昨日、行田蓮の歴史を調べていたところ、きたかんナビ様のサイトで、上毛新聞様の下記記事が眼に止まりました。







行田蓮と千葉の大賀蓮との大きな違いは、行田蓮と大賀蓮は、近年に太古の種子が発掘され、それを発芽させたものに対し、城沼は太古から自生続けているとのことです。


この記事を見て「城沼蓮の自生起源はいつなのか?」と、どうでも良い事が気になり、誰からも頼まれていないのに調べ始めることとなったのです。😅



①蓮生育環境

蓮の生育環境は流れのある河川ではなく、流れのない湖沼の環境下にて生育することから、城沼の蓮は城沼が形成された後に自生繁殖したと考えられます。


②城沼の形成

先ず、国土地理院の土地条件図を解読すると、城沼の周辺は台地(オレンジ色は、関東ローム層)に囲まれた地形であることから、この城沼は旧河川の流路変更によって、取り残された河路の跡ではないことが解ります。




国土地理院 土地条件図


次に城沼へ流れ込む鶴生田川の源流部分は台地状であり、この台地からの雨水が自然流路を形成した河川で在ることから、城沼が形成される以前の太古の時代は、この河川の流路のみが存在していたと想像できます。


それがある時に、地形変化(下流域で地盤面の上昇)によって、鶴生田川は堰き止められ、城沼が形成されたと推測します。


では、その地形変化ですが、要因としては旧渡瀬川(矢場川)の河路(支流を含む)は、かつて城沼付近を流路としていた形跡が治水地形分類図でも確認する事ができます。

国土地理院 治水地形分類図

その太古の時代における氾濫によって、現在の城沼の下流域(排水口)に土砂が堆積、自然堤防を構築したことで、鶴生田川は堰き止められ、城沼が形成されたと想定できます。


この事につきましては、地質調査柱状図を観ても、現状地盤面から2.2m程の深度までは、砂礫などのシルト層(青枠)で形成され、土砂特有の地質である事が解読出来ます。


ボーリングデータ箇所


柱状図



更にその直下部は腐植物混りのシルト層(赤枠)であることから、この表層部分がかつて城沼が形成される以前の地表面であった事が読み取れます。

この腐植物混じりのシルト層の土壌を解析すれば、城沼が形成された時期を特定させる事が可能かと思います。


③遺跡からの検証

先ず、古代人の集落について、水辺があるところを求めて定住していたので、大きな河川や湖沼に遺跡が多く存在しています。(跡地を含む)

城沼周辺には遺跡が複数ある中で、下志柄遺跡や陣谷の調査結果を辿ると縄文期ないし古墳時代、平安時代の遺跡であることから、その時代には既に城沼が存在していたのではないかと思われます。


④仮説の提起

縄文期まで遡ると全く予測不可能になってしまうので、憶測論が手厚くなってしまいますが、古墳時代に観点を置いてみたいと思いますので、予めご容赦願います。

古墳時代以前から既に城沼の蓮が存在していたのかは判りませんが、その当時の時代背景として勢力分布を鑑みると、関東北部に勢力を維持していた埼玉県鴻巣市を拠点としたとされる武蔵国の存在がありました。

更に中国では、古代から蓮を食材としていたと言われている事もあって、蓮が大陸から武蔵国へと持ち込まれた可能性のある事は否定出来ません。

この仮説が正しいとするならば、食材としての蓮が武蔵国を経て城沼へと流通した可能性も考えられます。

しかしながら、行田蓮の種の発掘と再発芽に至る経緯(下記【参考】を参照)からすると、古墳時代に武蔵国周辺に生育していた蓮の全てが滅失していた事になりますが、その滅失原因については、河川の氾濫による土砂(浅間山噴火等の火山灰も含む)の堆積によって蓮の育成していた湖沼が埋め尽くされて、全滅してしまったと考えるのが妥当ではないかと思われます。

その中で、行田蓮がその当時から複数の湖沼で広域に存在していれば、蓮の栽培されている全ての湖沼が、埋め尽くされて全滅してしまったとは、常識で考えても有り得ない事だと思います。

したがいまして、この当時の蓮の栽培は極一部の沼地に限られ、決して多くはない蓮畑が河川の氾濫による土砂などの堆積によって埋め尽くされて、全滅したのではないかと思われます。

行田蓮の種が発見された近隣北部に在るさきたま古墳群の土壌調査では、古墳が築造された当時の地盤面は、現況地盤面より1.0〜1.5m程度の深度とされているので、それだけの土砂が後期に亘って堆積していたことが分かっています。


行田蓮については、上記の推測論で全滅したと思われるものの、城沼蓮は台地に囲まれた窪地に形成された沼であったが故に、河川の氾濫の影響を受けにくく、現存続けているものと考えます。

上記の通り、古墳時代に武蔵国から伝承された蓮が現在に至るまで自生続けているとの仮説となりますが、この記事はこれにて一旦終結したいと思います。


【参考:古代蓮開花への奇跡(軌跡)】

古代蓮の里にほど近い公共施設建設工事の際に、偶然出土した種子が自然発芽し甦り、池に開花しているのが発見されました。

地中深く眠っていた多くの蓮の実が出土し、自然発芽して一斉に開花した事は極めて珍しいことといわれています。

(古代蓮の里HPより抜粋)


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『では何故、種は地中深く埋まってしまったのか?』


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①河川の変遷

かつて江戸時代初期以前の利根川は、埼玉県羽生市付近から現在の古利根川を主流路としており、同じく荒川は熊谷市久下から現在の元荒川(桶川市以南は綾瀬川)を主流路としていました。

この二つの河川は、埼玉県越谷市で合流していたが為に、この下流域では豪雨の度に氾濫し、水害を繰り返していました。

これによって江戸幕府は、二つの河川を切り離す治水事業に踏切り、文禄3年(1594)に利根川を現在の千葉県銚子方面へ、寛永6年(1629)に荒川は和田吉野川へと人工掘削により流路を変え、現在の河路が形成されました。(上記年代は治水工事の着手)

この河川の治水(変遷)事業は、利根川を東遷、荒川は西遷と呼称されています。


②上記①の東遷に関連して、埼玉県北部エリアに於ける利根川支流の幾つもの河川が、人工掘削によって流路を変えられています。

この古代蓮の里の南側付近を流れる旧忍川も人工掘削による人造河川(主流ではなく排水路)と言われていますが、太古の時代に自然流路のあった痕跡(下記治水地形分類図、白と青のシマ線箇所)があり、その部分を後期に於いて人工掘削したものです。



その自然流路があった太古に利根川の支流であったこの河川が氾濫した事に因って、古代蓮が成育していた湿地帯に大量の土砂が流れ込み、堆積したものと推測出来ます。


③この土砂の堆積による自然の猛威を受けて、地中深く眠りについた蓮の種は、近年の公共事業によって甦り、再び開花したというとても奇跡的な軌跡に拍手👏を送りたいと思います。


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