披露目できるチャンスではないかという見方もある。雅子皇后の華やかなお姿が見られないのは、残念なことだ。一方で、東京は緊急事態宣言下で、新型コロナウイルスの感染者の拡大は広がっている。東京では第4ピークを上回る1149人(7月14日)の感染者数で、専門家によれば感染拡大はしばらく続くと見られた。
「皇后さまは、今は華々しいことは控えてなるべく目立たない、ということも国民に寄り添えることのひとつとお考えになられているのではないでしょうか」(宮内庁関係者)
ワクチン接種に関するご事情も影響か
一方で、雅子皇后のご体調を懸念する声もあったが、これまでも大きな行事などでは予定に合わせて何か月も前からご体調を整えるように務められてきたことから、杞憂(きゆう)に過ぎない。
皇居での御養蚕も美智子上皇后陛下から受け継がれて、今年で2年目を迎えられた「給桑」作業も笑顔で行なわれたという。
愛子内親王殿下が育てられた蚕も大きく成長して、写真が公開される予定だ。
7月3日には、オンラインによる宮崎県の「国民文化祭」と「全国障害者・文化祭みやざき大会」開会式に笑顔でご出席された。
御所内でも人とお会いになる機会は多いが、皇后はいまだ1回目のワクチンを打たれていないというから、驚いた。ある元宮内庁関係者は、ワクチン接種が遅くなったこともご出席のお気持ちをとどめてしまったのではないかと指摘する。
ワクチン接種は個人情報だというお考えから、象徴というお立場の陛下だけが、7月6日にお住いの赤坂御所で受けられたと公表された。
「陛下のワクチンですら、打つのが遅いという向きがあります。2回目が大会の直前となるのはいかがなものでしょうか。ご高齢の皇族方を優先されて、今回のスケジュールとなったわけですが、陛下の慮(おもんぱか)るお気持ちを説得して早く打っていただきたいと進言する人が周囲にいないのではないかと思いました」(前述元宮内庁関係者)
両陛下は、東京五輪大会の前には、皇居・宮殿でバッハ会長ら国際オリンピック委員会(IOC)のメンバーや各国首脳との面会を行われる予定だ。
今回の陛下の五輪開会式へのご臨席と雅子皇后ご欠席は、外国首脳たちの欠席が増えているという動きも鑑みて、6月には宮内庁の中で決まっていたといわれる。
そして、6月24日の西村泰彦宮内庁長官の「拝察」会見へとつながった。
天皇陛下の「お気持ち」と今後の展望
西村長官は会見で、陛下が「開催が新型コロナウィルスの感染拡大につながらないか、ご懸念されている、ご心配であると拝察している」と発言。
宮内記者会見からの質問に対して「陛下から直接うかがったものではない」と繰り返し、「拝察」したものに過ぎないと強調した。
だが、長官という立場で、陛下に確認することなく異を唱える発言をするのは考えにくかった。発言は、陛下のお気持ちとして受け取られ、ニュースでも大きく取りあげられた。
長官が「拝察」「肌感覚」を繰り返したことで、収まったかのようにも見えたが、天皇が長官に発言させてまで国民に伝えたかった真意は何だったのか――。
陛下は慎重なご性格として知られている。第1回目の緊急事態宣言の直後に、天皇として国民に向けてのおことばを求める声もあったが、政治的関与は許されないというお立場から、公務の中で言葉を滲(にじ)ませたことがあった。
「以来、両陛下は公務の中で、実際に現場で働く医療従事者やコロナの専門家たちなどから話を聞いて、国民に寄り添われて来られました。お2人で熱心にメモを取られながら、現場で起こる苦労や改善策、感染拡大への憂慮などを示されていらっしゃいました」(宮内庁関係者)
今年元日、両陛下はコロナ禍に関してのビデオメッセージを発表。現場の状況や関係者らから話を聞いてこられた両陛下のおことばには力があった。
4月20日、陛下は菅義偉総理大臣からの「内奏」を受けられた。「内奏」とは、総理が国内外の情勢について報告をするもので、内容は公にならない。その日の夜、菅首相は、衆院本会議でオリンピック・パラリンピック開催について「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証として実現する決意に何ら変わりはない」と発言。
陛下とお会いした関係者によれば「陛下はオリンピックを反対しているわけではないが、ゴールデンウイーク前で感染者が増えることも予測される中で、オリンピックありきの強い姿勢に少し違和感を感じておられるようでした」という。
次いで行われた6月22日の「内奏」では、菅総理大臣は、オリンピックのコロナウイルス対策などを報告したといわれたが、後の西村長官発言でウイルス対策について念押ししていることからも決して具体的なものではなく、納得はなさらなかったのだろう。
こうしたことからも西村発言は、陛下と菅政権の齟齬(そご)から生まれたのかもしれない。何としてもオリンピックを推し進めたい菅政権と国民の立場に寄り添ってきた陛下のお気持ちには、差があったのかもしれない。
陛下は雅子皇后が東宮妃時代、長期療養を余儀無くされるご病気(後に適応障害と発表)に苦しまれた際に「人格否定発言」をされて、現状を訴えられた。雅子さまを守るために宮内庁に風穴をあけられたが、さまざまなリスクも背負われた。
今回の長官発言とは、内容は違うものだが、根底には同じ現状を訴えるというものがある。宮内庁関係者は、
