最近ならNHK「デザインあ」、90年代なら「渋谷系」という音楽ジャンルの代表として当時よく名前が挙がっていたcorneliusこと小山田圭吾さんが、オリンピック開会式の作曲者としてスポットを浴びたことにより、過去の「イジメ加害」に関する雑誌インタビュー記事が掘り起こされ「適任ではない」と波紋を呼び、小山田さんは昨日謝罪文を出されました。学生時代にいじめられた経験のある僕はもちろんいじめは思い出したくない程ヤなことだけど、それと同じくらい大きな別の感情を小山田さんには抱えていたので、その行き場のない複雑な感情を整理するには140文字ではとても足りず、久しぶりのブログを綴っています。

僕が青春時代を過ごしたのがまさにその90年代。のどかではあったけど文化的刺激を感じることもなかった地方の町で、上記のような理由で教室では休み時間の方が居心地が悪く、まだ一般的にネットはないという逃げ場のない青春時代。その真っ黒で巨大な空洞のような時間を埋め、せめて頭の中だけで世界を反転させて劣等感を忘れられる術は、マイナーな世界を知ることしか当時の僕には思いつきませんでした。その時に出会ったのが小山田さんが在籍していたフリッパーズギターの音楽です。

フリッパーズギターの音楽は、それまで自分がヒットチャートからは聴いたことのなかったネオアコやソフトロック、ボサノバやフレンチポップやジャズなどを基調としており、PVやファッションも当時の自分からしたら鼻血が出そうなほどお洒落で、歌詞や発言も上品だけど反骨精神や皮肉が効いており、CDジャケットもコンセプトからデザインの斬新さまで徹底されていました(それで僕はCDジャケットへの道を目指しました)。それはまるで頭の中で思い描いていた華やかな都市・東京と、僕の住んでいる殺風景な地方の町がどこでもドアでつながったような感覚でした。その点で音楽用語ではなく街の名前で「渋谷系」と定着したのも頷けます。そんな物知りお洒落なお兄さんが近所ではなくCD棚に出来た僕は、もうひとりでもじゅうぶん楽しくなっていました。小山田さんの音楽だけでなく、彼が紹介するそれまで触れたことのなかった音楽や漫画や映画やファッションで頭の中は埋め尽くされ、真っ黒い空洞はもうなくなっていました。

フリッパーズギター解散後、ソロ・corneliusになったあたりから渋谷系はブームとなり(そもそも地方の町に住んでいる僕に届いている時点でブームだったのでしょう)、テレビで取り上げられたり、そのジャンルの後進がどんどん現れてはメジャーデビューしました。しかし「もっと教えて!もっと教えて!」と思う貪欲な僕に呼応するように、渋谷系が擁する表現はどんどん先鋭化しながら拡張していって、最終的に悪趣味・鬼畜ブームへと到達し、その頃には「サブカル(≠サブカルチャー)」と僕の周りでは呼ばれていました。ネットにはじめて触れた時、どのくらいまで過激な写真が載っているのか試したことがないでしょうか? 日々、SNSで炎上を探しに行っている自分にふと気付いたことはないでしょうか? ネットがなかった時代も同じで、その場が雑誌やAMの深夜ラジオでした。そしてそれをどれだけ広く、深く知っているか、持っているかこそが一部の人たちのステータスになっていた時代でした。そんな空気の中で小山田さんのひどい発言を載せた雑誌は、ノンフィクション的に社会問題に向き合う価値としてではなく、確実に露悪性を持って「どや!こんな過激なインタビュー載せれるオレ、かっこいいやろ!もうイジメられる側ちがうぜ!!」と少なくとも僕には映りました。さすがに引いてしまった。その時代背景は知りつつも、雑誌の趣向は知りつつも、あの物知りお兄さんがそんなことを実際していたなんて、これからどうやって彼の音楽と向き合っていったら良いのだとモヤモヤしました。ヒーローがそれまでの必殺技じゃなく、包丁で戦い出したような生臭い現実が迫ってきたような。その頃テレビアニメとして放送されていた「エヴァンゲリオン」もまさにそうやって戦うシーンがあった。90年代中盤はそんなどこか暴力性までをも含んでパンパンに膨らみ、今にも破裂しそうな風船が常に上空にあるような時代に僕個人には感じていました。

