遺言
この記事が実際に反映されるのは、書かれた日から1週間後になるのでこの記事がアップされる1週間前に僕はいます。そして「失敗」して病院にかつぎこまれたりしていない限り(これもまあ、場所的にはありえない)、生き残った場合は当然この記事は削除しますので、この記事を皆さんがごらんになっているということは僕が死んだと思ってもらってもいいと思います
さて、何を書こうかな、、、
まずは、死は必ずしも不幸ではないということです。死を「永遠の別れ」ととらえるならば、それは不幸でしょう。生きている者にとっては多くはその人が死んだということは不幸かもしれません
しかし自殺する当人すべてが不幸だったのだろうという思い込みはやめていただきたい、まあ僕のことなんですが、、、
僕の生きてきた目的は色々な表現の仕方が出来ますが「満足して死を迎えること」と言えます。そしてそれはなんとなしに生きていては到達できない境地ではないかと考えたのです。そして僕はある程度、僕の理想とするところにたどり着いた。何度自分に問い直しても「これでいいんだ」という答えしか返ってこない。物語は理想の形をもって完結をむかえようとしているわけですから、誰にも憐れまれたり悲しまれたりすることはないのですよ
なぜ自殺するのかということについては、僕の美学的なものに関わりますが「無目的に生き長らえる」ということが、他人に対しては許せても(いや、本当は許したくない)、自分に対しては絶対に許せないからです。現在、精神・神経科の病院にかかっていますが(鬱病なので。もう行けないですけど)、精神科の患者は老若男女入り乱れていますが、神経科の方は老人がほとんどです。それもかなりぼけていたり、車いすに乗せられていたり、鼻からチューブを挿入されていたり、、、
「生きていて苦しくないですか?そこまでして生きたいですか?」と聞きたい気持ちです。自分ならそんなになってまで生きてはいたくない、ならばどこかで決着をつけなければならないということになります。幸い(?)僕は鬱病にかかって4年くらいかな、もう働けるくらいまでに回復することは絶望的で、持っているお金も尽きそうな状態。ならば今決行するしかないでしょうということです
あと大ざっぱですが、多くの僕を生かしてくれた人やものに対して感謝します。あなた方があったから、僕は世界と対等でいられる
さて、このくらいにしておきますか。本当は100倍くらいもっと書きたいことがありますが、、、まあそれは過去のブログで既に書いてあることも多いので、ヒマな人は過去の記事をあさってみてください
私は偽りなく満足して死んでいきます、皆さんありがとう、そしてさようなら
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