「陛下は、これからも政治的関与とならないよう間接的な手法で、お気持ちを述べられていくのではないでしょうか」という。
またひとつ、令和スタイルが垣間見えたようだった。
《取材・文/友納尚子(ジャーナリスト)》
【PROFILE】
友納尚子(とものう なおこ) ◎新聞、雑誌記者として取材活動後、独立。社会ニュースを中心に取材。皇太子妃時代の雅子さまについて長く取材・執筆し、現在に至る。著書に『皇后雅子さま物語』(文春文庫)など
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自閉症の青年GAKUが描き出す障がい者の可能性
赤い髪が印象的なココさんはパリコレにも参加したことがあるハイブランドのデザイナーとして長年活躍。第二の人生を求めて飛び込んだ福祉業界で「がっちゃん」と出会った。そして重度の自閉症である青年との距離を少しずつ縮めていく。やがてGAKUは、言葉で伝えられない気持ちを「絵」で表現するアーティストに成長した。「がっちゃんにとって、私は先生? お手伝いさん?」そんなココさんの問いにGAKUは──。
同じポーズをとる古田ココさんとGAKU(撮影/渡邉智裕)
川崎市の高津駅から徒歩1分、雑居ビルの殺風景な階段を3階まで上りドアを開けると、別世界のようにカラフルな色に囲まれたアトリエがあった。アーティストとして活動するGAKU(20)は、ここで1年におよそ240作品を生み出している。
凸凹二人三脚で世界へ
鮮やかな黄色の壁、天井にはシャンデリア。窓枠と色をそろえた赤い椅子。棚にはキャンバスや絵の具がぎっしりと並べられ、反対側の窓際にはノートパソコンが置かれたデスクがふたつ。
奥の席はGAKU、手前はアートディレクターの古田ココさんの定位置だ。机の前には、ムラなく一色に塗られたキャンバスが2枚置いてある。
「どうも、ココです。GAKUは今日、少し遅れて来るから、先に話しましょう」
ふわふわの赤い髪に大きな瞳、迷いなく歯切れのいい言葉。小さな身体から発する存在感が大きい。
毎週月曜日から金曜日の朝10時から夕方5時まで、GAKUはココさんと一緒にこのアトリエで過ごし、絵を描く。ずっと描いているわけではなく、お気に入りの乳幼児用DVD『ベイビー・アインシュタイン』を繰り返し見たり、突然部屋を飛び出して4階に駆け上がって窓から道を見下ろし、ビルの前の通りを行き交う車をじっと見つめたりして過ごすことも多い。
この日、GAKUがやってきたのは11時だった。階段を駆け上がってくる音がしたかと思うと、イケメンの青年が風のように現れた。金髪でサラサラ揺れる前髪の間にチラリと見える目が色っぽい。すらりと背が高く、おしゃれなジーンズをモデルのようにはきこなしている。
「おはよう、がっちゃん!」とココさんが声をかけるが、GAKUはチラリとココさんを見ると、その横を素通りして自分のデスクにまっしぐら。家から持参したDVDを無言でバリバリとシュレッダーにかけ、そのゴミを持ってすぐに部屋を出て行った。
ゴミがゴミ箱にあることが嫌いで、すぐにゴミ箱を持って捨てに行くという。目的をすませるとすぐに戻ってきて、青い作業着に素早く着替え、絵を描きはじめた。動きが早く、人の倍速で時間が流れているようにも見える。
「アトリエで2人で過ごすようになって1年半くらい。最近、『がっちゃんの仕事は?』って本人に聞くと、『ペイント!』って答えます。個展をいくつも経験して絵も売れて、自分は画家だという自信が出てきたんじゃないかな」
GAKUは知的障がいを伴う重度の自閉症と診断されている。ADHD(多動症)でもある。アメリカで9年間療育を受けたため、会話は5歳児程度の英語と、3歳児程度の日本語を織り交ぜて使う。
「私は絵の先生ではないんです。『ココさ〜ん、ふく!』と言われれば、こぼれた絵の具を拭き取り、『ブラシあら〜う!』と言われて筆を洗う。ものが落ちれば『ひろう! ひろう! ワン、ツー、スリー!』って言われながら、せっせと拾います。まぁ、アシスタントかな。がっちゃんは王様気質なの」
撮影が入ったこの日、カメラを向けられながら創作活動をしていたGAKUは、キャンバスからこぼれ落ちた絵の具を自分で拭いた。
「がっちゃん、自分で拭いてるの? うふふ。いつもは絶対私に頼むのに、お客さんが来てると頑張っていいところ見せちゃうんですよね。これもまたかわいいんだな」
お昼が近づくと、がっちゃんの「ランチ!」のひと声でランチタイムに。
「最近は、ビルの1階にあるコンビニにがっちゃんと一緒に買いに行きます。がっちゃんは必ず納豆巻きを3、4本とポケチキのホット(辛味)と柿ピー。柿ピーのピーナツは取り分けて、自分は食べずに私にくれるの。私も食べきれないから、ストックしてます。最高でしょ?」
GAKUが初めて個展を開いたのは2019年5月、世田谷美術館の区民ギャラリーだった。約50点の作品で壁を埋め尽くすと、「作品からあふれる力強いパワーとハッピーなオーラで空間が満たされた」とココさんは振り返る。GAKUを応援する身近な人たちはもちろん、GAKUを知らずに訪れた人たちもその作品に魅了され、無名だった彼の作品が10点売れた。
開催前は作品が売れるとは思っていなかった。ハワイ在住の祖父母が来るというので、「記念に買ってくれるといいね」と冗談のように言って笑っていた。
終わってみれば150万円の売り上げとなった。
