珠洲が一番盛り上がるのは、夏から秋にかけて行われるキリコ祭りの時期だ。地区の人が総出で祭りを盛り上げる。

珠洲が一番盛り上がるのは、夏から秋にかけて行われるキリコ祭りの時期だ。地区の人が総出で祭りを盛り上げる。

エッセイ 出会いの旅

石川直樹
1977年東京生まれ。写真家。東京芸術大学大学院卒。人類学、民俗学などに関心を持ち、辺境から都市まであらゆる場所を旅しながら作品を発表し続けている。2000年に北極から南極まで人力で踏破するPole to Poleプロジェクトに参加。翌2001年には、七大陸最高峰登頂に成功。『POLAR』(リトルモア)により日本写真協会新人賞、『CORONA』(青人社)により土門拳賞を受賞。作品に『Lhotse』『K2』『国東半島』(青人社)、『知床半島』(北海道新聞社)など多数。

「奥能登のアヴァンギャルドな風呂屋」

 能登半島の先端に位置する珠洲[すず]市で、風変わりな風呂屋と出会った。宝立町の鵜飼にある「宝湯」という温泉銭湯である。地元の人が通う銭湯でありながら、鵜飼地域の一号源泉を使ったれっきとした温泉でもある。

 今年は奥能登国際芸術祭が珠洲市で開催され、ぼくもそれに参加していた。芸術祭で展示する作品を撮影するため、数年前から能登半島に足繁く通って写真を撮っており、宝湯と出会ったのは、そんな撮影旅行の途上のことだった。

 宝湯はただの温泉でも銭湯でもなく、明治時代には遊郭だったという木造三階建ての古い建物の中にあった。見かけは普通なのだが、ひとたび室内に入ると迷路のようになっている。ぼくはこの建物を一目で好きになってしまった。

 宝湯の主で、創始者から数えて四代目にあたるのが橋元宗太郎さんである。まだ30歳代で、ぼくよりも少し若く、すぐに親しくなった。珠洲のことを感覚的にわかるようになったのは、彼と知り合えたことがきっかけだったかもしれない。

 宝湯は、明治中期、宗太郎さんのひいおじいさんにあたる橋元幸作さんが建設産業を営んでいる時代にはじまった。一階が銭湯、二階が女郎屋で、道を挟んで向かい側では、「宝船」という食堂と「宝座」という芝居小屋があった。つまり、最初は銭湯・女郎屋・食堂・芝居小屋の四つがこの地で機能していて、明治時代のほぼ同時期から拡大したり縮小したり、混ざり合ったり、なくなったりしながら、現在の宝湯に至った。だから、宝湯の歴史を紐解けば、珠洲の市井の人々の歴史ともおのずと直結してくる。

 橋元家は、代々DIYを信条とする家系だった。もちろん本当に信条にしていたわけではないかもしれないが、ひいおじいさんの時代から、建物は増改築が繰り返され、家主でさえもわからないデッドスペースが至る所にあり、今はまるで忍者屋敷のようになっている。

 温泉はもちろんとても気持ちいいのだが、さらに面白いのは二階である。百畳間と呼ばれるぶち抜きの広い空間があって、ステージまで備えられている。そこから中二階に通じていて、奥には小さな個室が連なっていた。昔、遊女を囲っていた時代の名残である。

 昭和30年代に入ってから、銭湯をさらに掘り下げて温泉を掘り当て、温泉の上に増築を施して旅館を開設し、やがて劇場も備えた温泉宿になった。

 劇場のある温泉旅館兼銭湯という体で営業していたものの、振るわなくなって1989年に旅館は廃業することになる。二階の百畳間は使われなくなって物置と化してしまった。が、橋元さんがこの百畳間をどうにか復活させたいと思い、2トントラック、実に20台分(!)の不用品を捨て、壁には白い漆喰を塗り直し、畳も新しくして、骨とう品をうまく展示するなどして、完全に改装したのである。それが今の宝湯の二階だ。

 さらに一階では新しく露天風呂などを作ろうとしていて、現在も進化し続けていることにぼくは驚きを禁じ得ない。銭湯では主に奥さんが番台に立ち、二人の子どもたちは営業時間後に毎日温泉に浸かっている。昔、芝居小屋と食堂があった場所では、橋元さんのお父さんが酒屋を営んでいる。宝湯が今後どのように進化していくのか、目が離せない…。

 カオスと化した木造三階建ての九龍城のような建物が、珠洲という日本海に突き出た半島の最先端にあることはもっと知られて然るべきだろう。素人が独力独学で建ててしまった高知の沢田マンションなどと並ぶ、突出したアヴァンギャルド建築なのだから。

 宝湯に浸かり、橋元さんからこの建物の歴史を聞いていくうちに、奥能登をどんどん身近に感じられるようになっていった。涯[さいは]ての遠い観光地としてではなく、住む人の視点から土地を感じられるようになるとき、旅の位相がほんの少しだけ変化する。

 宝湯に入るためだけにまた珠洲に行きたい。そう思わせてくれる場所があることをぼくは誇りに思う。

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