渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

全世界を敵に回しても貴方を愛すとピアフは歌った

2021年07月09日 | open

イムアラムール


僕は町井勲さんほどピアノを弾けない。
彼は表にはめったに出さないが、ピアノ

は本格的で、かなり弾く。
僕はせいぜいコードを押して、コード
ラン
をテロリンとする程度だ。

町井さんとのつきあいは、彼のほうから
突然
ある日連絡をくれた。
僕のウェブサイトは2001年から開始し、
ウェブ日記はまだ「ブログ」という呼称
が登場する前の2002年からドメイン内の
サイトのコンテンツの一部として開始し
てい
た。
インターネット自体は1998年から開始し
た。

僕のウェブ日記がまだフルオープンだった
頃に、突然町井勲さんから連絡を貰った。
なんでも、僕がウェブ日記で「これは
良い刀かと思う」と紹介した刀が即売れ
て、その刀を購入した方が「渓流カフェ
で紹介されていたので購入した」と町井
さんに伝え、それの御礼の連絡だった。
メールや電話で町井勲さんと付き合い出し
から、実際にお会いしたのは3年程経って
からだった。
彼も多忙、僕も仕事で多忙を極め、仕事で
兵庫大阪に赴いた時に、町井さんの刀剣商
の店舗に連絡を入れて赴いたのだった。
そして一緒にその晩食事して、一気に気脈
を通じた。

彼は生き方が下手だ。僕はそれはよく
分かる。

正直の上に馬鹿がつくゆえ、人に裏切られ、
期せずして自分も人を裏切る事になり、
それゆえとめども
なく落ち込み、そして
生の中でもがいて
いるのが彼だ。
僕と彼とは年齢も一回り違い、また思想
信条も異なる。
だが、相通じるものを互いに強く感じる

のだ。
共通項は、無類の日本刀好きという事、
その日本刀を帯びる者としての武技に
命がけで研鑽してきた事、そして酒が
この上なく好きな事だった。
だけど、僕には判った。
そうした趣味や嗜好の問題ではなく、

生き方の人としての魂の在りかにおい
て、彼が僕と同族の種族の人間である
事を。映画『戦国自衛隊』の「同族
じゃ」なのである

これはすぐに判った。

彼のほうも、僕の事を普通の一般的な
存在の人間とは思っていなかったらしい。
ある時、都内で一緒に飲んだ時に尋ねた。
「人間多いのに、なぜ町井先生は私の
事を『認めた』のか」と。
すると彼は言った。
「僕(町井さんは辰吉丈一郎のように
プライベートでは常に僕と呼称する)
と貴方は全く同じ斬り方をしている
から。同じ人を初めて
観たから」。

つべなる動画サイトが登場したのが
2006年。

すぐに私は自分の1990年代初期の斬り
動画をアップした。
その後、余分な長い部分をカットして
数年後の2011年頃に再編集して再アップ
した。
斬鉄剣康宏を使用した斬切動画群
だった。

まだユーチューバーなどはこの世に発生
していない時代
の事だ。

私が動画をアップした頃は、斬鉄剣作者
の小林康宏二代目小林直紀は、事実上の
刀工引退をしていた。すっかり鎚は握っ
ていない。一切。

弟子の一人が代打ちをしていたが、監督
は直紀康宏本人だったので、合法的に
登録していた。それが1997年~2010年。
斬鉄剣二代目小林康宏が実質的に全てを
手掛けて本打ちしたのは1990年代末期ま
でだった。

