卒業生インタビューvol.27

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ミッキーカーチス

今回は1950年代に和光小・中・高と和光学園で伸び伸びと過ごされたミッキー・カーチスさんにインタビューしました。現在はミュージシャン・俳優・落語家と多方面で活躍されているミッキー・カーチスさんですが、どんなお話が展開されるのでしょうか。インタビューはこの3月で高校を退職された地井 衣先生と、当時の高校の担任でいらした小林功長先生とのダブルインタビュアーでお願いしました。

ミッキー:昨年の6月に香川で映画の撮影があって、琴平に行ったんだけど。高松琴平電鉄(ことでん)では他社からの譲渡車両が走ってるんだよね。そこに俺が高校時代に乗っていた小田急線があったんだよ茶色い奴。あ、懐かしいなんてね。

小林:懐かしいね。

−こんな会話でミッキーさんのインタビューが始まりました。高校時代の担任をされていた小林先生にもいらしていただき、和光時代の思い出話にも花が咲きました。

ミッキー:「百年の時計」は、コメディっていったら、コメディとも言えるかもしれないけど、まあ、軽いですね。重くない。主人公の女の子が学芸員でね。世界を代表する香川出身の前衛芸術家を呼んで回顧展を企画するんだけど芸術家が無気力で。でも過去と向かい合っていくうちに改めて作品に向き合って、最終的に電車を使ってアート展をやるっていうストーリーなんです。金子修介っていうなかなか優秀な監督でね。

小林:ほんわかしてちょっとノスタルジックなのね。あ、もうやってるの。じゃあ是非拝見させていただきます。

ミッキー:5/25に公開なんだけど、それに先だっての試写会です。(と、試写会の葉書をくださる)まあ好き勝手なアーティストですから、めちゃくちゃやっててね。おもしろいですよ。

3日には大阪に行かなくちゃならない、日帰りで。おおさかシネマフェスティバルというので新人賞をもらうんです。俺、今まで130本ぐらい映画に出てんのに。何で新人賞かっていうと、「ロボジー」に『五十嵐信次郎』名で出ているでしょ。だから新人賞。74歳で新人賞。(笑い) 大阪らしくて、シャレが効いてるよね。

映画やドラマに引っ張りだこで、歌う時間があまりない

聞き手(地井先生)聞き手:今、ほかにはどんなお仕事をされていらっしゃるのですか。

ミッキー:今はドラマや映画が多いですね。先週1つの作品が撮り終わって、また次の作品に取りかかるって感じで。あんまり歌う時間がないんですね。映画とかドラマが入りますと脚本が出来るまではスケジュール出せないんですよ。それまで押さえとかなくちゃならない。音楽の場合は最低3ヶ月ぐらい前から決めませんと、宣伝ができないじゃないですか。だからなかなかライブをするスケジュールが出せない。今年は、ライブで決まってるのは8月に帝国ホテルでジャズ。 あとは、6/21~舞台をやります。

聞き手:お忙しいですね。他はどんなお仕事を?

ミッキー:昨日は朝からテレビ番組の収録で、その後に番組の取材。 日本映画チャンネルで「野火」をテレビで初めてやるっていうんで、その取材。その記者の質問にはカリカリしたね。質問投げかけるでしょ、こっちはそれに答えてるのに、一切聞いちゃいないんですよ。向こうは、次に何を聞くか考えてるんですね。で、前の質問で話した事なのに同じことを聞いてきたりして。

インタビューって質問する人がつまらないと、つまらない答えになって、結局は俺のせいになるじゃないですか。

聞き手:お忙しいのにお元気ですね。

ミッキー:どっこも悪いところないから。けが以外入院したことない。バイクの事故で脚ばらばらになったときと、交通事故に遭って首をやられたとき、それから2年ぐらい前に白内障の手術をして、両方一緒にやったものだから2泊。そのぐらいしか。薬も何にも飲んでいない。夜寝るときに睡眠導入剤、そのぐらいです。町医者に行っています。そこの町医者は滅多に薬出しませんよ。死にそうな顔していかないと薬出さないの。徹底的に調べたら、もう75になるとどっかしら悪いところ見つかるもんなんだって。ピンポイントで見つかるとその病気になっちゃうから知らない方がいいらしい。

