入りたかったのは、農大「探検部」
「子どもの頃から、とにかく自然の中で遊ぶのが性に合っていましたね」
そう語る青木亮輔氏は1976年に大阪市此花区で生まれ、11歳の時に千葉県船橋市に移り住んだ。これだけを聞くと、自然からはむしろ縁遠い印象を受けるが…
「大阪に住んでいた頃はわりと海が近かったので、よく父に海釣りに連れて行ってもらっていましたし、ちょっと足を伸ばせば山もあったので、自然は意外と身近でしたよ。それから、毎年夏休みになると母の実家がある岩手県の久慈市に帰省していました。三陸沿岸なので太平洋がすぐ近くですし、内陸には山も多かったので一日中自然の中で遊んでいられて、とても楽しかった。それが、わたしにとっての原体験になっています」
海も山も大好きな青木少年は、やがて中学生に。そこで、その後の人生を大きく左右する映画に出会うことになる。
「登山家で冒険家の植村直己さんを描いた『植村直己物語』を観て、すごく感銘を受けました。大人になっても自然の中で好きなことをしながら生活をしている人がいるんだなあ、と。それまでは、自分も自然の中で何かするのが好きだけれども、大人になったら普通に会社に就職するのかなあ…と漠然と思っていましたから。
その後、高校に入って進学を考えるようになってから、いろいろな大学の部活動を調べました。植村さんが明治大学山岳部出身なので、わたしも最初は山岳部を考えたのですが、未踏峰の山なんてもうほとんど残っていないから面白くない。そんな中で、探検部という存在を知って。だれも行ったことのない川や洞窟といった場所が、まだまだ地球上にはあるかもしれない。そこに可能性を感じて、探検部のある大学を探しました。その中で有名だったのが東京農業大学の探検部でした」
青木氏がまだ高校生だった1994年、東京農業大学探検部は中国の研究機関・中国科学院と合同チームを組み、それまで明らかにされていなかったメコン川源流の発見に成功していた。青木氏は是が非でも農大に入るため、徹底した行動に出た。
「自然に関係しそうな学科は、試験日が重ならない限り、地方の試験会場も含めてすべて受験しました。たまたま補欠合格で引っかかったのが、農学部の林学科でした。とにかく探検部に入りたかったので、大学に潜り込めれば学科はどこでもよかった。でも結果的には、林学科でよかったなあと思います」
1995年、青木氏は念願の農大に入学し、すぐさま探検部の部室のドアを叩いた。ところで林学科とは、具体的にどんな学問をするところなのか。
「林業政策や林業経営といった文系の専門知識から、木材工学や林業工学といった工学系の分野。それから、キノコの菌糸などについて学ぶ林産化学、樹木の病気に関わる病理学など。木を植えて、育てて、伐採して使っていくという林業の一連の工程を網羅したカリキュラムでした」
自分の存在意義を求め、東京の奥地へ
青木氏は探検部中心の学生生活を送りながらも、無事ストレートで大学を卒業。しかし4年間の部活動だけでは満足できず、もう1年間「研究生」という立場で大学に籍を置き、かつて先輩たちが発見した源流からメコン川をボートで下るという2カ月半の大遠征に参加した。帰国後、同期生からは1年遅れでようやく就職活動を開始。出版社に採用され営業の仕事に就いたものの、1年で退職した。「性に合わなかった」ようだ。
「ずっと探検部の活動に夢中だったので、いざ就職となった時に、自分がどんな仕事をしたいのか全然わかっていませんでした。探検家という道も一度は考えましたけれども、それで生活していくのは実際厳しい。ただ、同期たちに遅れをとっているわけですから、彼らとはちょっと違う目線で次の仕事を見つけたい。そう考えていた時に、ふと大学時代にやっていた造園のアルバイトを思い出したんです。地下足袋を履いて土を踏みしめる感覚がすごく気持ちよかったなあ、と。そう言えば林業の世界って若い人がいないって聞いたなあ。そういうところだったら、自分の存在意義を示せるかもしれない…それで、林業の働き口を探し始めました」
偶然にも当時、厚生労働省が進めていた「緊急雇用対策事業」という失業者対策の一環で、都内の森林組合が半年間限定の働き手を募集していた。青木氏はそこに採用され、2001年4月、林業の世界に足を踏み入れた。任地は西多摩郡檜原村(ひのはらむら)だった。
新宿から西に向かって1時間以上電車に揺られると、JR五日市線の終点・武蔵五日市駅に到着する。そこからさらに路線バスで約30分登った先に、檜原村はある。急峻な山々に囲まれ、平地は極端に少ない。そして面積の9割以上をスギやヒノキをはじめとする針葉樹が占める。現在の人口は約2,300人。島嶼部を除けば、都内唯一の村である。
青木氏が働くことになった森林組合は、村の核と言える存在だった。
「一つの山でも、宅地と同じように地番があって所有者が分かれています。そういった人たちが集まった組織が森林組合です。それぞれの組合員さんの山を整備したり、木を伐採して売りに出したりといったお手伝いをする役割を担っています。また、地域の山林のデータバンクでもあります。長年培ってきた山林整備の記録を持っていますし、どこにだれの山があるかも把握している。そういう意味では、山村の地域リーダーとも言える存在ですね」
日本の林業はなぜ衰退したのか
自分の存在意義を求め、当時24歳の青木氏がたどり着いた林業の世界。かねて聞いていたとおり、そこに若者はいなかった。