以来、年に200点以上のペースで作品を生み出し続け、毎年個展を行っている。昨年はニューヨークのギャラリーでも個展を開催。作品の値段は上がり続けている。有名なバッグのブランドとのコラボレーション企画も進行中だ。ココさんは、いわばその立役者でもある。
ココさんとGAKUの出会い
「20代のころからファッションデザイナーとして服を作ってきました。でも、人生の最後の仕事は障がいに関わることをしたいと決めていたんです。そこには、自分の生い立ちも関係しています」
ココさんがGAKUと出会ったのは2017年のことだ。GAKUの父である佐藤典雅さん(50)は現在、発達障がいの子どもたちをサポートする株式会社アイムの代表を務めている。その会社が運営する放課後等デイサービスのスタッフ面接に、ココさんが応募したことがすべてのはじまりだった。放課後等デイサービスとは、発達障がいの子どもたちが放課後を過ごすための学童保育のような場所だ。
「私、子どもたちに絵を教えようとかファッションの仕事を生かそうとは考えていなかったんです。弟が難病だったことや、親戚に自閉症のいとこがいたこともあって、私が障がい者として生まれてもおかしくなかったなと思っていて。なんだろう、自分のルーツを知りたいと思ったのかな」
長年ファッションの世界で生きてきたが、60歳を前に「ファッションはやり切った」という感覚になった。全く違う仕事をしてみたかったという。
放課後等デイサービスのパートの面接を受けるたび、毎回こんな会話が繰り返された。
「髪を黒くして、マニキュアはやめて爪を切って、ピアスははずしてください」
「どうしてですか?」
「保護者や学校関係者と会う仕事なので、相手に対して失礼ですから」
ココさんは衝撃を受けた。パリコレに参加するハイブランドでの経験もある。ブランドをいくつも立ち上げた。ファッションはココさんの人生を投じた世界だ。それなのに、長年生きてきた自分のスタイルは「失礼だ」と、うさぎのエプロンをして髪を無造作にゴムでまとめている人に言われ続ける。「この業界では働けないかな」と諦めかけていたとき、最後に『株式会社アイム』の面接を受けた。
「もうね、最初に自分から聞いたんですよ。私、髪も染めないし爪も切らないし、ピアスもはずしませんけど、大丈夫ですかって」
黒い服、赤い髪のココさんの前には、社長であるGAKUの父、典雅さんが座っていた。同じく全身黒い服でツーブロック、服装も髪型も話し方も、これまで会ってきた福祉関係者とは全く違う。
「え、逆になんで? 全然いいじゃん」
その場で採用が決まった。1か月半後、社長の息子「がっちゃん」と出会い、ココさんの第二の人生は幕を開けた。
「自閉症は治る」と思っていた
GAKUの本名は佐藤楽音。2005年5月1日に横浜市で生まれた。出産も大変だった。母の祥江さんは当時をこう振り返る。
「妊娠中は切迫早産で2回入院しました。生まれたときは、へその緒が首に巻きついていたんです。分娩中に心音が消えて陣痛も急になくなった。お医者さんは何も言いませんでしたが、私はとにかく赤ちゃんに酸素を送らなきゃと思って、一生懸命深呼吸をしました。そうしたら心音が戻ってきて……。母子手帳には胎児切迫仮死と書いてありました」
3175グラムと身体は大きかったが、聞こえてきたのは、「ふにゃあ」という微かな産声だった。
愛称は「がっちゃん」。名づけたときは、「ガチャガチャした騒がしい子になるかな」と冗談で笑っていたが、名前のイメージ以上に大変だった。
産後は順調に育ったが、おっぱいでは足りずミルクを大量に飲む。飲み切ると癇癪を起こして大声で泣き続ける。規定の量の粉ミルクを多めのお湯で溶き、お腹を満たした。抱っこで揺らし、ベビーカーで動き続けなければギャン泣き。車に乗っているときも赤信号で止まっただけですぐに泣き始める。
「ハイハイもせずに6か月目で立ち上がり、1歳になると走り回るようになりました。1回の散歩では毎回2時間歩き続けるので主人が引き受けてくれました。とにかく目が離せない。身体の発達は早いのに、言葉はあまり出てこない。気に入らない食べ物が出るとスプーンを床に投げつける。でも男の子だし、こんなものかなと思っていたんです」
自閉症の診断を医師から受けたのは3歳のときだった。
「2歳の終わりごろから、同じ時期に生まれたお子さんはペラペラお話しするし大人の言うことも理解しているように見えました。でも、がっちゃんは言葉が遅いだけじゃなくてわかっていない。インターネットで心当たりのあることを調べたら、自閉症という言葉が出てきて、血の気が引きました」
はっきりとした診断を受ける前後、夫婦で自閉症について必死に調べた。アメリカで保険適用となっているABA(応用行動分析)という療法がよいらしいと知った。夫婦ともにアメリカの教育を受けて育ったため、出産前から「子どもが生まれたら小学校に入る前にアメリカで生活しよう」と話していたことも後押しした。
「一刻も早くアメリカに行こう」
父の典雅さんは日本での仕事を辞め、アメリカでの仕事を探し始めた。
「自閉症と言われても、最初はよくわからなかった。自分で閉じこもるという字を書くのだから引きこもりになるの? 病気なの? それくらいの知識しかありませんでした。当時は、日本で診断後のことを聞いても、月に1度診察を受けて様子を見るだけと言われて、ダメだと思った。アメリカに行けば、治る病気だと思っていたんです」
「楽しければそれでいい」
