文=松原孝臣 写真=積紫乃

フィギュアスケートに不可欠、意外に知らない仮設リンクの作り方(第1回)

2019年、さいたまスーパーアリーナで開催された世界選手権。羽生結弦のフリーの演技が終わった後のリンク。写真=アフロ

仮設リンクを求められる時代

 スケートリンクの運営管理、体育館やアリーナを大会やアイスショーができるようリンクに仕立て、フィギュアスケートにおいて必要不可欠な存在となった株式会社パティネレジャー。

 まさにアイスリンクのエキスパート集団で、飯箸靖孝は約25年、業務にあたってきた。リンクとのかかわりはもっと長い。

「自宅の近くに民間のリンクがあって、高校3年生のときにアルバイトを始めました。新松戸スターランドです。長久保裕先生や岡島功治先生がいました」

 アルバイトをする中でスケートを滑る経験もした。「滑るのって面白いな」と感じ、大学生になってもアルバイトを続けた。深夜や早朝に練習する選手もいたから対応するために泊まり込んだこともあった。

 冬には地方のリンクの準備に赴くことがあった。

「オープンして子供たちが楽しく滑っているのを見て、やりがいを感じて、ずっとこの仕事を続けてきました」

 長年リンクを通してフィギュアスケートとかかわる中、変化も感じ取ってきた。

「パティネレジャーに入社した頃は長野オリンピックを控えてスケートが盛り上がっていた印象があります。その頃は仮設のリンクを使用するケースはほとんどありませんでした」

 だが、民間のリンクは徐々に減少していった。

 それを理由の1つとしつつ、仮設リンクの設置が求められる状況が生まれた。

「2006年のトリノオリンピックで荒川静香さんが金メダルを獲得しました。その凱旋で、有明コロシアムに氷を張ってアイスショーをやりたいというお話をいただきました。あそこからだと思います」

 その後、フィギュアスケートは選手たちの活躍により人気を高めていく。

「そうすると収容力のある場所を会場にしようとなるわけです。代々木第一体育館はそれ以前から大会が行なわれていましたが、代々木であったり真駒内、大阪のラクタブドームといったところが使用されるようになりました」

 アイスショーも盛んになり、仮設リンクの需要は増していった。そしてさいたまスーパーアリーナのような大規模な収容人数を誇る場所でも大会は開かれるようになっていった。

 

観客の「熱」を実感した世界選手権

 2019年には世界選手権が開催された。このとき、観客の「熱」を実感する体験をした。

「あのとき、リンクサイドで場内温度をモニタリングしていました。20度を下回るくらいだったのが、25度くらいに一気に上がってしまったときがありました。朝から冷やしこんでいたので、氷が溶けることはありませんでしたが」

 緊張を強いられた瞬間だった。さらに、この大会では忘れがたい思い出もある。

「プーさんですね。あれはすごかった」

 羽生結弦がフリーの演技を終えたあと、それを称える「くまのプーさん」が多数、リンクへ投げられた。

 飯箸はアリーナ席の製氷側口で見ていたという。その数を見て、思わず体が動いた。

「本来はフラワーガールの子たちがリンクの上のものを集めてきて、それを受け取る担当の人に渡すのですが、これは間に合わないだろうと思い、受け取る手伝いをして、無線でうちのスタッフに『手が空いている人、来て』と集めました。頼まれたわけではありませんが、これはやらないと、と。(日本スケート連盟の)女性の人もヒールで出てきて、どんどん受け取っていました」

 その光景を思い出し、飯箸はどこかうれしそうに笑顔を浮かべてこう語った。

「まるで黄色い花火みたいでしたね」

 

夏場のアイスリンクの苦労

 この大会での話からも伝わるように、氷の管理には神経を常に遣う。

「これは通常のリンクでもそうですが、温度と湿気に気を配っています」

 温度だけでなく湿気に気を配ると言う。それはどういうことか。

「冬場は問題にならないのですが、夏場はどうしても、製氷しても湿気が氷に霜をおろしてしまいます。つまり、つるつるではなく、抵抗がある状態になります。当然、滑りにくいわけです。アイスショーだと製氷のタイミングは開演前それも会場する前と、公演の間の休憩時間しかありません。ですから開場する前、なるべくぎりぎりのタイミングで製氷させてもらうよう、主催者の方にお願いはしています。それでも開演まで1時間くらいはあるので、最初に滑るスケーターは霜がおりていて滑りにくいだろうなと思います」

 氷にとっての敵はまだある。エアコンもそうだ。

「いくらエアコンが涼しい風を出すと言っても、温度がマイナスの氷からすると温風にほかなりません。空気の流れでやんわり氷が溶けてくるので、新しい会場で設営するときには、事前にテストしています」

 蓄積された経験やノウハウがあって、信頼を得てきた。長年業務にあたる中、スケーターの言葉から新たな発見をしたり、うならされたこともあった。 

「羽生結弦選手に相談されたときは、『あ、その違いが分かるんだ』、と思いました」(続く)

飯箸靖孝(いいはし・やすたか)高校3年生のとき松戸市内のスケートリンクでアルバイトを始め、以来スケートリンクに携わる。1995年にリンクの運営管理や仮設リンク設営などを行なう株式会社パティネレジャーに入社。