僕自身は、康宏刀工が運営していた都内

墨田区千代田(地下鉄駅は森下)に
あった小林康宏直営店「鍛人(かぬち)」
の準店員ともいえる間柄だったのが
1990年代だった。

なんせ、東京都港区高輪の泉岳寺横
の小林家の地上げの法律業務一切の
実務をやったのが僕だったのだから。
だが、それは偶然で、僕が店舗鍛人に
週に4日以上通いだしてから半年程経って
から、刀工康宏直紀先生とその事実が
分かり、二人でぶったまげて大笑いし
たのだった。
この時の地上げ調査業務の報告に青山
のデベロッパーに僕が赴く時の現実
の様子は、たまたま偶然その青山の
デベロッパーがロケ地になった『釣り
バカ日誌 5』において、三國連太郎
のすーさんが出社するシーンに私が
青山通りを歩いているところが収め
られている。
最終報告に青山ビルプジョジェクト
に向かう時だ。
世の中、偶然は恐ろしいもので、
その映画『釣りバカ日誌 5』の鈴木
建設としてのロケ地のビルプロの
横にあった刀剣伊波は、僕が懇意に
していて多くの刀剣研磨を依頼した
お店だった。
僕の「丸太斬り則光」は、青山の伊波
さんが「貴方ならばこの金額でお分け
する」として激安価格で与えてくれた
刀だった。
僕はその戦国時代の刀で都大会や東北
大会、多摩聖大会等のいあい道大会で
初段から三段にかけての時期に入賞した。
当時、いあい道の大会は、出場すれば
必ず優勝か準優勝、入賞で、予め卒業
証書を入れるような筒を持って行って
た。五段までのカップや盾や賞状は
家にあふれている。
ただ、私は試合人ではない。真の真剣
刀法を真剣に例え空気斬りの大会でも
行なってきた。その技の体現が正当に
評価された平成初期の時代を僕は喜ば
しく思う。初段の私の刀が、散々試斬
を研鑽している痕跡が刀身に見られる
のに、それを試合で使用していても、
審判の先生方はズバッと迷う事無く
僕に旗を上げたのだ。樋無しの刀で。
それが7年程続いた。

僕は刀技において、試合の為に試合を
した事はこれまで一度も無い。
この身を削るように真剣刀法を真剣に
行なった。常に差し違えるつもりで。
それはもう、本当に真剣だった。
そして、それが正当に評価された時代
が平成だった。
その僕の行為は、うたうたいとしての
僕の「うた」と同じだ。
魂もこの身も、やいばで削るように
僕はうたをうたう。歌を歌謡する事は
しない。刀技とまったく同じだ。
そして、真剣は初段の前からごく普通
に使用していた。
おもちゃの刀などは早期に使用を停止
したほうがよい。
真剣にやるならば、刀技では真剣日本刀
意外にはあり得ない。
模擬刀でいくらカタチを模倣しても、
何の進歩も無い。

そして、伊波さんが子ども時分の遊び
場が、となりの都電機関区だったビル
プロスクエアビルの元の土地だったと
いう。
ちなみに青山の伊波さんの親族は虎ノ門
に古くから刀剣商を営み、皇室や宮様
の佩刀を手掛けていた。平成の御大典
の時の皇室をはじめ宮様の佩刀はすべ
て真剣日本刀であり、その拵等は刀剣
伊波の虎ノ門=日本刀剣が手掛けた。
後年、セガールの映画で刀剣商として
もロケで登場している。

僕が小林直紀二代目康宏と鍛人の番頭

さん、鍛人会という「康宏友の会」の
会長さんに可愛がられたのは、地上げ
とは関係ない。僕が通いまくって、
心底打ち解けたからだ。康宏用者の
武術家兼日本有数の殺陣師の林邦史朗
先生も私の事を異様に目にかけてくれ
た。僕はカヌチの先人たちの先輩方に
とても目をかけられ、ひととかどならぬ
かわいがられ方をされ、そして、武技
だけではなく作刀についても多くの事
を教えてもらった。
かけがえのない、ありがたい事だ。
僕は単に無垢な心で接していただけだ。
それでも「あいつはおもしれえ奴だ」
「なかなか良い」としてかわいがって
いろんなことを惜しみなく伝えてくれ
た。人間、本当にこんな恩は無い。

引退していた斬鉄剣康宏の二代目直紀
刀工を再度現実的な作刀の世界に引っ
張り出したのは僕だ。
これは、かねてから懸案していたが、
僕が東京から岡山に転勤したので停滞
していた。
だが、仕事も目途がついた頃に、これも
たまたま偶然に東京高輪で初代康宏展
という歴史的展示会が刀剣小町さんの
主催で開かれた。
僕は有休を取って、すぐに九州の剣友と
駆け付けた。
実に十数年ぶりの直紀刀工との再会だっ
た。
そして、直紀康宏=正真斬鉄剣康宏の
現実的な作刀再開の計画を僕が練った。