4歳のとき、家族でロサンゼルスに引っ越した。アメリカでは療育は無料だ。障がい児のプログラムはスペシャルエデュケーション(特別教育)と呼ばれ、その子に合った学習プログラムが組まれる。
義務教育の幼稚園で支援学級に入ると、マンツーマンでセラピストがつき、言語聴覚士や作業療法士など専門の先生が細やかに見てくれる。アフタースクールも週に4回、2時間ずつ家にセラピストが来て、週1回は放課後等デイサービスのような場に通った。
「サポートは手厚かった。でも、2年くらいでわかったんです。突然走り出す、トイレの水を何度も流す、天井にピザを投げる、時には部屋の真ん中にうんちをしてしまう。
そんな困ったこだわり行動は訓練しても治らない。がっちゃんが嫌なことは絶対やらないし、やりたいことは誰も止められない。一定の周期でピタッとおさまって、また違うこだわり行動に移る」
自閉症は変化を嫌うため、セラピストはスケジュールどおりに行動させて、ご褒美シールをあげるなど、アメとムチで指示を守らせていた。典雅さんには「特定の行動パターンに押し込んでいるように見え、がっちゃんにとっては屈辱的だと思った」と言う。
しかし、1つ救いだったこともある。アメリカのセラピストは、訓練をしていても、本人が集中していなければ、中断して一緒に遊んでくれた。泣き叫んでいるのに無理にやらせてもいいことはない。
「がっちゃんは療育を受けてもずっとがっちゃんなんですよ。アメリカで最先端といわれる訓練プログラムを受けても自閉症の特性は治らない。だから、がっちゃんが楽しければそれでいいじゃないかって思えるようになった。ようやく自閉症を受け入れた。それからは僕自身もリラックスできるようになりました」
祥江さんにとっては、アメリカでの手厚いサポートや、そんな典雅さんの態度が支えになっていた。
「セラピストが家に来てくれると、困っていることを相談できる。本当に安心でした。がっちゃんも、一緒に遊んでくれるセラピストのお姉さんが大好き。それに、主人ががっちゃんにおおらかだったから、とても救われたんです」
一瞬でも目を離せばいなくなる。2人きりで散歩に行くことはできなかった。買い物に出かけてもベビーカーからは絶対に降ろさない。レジで止まるだけで大泣きだった。
「主人は仕事が休みの日にがっちゃんをあちこち連れて行ってくれましたし、家を汚してもおおらかに対応してくれて、いつの間にか笑い話にしてくれる。友人たちとのバーベキューにも連れ出して、がっちゃんの困ったエピソードも笑い話のように話してくれる。私みたいに心配性だったり、ちゃんとしつけろって怒る人だったら、2人してがっちゃんにつらく当たったかもしれない。私とがっちゃんで心中していたかもしれません」
「がっちゃんを通わせたくない」
がっちゃんが14歳のころ、家族で日本に帰国した。神奈川県川崎市の公立中学校の特別支援学級に通うことになった。夫婦でいくつかの放課後等デイサービスに見学に行って驚いたという。
「あまりにもアメリカの学校と印象が違う。暗い」
アメリカの教室はデザインも洗練されていて、開放的な空間に子どもたちが楽しそうに通っていた。しかし、帰国して見学に行った放課後等デイサービスは、ゴムマットが敷かれたフロアに折り畳みのテーブルがポツンと置いてあるだけ。部屋は飾りもなく寂しい。スタッフも元気がない。空気も澱んでいるように感じた。
「こんなところにがっちゃんを通わせたくない。療育は学校だけで十分。放課後くらいはがっちゃんが楽しめる場所、自閉症の子どもたちが楽しく過ごせる場所がないと」
そう思った典雅さんは、日本で転職活動中だったが、「探し回るよりつくったほうが早い」とすぐに思った。
典雅さんは、グラフィックデザイナーから始まり、ヤフー・ジャパンのマーケティング、東京ガールズコレクションのプロデュースなどさまざまな仕事を手がけてきた。
「アメリカで教育の大半を受けたので英語は使いこなせるけど、日本では、高卒だということで転職がままならない時期もありました。突然仕事を失ったことも、収入が途絶えた時期もある。しかし、どんな状況に追い込まれても立ち上がってきた。怖いものはありませんでした」
最初の利用者はがっちゃんを含め3人。スタッフは典雅さんや共同経営者、妻の祥江さんも含め7人。立ち上げのころからのがっちゃんを知っている三枝倫代さん(56)もそこにいた。
「出会ったとき、がっちゃんは14歳。150センチくらいだったかな。とにかくパワフルで頭の回転が速いので、次々にいろんなことを思考して、行動に移していくんです。絵を描くこともあったけど、ほんの数分チャチャッと描いたらすぐ次のこと。しかも大人から見ると困ったいたずらばかり。掃除機を教室の前の川に投げ入れたこともあった。吸引力が落ちていたので捨てたかったんでしょうね(笑)。さすがにスタッフが慌てて回収しました」
ここでのルールは何もない。やりたいことをやらせてあげてほしい。「すべての個性をハッピーに」。それが『アイム』の運営方針だった。
「その子がやっていることを制止せず、フォローする。そのほうが子どもたちが伸びることを私も子どもたちに教わりました。子どもたちも『アイムに来ると楽しい』と言ってくれます」(三枝さん)
がっちゃんや通っている子どもたちの成長に合わせて、アイムの事業は高校やグループホーム、生活介護や就労支援などに広がった。