「同時期に緊急雇用対策で採用された5人の中で、若い人は自分しかいませんでした。他はみんな中高年。飯場(はんば)という、寝泊りのできるプレハブで自炊生活をしていたんですけれど、自然と毎晩飲み会になる。中には家財道具一式を持って来た人もいて、そういった人たちから“俺は昔すごかったんだぞ”みたいな話を聞くのが楽しかったです。
森林組合が用意してくれた仕事は、林道の整備でした。山奥に入っていって、道に飛び出した木を伐ったり、路面をならしたり。慣れるまでは毎日筋肉痛でした。ただ、あくまで失業率を下げるために用意された仕事なので作業自体はやさしく、林業マンとしての専門的な仕事はまださせてもらえませんでした。それでも、自然の中で働けることがとても嬉しかったですね」
半年間の契約期間後も青木氏は檜原村で働き続け、最終的には現場作業員として正式に森林組合の一員になることに成功した。スギやヒノキの人工林を整備する現場仕事だけでなく、各種申請書類の作成といった事務仕事も経験し、徐々に林業が置かれている状況が青木氏には見えてきた。
「林業の現場で働いている人たちは、60代がメイン。しかも、その人たちも生え抜きではないんです。若い時に林業をやっていたけれど、高度経済成長期には企業に勤めて、定年退職や早期退職をしてから“昔取った杵柄(きねづか)”でもう一度山で働く、というパターンが多かった。本当の意味で林業のベテランと呼べる人は少なかったですね」
かつて林業を担っていた檜原村の若者が、高度経済成長期になって林業から離れた理由は何だったのか。
「もともと檜原村の林業は、木炭用の広葉樹を育てるものでした。戦後になると、それらを復興資材として使うために大規模伐採が行われました。その後、建築用材としてスギやヒノキの需要が高まり、1950年代半ばに当時の林野庁が進めた『拡大造林』政策のもと植林がどんどん行われました。ところが、高度経済成長期を経て1970年代半ばになると、外国産木材の輸入自由化にともない、国産の木材価格は下落してしまった。つまり、戦後にせっかく植えたスギやヒノキが売れなくなってしまった。それで、林業の担い手が離れていったんです」
外材に押された国産材の価格は、いったいいくらまで下落したのだろうか。
「山に立っている状態の木で、例えば樹齢60年のスギなら1本2,000円くらい。1991年の約1/5の値段です。それが伐採されて丸太となって原木(げんぼく)市場に出されて、ようやく1万円くらいになる。わたしが林業の世界に入った頃から、この相場はあまり変わっていません。
木の売り方にはいろいろなパターンがあります。例えば、“このエリア、いくらで買います”と立ち木のまま購入して、自分で伐採・搬出した丸太を、より高く買ってくれるところに売るケース。また、森林組合が山主さんから依頼を受けて山林を手入れして、出てきた間伐材(間引かれた木)を市場に持っていくケースもあります」
やりがいがあるだけでは、仕事とは言えない
自分以外は全員中高年という環境によく馴染み、日々楽しげな青木氏の働きぶりを見た森林組合は、緊急雇用対策事業を通じて徐々に若者を採用するようになった。その中には、すでに結婚して子どもを持つ人もいた。すると、産業が抱える根本的な問題が浮き彫りになってきた。
「仕事はすべて日給制、1日9,000円くらいだったと思います。月の手取りが10万円に届かないこともざらにありました。雨が降ったら仕事が休みになるからです。多くの先輩は年金生活をしているので、無理に働く必要がない。若手のわたしたちとしては、稼ぎたいから雨でも働きたいのですが、先輩の言うことは絶対でした。
そのままでは、生活がなかなか安定しないですし、年をとってもこの仕事を続けるのは難しい。同時に、怪我や事故のリスクを背負いながら働くハードな仕事なのに、現場で働く人たちに光が当たらない当時のしくみにも疑問を持つようになりました。なんとかしようと、若手で集まって何度も話し合いをしました。“林業の仕事はすごく面白いし、やりがいもある。自分たちの手で山がきれいになれば気持ちもよい。でも、それで生活できないのなら、仕事とは言えないよね。”」
そこで青木氏が仲間とともにとった行動は、組合への待遇改善の直訴だった。
「“現場ではこれだけのコストがかかっている、でも自分たち若手がこれだけのペースで作業を進めれば、これだけの利益が出せます”といった提案もしながら、社会保険を付けてください、月給制にできませんかといった相談を何度も持ちかけました」
その矢先、西多摩地域6市町村それぞれにあった森林組合が合併することになり、待遇改善の話は立ち消えになってしまう。この出来事が、青木氏らに前進を促す転機となった。
「“このままだといつかこの仕事を辞めることになる。だったら、自分たちで理想とする林業のあり方を模索できないかチャレンジしてみよう”と。一緒に働いていた若手の仲間と、独立を決めました」
こうして2006年7月、当時29歳の青木氏が代表となり、林業を生業とする新たな事業体が檜原村に誕生した。メンバーは男性4人、平均年齢30歳。“東京で林業をやっている会社だとだれもがわかるように”という理由で社名は「東京チェンソーズ」と名付けられた。一人15万円ずつを持ち寄って資本金とし、チェンソーと刈り払い機、ガソリン缶など最低限の機材を購入。事務所はまだなく、機材は青木氏の自宅に置かれた。