生活はでたらめでしょ。映画の撮影だって、朝5時から始めて夜中の4時半までってこともあるからね。

聞き手:昨年出された初の自伝本、すぐに読ませていただきました。

ミッキー:「俺と戦争と音楽と」(亜紀書房刊)は、2年かかりましたよ。でも、時間をかけただけあって、評判がいいんですよ。年表がおもしろいでしょ。

注)年表には、おれ、戦争、音楽、世の中、という4項目のことがらが、一見してわかるように書かれている。特に、世界のどこかで絶えることなく戦争が起こっていること、それと世の中のできごとや音楽の流れが関連性を持っていることに改めて気づかされる。

和光学園に編入の頃

聞き手:本に和光のことが書かれていますが。

ミッキー:何しろ選択肢は二つしかなかったですから。自由学園と和光と。 疎開から帰ってきて小学校5年からですよ。その時には5年と6年が一緒で。8人と11人。

小林:複式なんだよ。 ところで聞いておきたいんだけど小学校5年生で和光に入ってきた時の印象はどうだったの?

ミッキー:僕は学校は初めてですからね。その前は国民学校の経験しかないもので。「学校っていうのは楽しいところだな」っていうのがまず。それまでは「学校」イコール国民学校ですからね。ハーフだからっていうんでいじめられてね。それで学校には行かなかった。小学校5年までは家庭教師なんで。 さんざん悪さもしましたね。イジメもあったし、いじめられもあったし。

小林:あなたに影響を与えたのは、多分、久保田先生だと思うけど。

ミッキー:久保田先生は、変わっていましたね。先生っていうのはガチガチのもんだと思っていたんです。国民学校と家庭教師しか知らなかったからね。 あと覚えてるのは運動会とか。全校でやるんですよ、紅白対抗リレーとか。幼稚園から高校3年までリレーで走るんです。準備から全部小中学生と一緒にやる。

僕は丸木さんの大きな…タヌキのね、看板をつくりましたよ。 そういうこと好きでしたから。ものづくりはね。

小林:小学生に頼まれちゃったからやらない訳にいかないよ、って作ってたよねえ。

ミッキー:K君が一本場の下駄とか、鉄の下駄とか履いてきちゃって、三三七拍子とかいっちゃって。見かけは国士舘なんですけど。見かけは。おもしろい奴だった。

「この世で一番きれいなのはマレーネ・ディートリッヒの脚」

ミッキー:あの頃は学生運動っていうか、みんな小学校からやっていましたよね。右と左と両方いたんですよね。不思議ですよね。それでも仲良くやってた。丸木さんは左の方だったけど、右もOKなんです。ぼくは右の方だったけど。

小林:あの頃は行事たくさんやったんだよね。この写真は多分ベートーベン・アーベントかなんかの写真かな。レコードやなんか持ってきて話したことがあったよね。

ミッキー:ああ、それは覚えてますよ。この写真の時ではないです。中学の時、自分の好きなものを持ってきてそれぞれが自分の好きなものについて語るっていうのがあったんです。あのときは、たしか絵画も大丈夫だったんですよ。

俺はベニー・グッドマンのスイングジャズのレコード聞かせて。一番世の中できれいな物はって聞かれて、マレーネ・ディートリッヒの脚って言ったんですよ。中学3年で。百万ドル保険をかけてましたからね。脚に。

小林:あの頃学校としてそういうわりあい自由な活動を提供したけど、その中にこういうのがいたからね。名目よりはるかに広がっちゃってさ。自由の中で自分の道を見つける、自分の好きなものを見つけるって。

ミッキー:そうそうそうそう。どこまでが自由かっていうのも自分で決めなきゃならない。それは大事なことでね。だって自由っていったらむちゃくちゃになっちゃうじゃないですか。 自由の中でどこまでが自分にとって自由なのか、各々が持っていないとね。

小林:学校もそういうものを作ろうとしたけどね、それを豊かにしたのはミッキー・カーチスなんだよね。もちろんいろんな意味で「豊か」にしてくれてね、真面目な顔して授業しようとするとさ、冷やかされちゃって授業が進まないとかいうことも含めてね。谷岡先生が英語の授業の後「またミッキーにやられちゃったわ。」ってしょっちゅう言ってたよ。

ミッキー:でも谷岡先生だって、「はい、ミッキーこれ読んで」って。発音、俺の方がいいから。「発音はこっちに聞いて。」とか言って。 早く亡くなったご主人が体育の先生だった。谷岡先生(ご主人)はすごい人でギュっと握手したら脱臼したことあります。

小林:谷岡勝三郎さんというのはきわめて優秀な先生でね、前の学校で新しい教育カリキュラムを作った中心人物なんです。それを和光が引っこ抜いてきちゃったんです。久保田先生も地方の大学のカリキュラム作りの中心人物だった人なの。