ココさんががっちゃんと関わりはじめたのは、今から4年半前。中学校を卒業したがっちゃんのために、アイムが立ち上げたノーベル高等学院(現在休校中)でのことだ。以来、ココさんは午前中はノーベル高等学院のスタッフとして、午後は放課後等デイサービスに移動して「がっちゃん」担当として、ほぼ一日中ともに過ごすようになる。
「がっちゃんはアイムでいちばん大変だとみんなが言っていました。でも、最初見たときに、この子おもしろいなって直感的に思ったの。キラキラして只者じゃない感じ。『ココさん』って名前もすぐに覚えてくれた。でも、初めのころはお試し行動があって、どこまで自分を受け入れてくれるか、いろんなことをやって私がどこまで信頼できる人間かを確認するんです」
突然外に走って出て行ってしまったときは、慌てずにココさんが建物の入り口でがっちゃんが帰ってくるのを待っている。そうすると、うれしそうに戻ってくる。しばらくして納得するとまた次のお試し行動が始まる。そんなやりとりを何度も繰り返し、関係性をつくっていったという。
「がっちゃんは頭がよくて、こちらが話すことは大体わかってくれる。でも、自分の思いを伝えられない。だからときどき爆発しちゃうんだろうなって。何か彼の思いを表現する方法が見つかるといいなとずっと思ってました」
「生まれてこなければ……」
ココさんは5歳のころに母親から言われた言葉を忘れられないでいる。
「あなたが生まれてこなければ、こんなに不幸な子(弟)は生まれてこなかった」
ココさんには3つ上の姉と3つ下の弟がいた。弟は生まれつきの難病で、入退院を繰り返していた。子どもは男女1人ずつが理想で、2人目が男の子なら3人目は産まなかったという意味だったとココさんは理解している。
「最初は意味がわからなかったけど、自分のせいで母がひどく悲しみ、自分を快く思っていないことはわかった。だから、私は悪い子なんだと途方に暮れていました。母はことあるごとに弟が可哀想だと泣いていた。私から見れば弟はそれなりに幸せに暮らしていたのに、どうして目の前で本人に向かって可哀想って言うんだろう、そんなことを言う母親は歪んでるって子どもながらに思ってた」
父親がいるときは偽の家族団欒が繰り広げられた。銀座で画廊をしていた父は家を空けることも多かった。母親と2人きりになると肉体的な虐待もあった。言葉による心理的な虐待に加え、洋服で見えないところにあざができるほどに叩かれ、倒れると蹴られた。母の気持ちを察した姉に、風呂場で浴槽に沈められたこともある。
「私、姉よりも何事も要領よくできたんです。勉強もできたし、絵も好きだった。広い家だったのでなるべく母や姉と顔を合わさないように、父の書斎の机の下や、螺旋階段の下の小さなスペースで過ごしていました」
螺旋階段の上のステンドグラスから差し込む光でホコリがチラチラと光る様子をじっと見つめているのが好きだった。どこで知ったかは忘れてしまったが、死のうと思って布団をかぶり、鉛筆を削るナイフで手首を切ったのも5歳のときだ。怖くて悲しくて、ほんの少し傷をつけることしかできなかった。
「小中学校の友達とも話が合わないし、することがないから本を読んだり勉強したりしてました。私にとって楽しかったのは、お絵描き教室とファッションだけだった」
家に仕立て屋さんが来て、生地を選び、母や姉と3人おそろいの服を作る。
「お仕立て屋さんがそこにいるから、そのときは自分の意思を出せる。この柄がいいって言えたんです」
高校生のころは画家を目指したが、父に「絵の才能はない」と言われ断念。デザインの専門学校に進んでファッションデザイナーになった。
20代後半、バブルの時代の3年間、ファッションの現場でチーフデザイナーとパタンナーとして、ともに駆け抜けた仲間が天野泉さんだ。仕事が別々になっても、互いに飾ることなく話すことができる長年の友人だ。
「ココさんは人の力を見抜く力があると思います。ココさんと組んでいたパタンナーは当時3人いてみんな個性的でしたが、得意なことややりたいこと、仕事のこだわりを見抜いて的確に仕事を依頼してくれました。それに、話すのも上手だけど、それ以上に聞き上手。サバサバしているようで優しいから、とても話しやすい。人間的にも総合力の高い人ですね。私にとっては、ともに戦った同志です」
隣で聞いていたココさんのファッション魂に火がつく。
「私ね、あのころの服も捨てられないものをたくさんとってあるんだけど、がっちゃんに着せると似合うんだ。私の服が私より似合うのよ(笑)。がっちゃんの宣材写真を撮影したときも、家にある服を持っていってスタイリングしたの。がっちゃんも、今まで無頓着だったのに今では取材が入る日は自分で洋服を選ぶようになったんです。
ファッションで自分を表現する素晴らしさを知ってくれたんだと思います。大好きだったファッションや絵が今の仕事でパズルのようにつながって、すごく楽しいし幸せ。人生で無駄なことは何もなかった。人間、長くやってみるもんだよね」
楽しそうに話すココさんを見て、泉さんが口を開く。
「第二の人生、さらに輝く場所を見つけてる。がっちゃんもがっちゃんの描く絵も、ココさんも、アトリエや個展で会うたびにどんどん進化してる。20代とは違う充実感が全身からあふれてて、同世代の女性としてうらやましい」
岡本太郎の絵で立ち止まった
ココさんががっちゃんと出会って半年ほどたったころ、がっちゃんが突然、ピタッと足を止めて動かなくなったことがある。