この話を町井さんにしたら、即、注文を
入れてくれた。
厳密には、21世紀斬鉄剣康宏プロジェクト
が計画される前に、私と懇意になった時点
で町井さんは斬鉄剣康宏の注文を入れて
いた。
再建康宏第一号の注文主は何を隠そう
町井勲その人である。
すでに町井さんは、斬鉄剣が世から無く
なって以降、福島の藤安刀工と研究を
重ね、鉄管を切断することをテレビ撮影
公開という状況の中で実現していた。
日本刀にあまり詳しくない方は信じがたい
だろうが、現代日本刀はガラスのような
鋼に仕上げてあり、鉄などに切りつけたら
刃こぼれボロボロで、下手すると折損する。
戦前までの日本刀鍛冶たちは斬鉄剣を
作る人も多くいたのだが、戦後は皆無に
なったという歴史的事実がある。
どんどん美術品化していき、速度が50キロ
しか出ないのに「F1マシンです」と作り手
が言い切るような世の中が日本刀の世界で
展開されていたからだ。

そうした中、昭和30年代の刀工免許を
取る前から日本刀に魅せられた男が東京
にいた。
生まれは山梨県だ。
戦前に上京し、レコード店を開き、戦後
にはビル内装工事の会社を興して身を
立てていた。一時期は200名を超える従
業員を養っていた会社だった。
だが、日本刀に魅せられた。
やがて会社は縮小し、自身は鉄と古刀の
研究に埋没した。著名な刀工の内弟子に
なり、作刀研究も続けた。
そして、昭和46年に文化庁の免許に合格
し、研究者から自らが刀工になった。
それが初代小林康宏だった。
日本の歴史の中で、戦後すべての日本刀
が落としたら折れるような刀になって
いた時期だった。

小林康宏は平安鎌倉古刀の再現に身命を
捧げた。
古刀研究の結果、彼が作り上げたのは
たまたま結果として鉄を切断できた。
ごく近しい東京都内、神奈川県の武術家
たちの間で激震が走った。
本物の日本刀が復活したからだ。
彼ら東京の真剣刀術の武術家たちは、小林
康広の造る現代刀を「斬鉄剣」と呼称し
はじめた。
そして東京12チャンネルで放送が開始
された視聴率の極めて低いアクション
フィクションアニメの中で、原作の刀剣
「流星」の名称が無視されて、現実世界
で当時唯一鉄を切断しても刃こぼれも
しない日本刀である斬鉄剣と東京剣士
たちに呼ばれた刀工小林康宏の造る刀
の名称が、新作アニメで流用された。
それが『ルパン三世』の石川五エ門が
使用する刀剣、原作では流星という名の
刀だった。
アニメは現実的な小林康宏の歴史的な
快挙を背景として、呼称名称が流用され
たのである。本来は五エ門の刀は斬鉄剣
ではなく流星だ。

さて、町井さん。
ごく最近、僕の大切な先輩が身体を壊した。
入院し、さらに今後手術もしなければなら
ない。オペなくば死ぬ。
ロックンローラーの人であり、また真剣
剣技の人でもある。
その先輩が、「こういう刀を求めている」
という希望を僕に伝え、私が八方手を尽く
して探しまくったところ、町井さんが一肌
脱いでくれた。
微笑欠け部分を研いで完璧にしてくれた。

そして、今、その刀は、来週早々、僕の
東京のかけがえのない先輩の所に「試し」
で到着する。
自身と刀が互いに惹かれ合い、相性が良い
事を感知したならば、それは新たな出会い
となる。
僕は、今後の手術が、その町井さんの手掛
けた戦国古刀との良き出会いにより、成功
に進み、身体が快方に向かうことを心から
臨む。

フランス語は苦手でケスクッセしかまとも
に話せない。発音は英語発音だ。
しかし、愛の讃歌は愛の讃美歌だ。ゴスペル
なのだと僕は確信している。
その愛とは、性別を超える人と人との愛だ。
今、生死を彷徨う辞める剣士の先輩に、僕は
この歌を捧げたい。
男女の恋愛の情愛ではない。
性別を超えた、人と人の愛を僕は謳いたい。
人と人が繋がる魂は永遠なのだ、と。

岩谷時子さんとはまるで異なるピアフ
の歌詞を私は訳した。
最初は歌う事を想定しておらず、中也
のように「詩」としての訳詞だった。
しかし、その後、ピアフの原詩を独自
の翻訳、しかも正確にして日本語で
歌える翻訳にした。それを歌っての
テイクはまだしていない。2006年に
歌詞としての翻訳をした。
エディット・ピアフ。それは彼女こそが
フランスだ。

(自宅にて)


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