聞き手:ミッキーさんのいらした頃の和光というのは、そういう風に全国から引き抜かれてきた優秀な先生が多かったのですか。

ミッキー:そうそう。みんな濃かった。みんな身勝手でね。修学旅行に行ったって、小林先生なんていなくなっちゃうんだもん。みんなで先生探しに行ったり。写真かなんか撮りに行っちゃってて。

競争心は子どものうちにあおっておけば

ミッキー:いろんなクラブを作って、クラブ活動もやんなきゃいけないっていうことがあった。

俺はマラソン部っていうのを作ったんですよ。校庭が狭いので、学校の外へ出られるでしょ。出るときだけ走って、裏でタクシー拾って新宿行って映画見て、帰るときにまた走って。マラソンなんて全然しちゃいない。(笑)

聞き手:ご本によると、午前中は学校に行ったけれど、午後になると毎日新宿にいろいろな人生の勉強にいらしていたとか。

ミッキー:寄席に行ってね。朝来たら、小林先生に「昨日寄席に行ったろう。何覚えてきたんだ」って言われて、そのころ覚えた落語をやったら30点。

高校どうやって卒業したか覚えていないですもん。

俺は字と数字がダメで。小林先生の授業は全然わかんなかったですね。しかも幾何とか、そんなの役に立たない。設計士になんない限り。なんか変な格好したもんの面積出せなんて、そんなのわかるわけない。けむ出してわっかつけて汽車の絵にしちゃって。「答えはあってないけどセンスはいい」とかほめられて。

小林:でも大したもんだ。ちゃんと出席日数は足りてたの。午後抜けだったからね。

ミッキー:いやあ、それに出席簿の係だったから、前もって出席にしておいたりして。

聞き手:のどかな時代だったんですね。

ミッキー:最高だったね。今の学生たちはかわいそうでさ。全く自由もないじゃないですか。何にもできないじゃないですか。それでいじめられて自殺したり。

I先生に殴られたことは忘れられないなぁ。階段のところで、A達と授業をサボってたばこ吸っていたんですよ。そこに先生がきたもんで、バーっと逃げたわけ。そしたら、たばこ吸ってたことや授業をサボったことを怒っているんじゃないんですね。逃げたっていうことは卑怯だっていうことで。あの人、剣道かなんかやっていたんですよね。すごい曲がったことが嫌いで。そんなことは忘れないな。

相当悪いことやりましたよ。中庭にトイレがあったじゃないですか。入ったら外から5寸釘打って出られないようにして上から花火に火つけて放り込んで。そんな馬鹿なこと何でやったかなあ。

まじめな奴は結構いじめられて。俺もO君なんかをいじめましたけど、今はめちゃくちゃ仲いいですからね。

聞き手:今のいじめとはずいぶん違いますね。

ミッキー:今の子は、徹底的に死ぬまでやるじゃないですか。昔僕らの頃は、俺なんか学校へたどり着くまでに4カ所ぐらいでケンカ。ハーフだしあの服装でしょ。自由だったし、生意気だっていうんで、角かどで待っているんですよ。4回は最低ケンカしなくちゃ学校にたどり着かない。家を出るのは7時頃ですよ。それをやるうちに逃げるのも早くなったり、向こうは団体ですから。 ケンカも強くなりました。先に殴って逃げるとか。毎日ですからね。

じゃあやっつけちゃおうって、知らないで農大の学生5人ぐらい殴っちゃったんですね。そしたらそれが相撲部で。農大の相撲部5人ぐらい来ちゃって。これはどんなことをやっても勝てないでしょう。学校に泊まりましたもん。帰れなくて怖くて。

聞き手:その後無事だったんですか

ミッキー:大丈夫だったんですよ。1日過ぎれば。

聞き手:その時代はそういうものだったんですね。

ミッキー:今は、運動会で全員が手をつないで同時にゴールするなんて全く意味がない事をやってる所があるでしょ?公立学校で競争心をあおるのは良くないからって。今のうちにあおっておけよ、そんなもん、って思いますよね。社会に出たら競争なんて普通にあるんだから。

和光で育った息子さんたち、そしてお孫さんも和光に

ミッキー:うちの孫、和光に入ったら全然変わっちゃいましたもんね。公立中学の時は暗かったもん。今めちゃめちゃ明るいですよね。ものすごい楽しんでいるみたいで。
次男が在学していた頃は、公立から若い先生がはいってきた頃だったでしょ。言ってましたよ。「大変なんだよ、最初の一年はまず先生に和光を教えなくちゃならないんだから。」「公立から来た先生には、和光のしくみとか全然わかってないから、それを生徒が一年間ぐらいかけて和光っていうのはこういうもんだっていうのをまず教えないと、始まんねえんだよ。」って。