1分たりともじっとできないがっちゃんが、遠足で出かけた岡本太郎美術館の1枚の絵の前で吸い込まれるようにじっと絵を見て身動きもしなくなった。時間にして5、6分、がっちゃんにとってはとてつもなく長い時間。
岡本太郎の代表作『傷ましき腕』だった。
ほかの作品を見るのはほんの数秒。パッと見てハイ次、パッと見てハイ次。
それなのに、「がっちゃんなんで止まってるの?」とみんな首を傾げた。スタッフは理由もわからず、「がっちゃんが止まることなんてあるんだね」と笑っていた。じっとしていることは奇跡に近い。
翌日、がっちゃんが突然ココさんに言った。
「GAKU、絵描く〜!」
それまで、ココさんは鉛筆や筆やスケッチブックを渡したり、絵の具を買いに行ってみたりとあれこれ試していたが、自分から「絵を描く」と言ったことはなかった。ささっと描いて数分で終わり。チューブをぷにぷにと手で触って終わり。初めて自分から絵を描くと言ったのだ。
慌ててトレーシングペーパーを渡すと、「太陽〜、太陽〜」と言って大きな丸をいろんな色で描き上げた。そしてその周りを黒く塗りつぶした。2018年5月、奇跡の1枚。
アーティストGAKUがそのとき誕生した。
「岡本太郎と太陽の関係は誰も話していないのに、きっと何かを感じていたんだと思います。それから毎日、絵を描き続けるようになりました。それまでは自分の好きなキャラクターをまねして描いたり、ほめられたいから描いているようなところがあった。でも、それ以降は、湧き上がる気持ちを表現しているように見えました。がっちゃん、自分を表現する方法を手に入れたんだ、と思って圧倒されました」
ココさんは、典雅さんに提案した。
「がっちゃんに投資してください。絵の才能があると思います。キャンバスに絵を描かせたい」
典雅さんは決心した。自身も子どものころ絵が好きだった。それに、ココさんの絵を見る力を信用していた。最初の1年で、がっちゃんのために60万円かけて画材を買った。
キャンバスの一面に赤や青、黄色など絵の具の色をそのまま塗るところから始まるが、そこに描かれるGAKUの絵はどんどん移り変わっていく。マルばかり描くときもあった。数字が絵のように描かれることもあった。点、線やアルファベット。そのうちに動物も描くようになった。
ある日、ココさんが典雅さんにがっちゃんの様子を話しているときだった。
「がっちゃん、絵を描いてると顔つきも変わるんだよね」
ふと、典雅さんがこんなことを言った。
「ココさん、がっちゃんのサリバン先生になってよ」
会話の途中でサラリと出た言葉だったが、ココさんはその言葉を忘れられない。
サリバン先生とは、ヘレン・ケラー(視覚・聴覚に障がいがあり話せなかった)にいろいろな体験や指文字を通して言葉を教えた家庭教師だ。
「そのときは気軽には〜いって返事したけど、サリバン先生になるなんて、私には無理。ただ、がっちゃんが絵を描き始めてからどんどんコミュニケーションが取れるようになってきて。がっちゃんは英語と日本語とガクト語を使うんだけど、ガクト語はみんなにわからないから、それをたくさんの人に伝えられる絵にしようよっていう気持ちで一緒にアトリエにいます」
キャンバスに塗る色も、絵の題材も、いつもGAKUが自分で決めて迷いなく描く。個展をすると言い出したのもGAKUだ。
「GAKUの絵、美術館持ってく〜!」
「個展したいの? 本当に?」
美術館によく絵を見に行っていたので、美術館は絵を飾るところだということをGAKUも知っていた。
最初のうちは「うん、今度ね」「はいはい、わかった」と返していたが、あまりに何度も言うので典雅さんに相談すると、「そんなに言うならちょっと調べてみるか」と即決。
世田谷美術館の区民ギャラリーで偶然空きがあり、GAKUが言い出して2か月後、18歳の誕生日に初のレセプションが開催された。
「私は私なりに絵を見る目があると思うし、彼を自閉症アーティストではなく、ひとりのアーティストとして見てきたので、個展で絵を売るなら、寄付ではなく、絵が本当に欲しい人にしか売らないということを典雅さんと決めました」
作品を簡単には手放したくないという思いもあり、通常の新人アーティストとしては高値となる1点数十万の値をつけた。終わると作品が10点以上売れた。
翌年には、「NY! ミュージアム!」と言い始めた。それはさすがに無理だろうとみんな思っていたが、佐藤ファミリーとココさんで下見を兼ねて旅行に行くと、ちょうどいいギャラリーが見つかり、コロナの感染が拡大する直前に実現した。
今、父親である典雅さんは、仕事で培ってきたプロデュース能力のすべてをGAKUに惜しみなく注いでいる。
「子どものころから急に全力で走り出すがっちゃんをただ追いかけることだけしかできなかった。放課後がっちゃんが楽しく過ごす場所がなければつくるし、絵を描きたいって言えばその環境を整える。がっちゃんの可能性をいかに奪わずに守るか。障がいのある子もない子も、次の世代の可能性を大人の都合で奪わない。そこは人生を懸けて戦わなければならない。たぶんね、それが俺に与えられたミッションなの」
アトリエ近隣のコンビニやコーヒーショップの人たちは、突然店内に走ってきて手を洗い、出ていくがっちゃんに声をかけ、見守ってくれるようになった。がっちゃんも手を洗うときはクッキーを1枚買えるようになった。
