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刹那的な幸せが悪いとは全く思いませんがは、そればかりを欲しがっているとき、人は不幸なのかもしれません。
刹那的な幸せというのは、本当に一瞬、瞬間のことで、それが貯まったり積み重なったりしません。
幸せな刹那が過ぎてしまえば、また欲しい、もっと欲しいと思い、いつまでも満足することがないのです。
昔、諸星大二郎の『孔子暗黒伝』という漫画を読んでいて、「とうてつ」(漢字が不明…)という言葉が出てきたのを思い出します。
とうてつ、それは飽くなき欲求というような意味だったと思うのですが、物語の中で、過ぎた欲求は戒められるべし、とされていて、それは何となく分かるのですが、なんとラストシーンでは、孔子の知識への欲求さえも、「とうてつ」であると非難されていました。
飽くなき欲求を続けては幸せになれないし、また周りを不幸にさえするのでしょう。
しかし、刹那的な幸せとは言い換えれば快楽のことであり、快楽を排するのはかなり難しいように思います。
無論、程、ということなんでしょうが、それならば程を知るのも意外に難しいものです。
ただ、幸運なのか皮肉なのか、貧乏という制限のなかで生きてきた私は、そこそこには程を知ることが出来たように思うのです。
お金がなければ、何を渇望しようがどうしようもないですから(苦笑)
悔し紛れでしょうか。
しかし本当に、私は自分のことを不幸とは思わないのです。
今自分がいる、ここでしか分からないことが分かったからでしょうか。
私はこのブログで、憎しみの感情、恨みつらみ、転じて世界への諦観など書き散らしてますが、そんな中で、ごくごく一瞬ですが、悟りの心境を獲得したと思うことがあります。
一瞬悟ってどうするんだと言われそうですが、まあ、悟りというのは悟ったという静止した状態があるのではないと聞いたことがありますし、自己判定ですから。
自分のことを、すごい幸せとかは思いませんが(いや、たまに思いますか)、不幸だとは思わない、というか、不幸ではありえないという感じですか。
もしくはどっちでもいいのかも知れません。
他人に判定してもらって、どちらの答えが出てもかまわない、というのが近いかもしれませんね。