それは一見ソフトである渋谷系の音楽も同じだったのだと、しばらくして気付きました。多種多様な音楽を聴くようになると、歌詞カードのクレジットからオリジナルだとばかり思っていたフリッパーズギターの音楽も、その後ソロになったcorneliusや小沢健二さんの音楽も、ソックリな過去の曲がぽつぽつ見つかるのでした。影響やオマージュのレベルではなく、洋楽のカラオケにただ日本語詞を載せて歌っただけのようなものまでありました。それは当時「元ネタ」などと呼ばれており、みんなが知らない音楽を、音楽を通し紹介するDJ的意味合いや、「情報だけ溢れているが何もできない自分たち」という青春の無力感を表現している、みたく捉えられていましたが、それは当時の当事者の美化であって、元の著作者からすると無許可であった場合、単なる著作権違反/盗用です。今でいう「漫画村」とまったく同じ。もちろんそれは楽曲の要素の一部でしかありませんので、パンと嫌いになって手放すことはありませんでしたが、物知りなだけで無害だと思っていたお兄さんの本棚、CD棚が、実は全部万引きで形作られていたような感覚は憶えました。気付いていなかっただけで、悪趣味・鬼畜に行く前から、もともと暴力性を内包していたのだと感じました。いじめられていた僕なのに、いつの間にか無意識な攻撃性をはらむ、消費という名の傍観する立場になっていたのです。

そんな元ネタ文化は、渋谷系やHIP HOPとともに、時にサンプリングやマッシュアップと呼び名が変わりながらも続きメジャー領域にまで進出。オレンジレンジの「ロコローション」という2004年のヒット曲が「作詞・作曲:ORANGE RANGE」から後に「作詞・作曲:Gerry Goffin・Carole King」とクレジット変更されたのは、そういう時代背景と、インターネットの一般化により情報が世界中でシェアされ問題視されたのが原因です。HIP HOPのバックトラックも、大手のメジャーレコード会社から出るものはサンプリングじゃないものか、原曲のクレジットがきちんと記載され権利者に許諾を得たものが多くなっていきました。

一方、corneliusはその元ネタ文化をフル活用して遊園地化したような3rdアルバム「ファンタズマ」で世界に認められていました(海外で発売するにあたり正式な権利クリアがとても困難だったようです)。過去のインタビューから複雑な想いを抱えながらも、一方で孤独な青春の自尊心を救ってくれたお兄さんの活躍を誇らしくも思っていました。しかしその後のcorneliusは変わりました。オレンジレンジ「ロコローション」と同じ00年代(2001年)に発表された4thアルバム「point」では元ネタは一切使わず、顔も覆面を被り、ビジュアルも華やかさが抑えられ(華やかな「渋谷系」ではなく日常的な「from 中目黒」と名乗る)、歌詞やインタビューも言葉少なくなっていました。ご結婚されてお子さんが産まれたことも影響していたのかもしれません。

ずっと彼の活動を追いかけてきた僕にとってこの小山田さんの変化は、アイドル性からの脱却であると同時に、過去への反省、暴力性の排除として映りました。「point」の優しい音楽性は、お父さまの死と向き合い、更に愛と日常性を増した「Sensuous」、「MELLOW WAVES」&「Ripple Waves」、そして子供向け番組・NHK「デザインあ」へと自然と続いていきました。歌詞の言葉もどんどん少なくなっていきました(あると思ったら坂本慎太郎さん作詞だったり)。それもあって、海外での評価は高まりアルバムが出るたびに世界ツアーを行うワールドワイドなアーティストになっていきました。でもその階段をかけあがる度に僕はドキドキしていました。だって小山田さんの表現の変化から読み解く葛藤やのりこえはファン以外のほとんどの人は知る由もありません。中学生の時に漫画村を観ていたことが、就職活動の時に最終面接であばかれるような。もし今後、日本語圏の大舞台に立つ時に、あのインタビュー記事だけが読まれたら、必ず炎上して、積み重ねる未来をも失うかもしれない。「1日も早く芸術表現ではなく今の言葉で声明を出してくれー!」と願うも、そのまま時は経ち、オリンピック開会式作曲者の発表へ。

小山田圭吾さんの学生時代にしたことは、いじめにあった当事者の方からすると今も消えない深い傷です(僕も昨日のことのようにズキズキ思い出します)。決してすぐに整理されるようなことではありません。それは少なくとも謝罪文を出すまでに要した年月の倍以上はかかるだろうし、ずっとかもしれない。今回の文章はあくまで地方の町で暮らしていた当時の僕の目線です。文化の全貌などではありませんし、擁護の意図もありません。ただ、当該記事の内容や文化の含む暴力性に気付いていながら目をつむってファンとして神輿を担ぎ続け、オリンピック作曲者への道へと導いた責任は僕にもあると感じたのでその過程を説明させて頂きました。あなたに、ほんとうにごめんなさい。