「自閉症や障がいについての理解をコツコツと広めるよりも、GAKUのことを日本中、世界中の人が知ってくれたほうが早いんだよね、たぶん。今日、GAKU見たよ、カッコいい、ラッキー!って言われるようになるのがいちばんだなと思って。そうなったら、いろんな特性を持った子どもたちへの理解が広がるよね。次の目標は森美術館で個展やりたいな(笑)」
GAKUは今でもときどきココさんに尋ねることがある。
「ココさん、何を描く?」
「なんでもいいよ」
「何を描く〜?」
「じゃあ、赤いマルはどう?」
「NO!」
そう言って、知らん顔で黄色い四角を描く。アーティストとしての振る舞いか、生まれついての王様気質か。
ある日、ココさんはGAKUにこう尋ねてみた。
「がっちゃんにとって、ココさんは何? 先生? お手伝いさん? それとも……」
GAKUは迷わず答えた。
「フレンド!」
胸が熱くなる。
「がっちゃん、私のこと友達だって思ってくれてたんだ。そうか。だから一緒にいたら楽しいし、時には喧嘩もするんだよね。そう思いました。不覚にも泣きそうになっちゃった(笑)。
私の中では、『障がいのある子に福祉の仕事をしてる』んじゃなくて、『毎日がっちゃんっていう友達と一緒にいます!』っていう感じ。寂しかった5歳のころの私が、がっちゃんといきいきと遊んでる。
私はいくつになっても子どもっぽいところがあるんだけど、ずっと大人になりきれなかったのは、こうしてがっちゃんに出会うためだったのかなって思っています」
階段を駆け上がる音がして、がっちゃんがひょいっと顔を出す。
「ココさん! ランチ!」
「はいは〜い!」
◆『byGAKU-20』画集本 クラファン・プロジェクト◆
自閉症アーティストGAKUの20歳を記念した企画プロジェクト。これまでの600点以上の作品の中から最も人気の高かったベスト・オブ・ベストをセレクト。さらに6名の先鋭カメラマンにGAKUモデル撮影を依頼。それぞれの持ち味を生かして新しいGAKUの表情が引き出されています。SDGsアートとSDGsモデルとして活躍するGAKUの金字塔となる画集本となります。(開催期間 7/13〜8/15 予定)https://readyfor.jp/projects/bygaku20
取材・文/太田美由紀(おおた・みゆき)大阪府生まれ。フリーライター、編集者。育児、教育、福祉、医療など「生きる」を軸に多数の雑誌、書籍に関わる。2017年保育士免許取得。Web版フォーブスジャパンにて教育コラム連載中。著書『新しい時代の共生のカタチ 地域の寄り合い所 また明日』(風鳴舎)
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64歳無職の賽銭泥棒、犯行の一部始終
「事件当日、参拝時間が終わると社務所を閉め、午後5時ごろ妻と帰宅の途につきました。神社を出てすぐ、境内にある植木の健康状態が悪かったことを思い出し、妻が詳しい状態を確認するため神社に戻ったんです。
すると、本殿の賽銭(さいせん)箱にゴソゴソと棒を突っ込んでいる男がいて、“何をしているの?”と声をかけると、“賽銭箱の中に物を落としちゃって”と言い訳して逃げるように去っていった。そんなことはないだろうと防犯カメラの映像を確認すると、賽銭の千円札を2枚盗むところがしっかり映っていたんです」
盗難被害にあった「秩父今宮神社・八大龍王宮」(埼玉県秩父市中町)の氏子総代・井上貞雄さんは6月25日の出来事をそう振り返る。
平容疑者が賽銭を盗む瞬間(6月25日)=秩父今宮神社提供
同神社の境内に設置された賽銭箱から現金約2000円を盗んだとして埼玉県警秩父署が6月27日、窃盗の疑いで逮捕したのは同県秩父市蒔田の無職・平重壽容疑者(64)。犯行2日後にスピード逮捕された背景にはツイッターの活用があった。
被害届を出した神社がツイッターに防犯カメラの映像を投稿したところ、「似た男が目の前にいる」などと同署に通報が入った。たまたま警察署の近くをとぼとぼ歩いていた容疑者は犯行時と同じ服装で、駆けつけた警察官に任意同行を求められた。
「2000円が惜しくて情報提供を呼びかけたわけではありません。何らかの事情でお金に困っていたのかもしれませんが、悪いことをしてもいい理由にはなりません。例えば子どもが賽銭箱から10円玉を盗んだとしたら、少額だからと目をつぶらず、叱ってあげないといけない」と前出の井上さん。
平容疑者は逮捕当初の取り調べに対し、
「納得がいかない」
などと容疑を否認している。
地元記者はこう付け加える。
「周辺では同様の被害がいくつか確認されており、警察は関与の有無を慎重に調べている」
日付を見なければ錯覚しそうなほど
それにしても、なぜ神社は防犯カメラを設置していたのか。再び井上さんの話。
「ずいぶん前から賽銭泥棒の気配を感じていたからです。どう考えても賽銭が少ない。数年前には、ポチ袋に『賽銭泥棒さんへ』と表書きして中に手紙を入れたこともあります。手紙には『盗まないでほしい。泥棒はやめて』などと書いたんですが、翌日にはポチ袋ごと消えていました。その場で中身を確認せず持ち帰ったのでしょう。賽銭箱にはだれがいくら入れたかわかりませんが、どうもお札が少ない。それで今年6月3日にカメラを設置したばかりでした」(井上さん)
容疑者の逮捕後、神社が過去の映像をチェックしたところ、あきれた新事実がわかった。