その次男が結婚して2月に子どもが生まれて、長野に行って種問屋に婿入りして。音楽も趣味でやっているんだけど。奥さんの実家が種問屋さんで、その跡継ぎがいないんで、それで次男が入って。最高じゃないですか。だって種だもの、大元をしっかり握っているんでね。どのぐらいの期間か知らないけど、農業とかそういうものをやって、種の本質をね。

聞き手:息子さんは中学校の演劇祭では「ブンナよ木から下りてこい」でブンナ役をやったそうですよ。

ミッキー:あいつ、俺には一切話さないな。高校では野球部のキャプテンかなんかやっていて、校則もいくつか作ったみたいですね。4つぐらい表彰されたらしいけど、こっちは全然知らない。言えよ、ちゃんと。めんどくさいんだろうね親に言うの。野球も見に行ったんですけどね、ちょうど甲子園の予選で勝った試合でね。俺が見てるもんだから、朝日新聞が俺に取材して。怒ってましたよ「野球やってるのは俺なのに、なんで親父の所に行っちゃうんだ。」って。それ以来見に行かなくなったんですよね。

長男はDJをずっとやっているんですけど、そういうことやりながら土木建設会社の社員をしてるの。ものづくりが好きでね。センスもいいんですよ。絵が上手だったし。日曜大工とかそういうの。

ミッキーさんにとっての和光・そして若い人たちへ

聞き手:音楽をはじめ、たくさんの活動をしていらっしゃるのですが、そういう生き方の中に和光っていうのはどんな影響を与えていますか。

ミッキー:まわりに才能のある人がいっぱいいたっていうこと、そういう影響があるかな。俺は手先が器用で、字と絵はだめだけど、彫刻は得意。ものがあるとするとそこに透視図みたいに見えてくる。余分なところを削っていけばものになるわけでしょ。だから仏像とか結構作ったんですよ。お寺さんから注文が来た。千体作ってくれっていうんだけど、千体は作れないよって、一体だけ作って。後は断った。ま、和光はそういうことをやってもいいっていうこと。

和光では点が良くっても大して偉くもなんともないでしょ。和光は、ほかのことは全部ダメなんだけど、これやらせれば最高なんだぞっていうのが光る学校ですから。 だから子どもたちに言いたいのは、とにかく何でも全部やれ。その中で自分の好きなものを選んで、ナンバーワンになっていけと。どっちみち生まれてから死ぬまで、人生は暇つぶしなんですよ。どうやって自分の好きな形で暇をつぶすかっていうことなんです。サラリーマンとして生きていくっていうのを選んでもいい。だって、どっちみち皆いつかは死ぬんだもん。だからそれまでどうするかっていうのが自分の人生ですから。

だめでもともと

ミッキー・カーチスさんミッキー:「俺と戦争と音楽と」の最終章に「だめでもともと」って書いてるんですけど、やってみて、できないと思っていたことがやってみたら、「おっ、できた!」っていうこともありますから。できなくてもともと。 なんでもいいからとりあえずやってみる。若いんだからどんどんやるしかないですよ。

聞き手:お忙しい中、本当にありがとうございました。

(了)

インタビューの後に

インタビューが終わった後も、ミッキーさんと小林先生の思い出話はしばらく続きました。世田谷校舎を訪れたのは、50年ぶりぐらいとのこと。「建物はすっかり変わったが、教育方針は変わってないので安心した!」とおっしゃっていました。和光学園が「どこまでが自分にとって自由なのか」が問われる学校であるというのは、時代や世の中が変わっても、ずっと変わらないでしょう。そんなことを感じさせられたインタビューでした。 お忙しいスケジュールの中、学園まで足を運んでくださったミッキーさん、本当にありがとうございました。

(聞き手: 地井 衣)

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プロフィール

ミッキー・カーチス  ミュージシャン・俳優・落語家

1938年東京生まれ。歌手のほか俳優、音楽プロデューサーとしても活躍。落語家としても精進を重ね、「ミッキー亭カーチス」の名で立川流真打として高座にも立つ。2012年のお正月映画「ロボジー」(東宝)では『五十嵐信次郎』名で主役として出演。大ヒット作となった。 現在も音楽ライブ、舞台、映画、ドラマ、バラエティーと幅広く活躍中。 待機作として『百年の時計』(5/25公開)、『地獄でなぜ悪い』(9/28公開)が予定されている。

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