「防犯カメラを設置した日までさかのぼって録画内容を調べてみると、容疑者は毎日映っていました。社務所を閉めて無人になった時間帯を狙い、いつも同じ服装です。毎回盗みを働いていたわけではありませんが、逮捕案件のほかにも犯行があったため、追って3件の被害届を出しました」
実際に映像を見せてもらうと、たしかに連日、神社を訪れている。社務所が閉まったあとだから人の気配はないにもかかわらず、あたりを何度も見回す挙動不審な様子がばっちり映っていた。伸縮する棒の先に粘着性物質を取りつけ、賽銭箱のすき間から巧みに紙幣を拾い上げる手口。逮捕案件のほか、6月7、9、14日のいずれも午後5時10分前後に犯行におよんでいた。
犯行ルーティーンは正確だった。
「まず賽銭箱の中をのぞきこみ、それなりに賽銭があって盗むときは、小銭を放りこんでから合掌し、一礼したのち、賽銭箱に棒を突っ込んでいます。日付を見なければ錯覚しそうなほど常に同じパターンです。何かを祈っているというよりも犯行のカムフラージュでしょう」(前出の井上さん)
容疑者宅から秩父今宮神社までは直線距離でも約6キロ離れている。途中、少し遠回りして川を渡らなければならないほか、網の目のように道がつながっているわけでもなく、地域住民によると「実際上は片道約7〜8キロ、徒歩2時間はかかる」。しかし、容疑者はこの道のりを毎日歩いていたという。
「朝から晩までいろんなところで歩いている姿をよく見かけた。昔は車も持っていたし、自転車に乗っていた時期もあったが、ここ数年は常に歩き。神社との往復に使うルートだけでなく、少しはずれた場所で見かけたこともあるから1日20キロ近く歩いていたのではないか」
と近所の男性。
急にミュージシャンぶることもあった
周囲を畑に囲まれた容疑者宅を訪ねると、家人の応答も人の気配もなし。風穴のあいた廃屋のような古民家で、ガラス越しにビールの空き缶などが詰まったゴミ袋がいくつも見えた。
近所の女性が言う。
「家にはだれもいませんよ。彼はずっと独身でひとり暮らしだから。十数年前までは老いた母親と住んでいましたが、もう亡くなっています。
賽銭泥棒で逮捕されたと聞き、正直またかと思いました。昔から手癖の悪さで有名で、農協に米を盗みに入ったり、神社や地蔵のあるお堂で賽銭泥棒したり、車上狙いしたり。警察にも何度か捕まっているんだけど、被害額が小さいせいかすぐ戻ってくるんです」
農業や建設作業の手伝いで生計を立てていた父親と、工場でパート勤務する母親のあいだに6人以上いるきょうだいの末っ子として生まれた。地元の小・中学を経て職業訓練校に進み、さまざまな仕事に就いたがどれも長続きしなかった。
容疑者の知人男性はあきれたように話す。
「根っからの仕事嫌いなんだよ。健康センターの清掃、ゴルフ場の草むしり、ラーメン店の店員などあらゆる仕事をしたことがあるが、10日も続いたことはない。いい大人が仕事もせずプラプラしているのは世間体が悪いから、仕事を世話しようと思っても、あーだ、こーだ言って働こうとしないんだ」
ダンプカーの助手席に座っているだけで弁当も出すよ、と持ちかけると、
「いや……」
と渋る。
犬の散歩を手伝ってくれれば小遣いを出すよ、と言うと、
「犬は嫌いなんだ」
と断る。
無職であることを認めず、架空の勤務先を口にしたり、
「オレは作詞をしているんだ」
と急にミュージシャンぶることもあった。
きょうだいがみな自立し、両親が他界しても容疑者のスタンスは変わらなかった。
「働かないくせに酒とたばこは欠かさず、近くのコンビニなどで1・8リットル入りの酒の紙パックをよく買っていた。皮肉をこめて“おまえ、たいしたもんだな。仕事もしないでたばこ吸って酒飲んで”と声をかけると、“安い酒だよ”と言い訳していた。なんたって、母親が亡くなる前に老人ホームに入っていたとき、金をせびりに顔を出したぐらいなんだから」
と知人男性。
近隣住民の多くは、容疑者の生計について「親の遺産の残り」「きょうだいの援助」「生活保護費」などでまかなっていると思っていたという。
町内会費はもう何十年も払っておらず、そうした負い目からか、生活保護費の受給を勧めても、「オレなんか、もらえっこないよ」と首を振った。
その一方で、賽銭泥棒行脚はしていたわけだからひどい。
自分の心を映しているのです
ちなみに秩父今宮神社では1日平均どれくらいの賽銭があって、箱の中身はどれくらいの間隔で回収するのか。
前出の井上さんは、
「平均金額を算出したことはありませんが、数千円程度です。基本的には毎日夕方、回収するよう努めていますが、担当職員が休みのときや他の業務で立てこんでいるときなどは毎日回収できないこともあります。現在は毎日回収しています」
と答える。
神社側の呼びかけを受け、心ある市民が情報提供したからこそスピード逮捕に至ったのは間違いない。容疑者はバチがあたったのだろうか。
井上さんは言う。
「みなさんのご自宅にある神棚でも、全国の神社でも同じなんですが、手を合わせて祈る先の中央には必ず丸い鏡があります。自分の心を映しているのです。柏手(かしわで)を打ったり鈴を鳴らして神様に気づいていただき、心をきれいにして祈ります。そういう所で悪いことをしていいはずがありません」
◎取材・文/渡辺高嗣(フリージャーナリスト)
〈PROFILE〉法曹界の専門紙『法律新聞』記者を経て、夕刊紙『内外タイムス』報道部で事件、政治、行政、流行などを取材。2010年2月より『週刊女性』で社会分野担当記者として取材・執筆する