人によってはずいぶん長く休みが取れたという今年の連休中も、妻はたったの一日も休みが取れず、会社に出勤し続けていた。
ある雑誌の編集長だという立場もあるが、会社の他のファッション雑誌の編集長たちは、みな海外の高級リゾートにヴァカンスに出かけ、誰ひとり連休中の出社などしていない中にあって、まさに異例中の異例といえる。
編集長という肩書にも関わらず、彼女が編集部の中でもっとも過酷な平社員生活を強いられている事情については、ゾラやバルザックやモーム、ソルジェニーツィンばりの文学者根性で周囲の人間模様のすべてを虎視眈々と観察し取材し続けている私としては、かならずいつか暴露本を上梓してやろうと思っているテーマのひとつであり、すでに膨大な資料やエピソードは集まったので、そろそろ、部分的に書き出そうかというところ。『どうでもいい話』と題したこの雑文随想集も、じつは、文体練習や切り込み方のアングル研究を兼ねながら、過激な暴露内容を小出しにしていくための山科閑居であるとは、まず、気づかれていまい。
しかも、この『どうでもいい話』、メールで、どうせ読みもしない少数の知人たちに初校を配信する体裁を一段階では採りつつ、じつはネット上にも校正したものを載せていくので、取り扱った対象が存命中であるかぎりは、じわじわとそれを攻撃していく武器となるようにも、当初より目論まれている。すでに物故した腹立たしい不愉快な人物たちについては、ニッポン的な美徳などこれっぽっちも持たない私は、死者にこそ豪勢に鞭打つタイプなので、この溢れ返る情報過多時代、名誉棄損の訴えも現実にはけっこう受けづらいことから、人間の真相を抉り出すという所業の絶好の対象検体と心得て、情け容赦もなく腑分けさせていただく。そもそも文は花や蝶を追うロマンチックなお道具ではないし、私の基盤である広域ロマン主義というものは、社会の永久革命に密接に結びついている虚実とりまぜての過激なレトリックの集合体である。中学時代から文を杖に生きるのを志して以来、まわりの人物や集団や社会を徹底的に観察し、あたかも従順なふりをしながら、彼らの下劣な自我の毒が露わになるところまでつき合い切って、その後は得られた素材を利用しまくって、事実をいかようにも合成し改竄し、後代に向けてイメージと価値観のどんでん返しを企むところに、歴史学なんぞとは違う文学の志はある。文学の徒は、本質的に人類に差し向けられた呵責ない全身スパイなのである。
毒にも薬にもならない文弱な詩人サンだの歌人サンだの、さらにはおフランス文芸のセンセだのというスイートな衣を意図的にいくつも被り続けて、その実、やろうとしているのは、関わってきたいろいろな世界の不条理とアホラシさについてのいくつもの全方位暴露や告発、さらにはラブレー張りの笑い飛ばしの試みなのだから、まァ、ジョナサン・スイフトさんやディケンズさん、ソルジェニーツィンさんのように、もっとも人が悪いタイプかもしれない。いや、司馬遷の『史記』に比肩しうるような、あるいは、17・18世紀のヴェルサイユ時代を冷酷に観察し記し続けたサン=シモン公爵(社会思想家のほうではない)の回想録ばりの残酷かつ滑稽な昭和平成年代記を目指しているんです、と言っておけば、まだ人聞きがいいというものか。
いま書き始めたこの文も、本篇というより予告編なので、本気の取り組みはしないで、メモ程度にチャチャッと済ますけれども、ともかくも、今年の連休中もとうとう休みの取れなかった妻の話…に戻ろう。休みが取れなかった、といえば、昨年中も、妻が休んだ土日は、総計して10を超えない。今年について言えば、よく覚えているが、日曜日たったの1日だけである。
どうしてこうなるのか。
このあたりの詳しいことは、いずれ完成する大暴露小説でご披露するので、乞うご期待というところだが、かいつまんで言えば、会社が人員補給を全くしない方針で、あまりにも人手が足らな過ぎること、編集部の部下たち、すなわちスタッフたちの殆どが彼女より年上のオツボネサマで、露骨な怠惰と手抜きを妻にむけて見せつけ続けていること、会社内のさまざまな部署がやはり我儘に他の部署とのスムーズな協力を拒み続け、うまく回っていないこと、とりわけ人事課には馬鹿が巣食い、お友達ばかりを社外から引っぱって来て高給を宛がい、社内を馬鹿の巣窟化させ続けていること、等などである。
どこの会社にも不条理はあり、現場のそこ此処に不満と憤懣、小さな悲劇は渦巻いているものの、今の彼女の立場に向かって覆い被さってくる様々な種類の馬鹿げ切ったゴタゴタの津波は、傍らで見ている私には、とうの昔から、もう喜劇の極みとしか言いようのない段階に達している。
こんな言い方をしてみると、仕事に関する悲喜劇なるものは、たちまち抽象的なマトメになってしまうところがある。長々と告発文にしてもつまらないし、ルポルタージュにしてもカッタルイし、やはり、コメディー小説にでもしないと核心部分が掬いとれないところがあるものだ。そういうものを拵えるには、根気も才覚も執着心も要るし、それなりの編集的理性も要るので、なかなか普通の人々がやり遂せないところがある。だが、私のようなカイブツにはあるんだなァ、それが。
今回のこの短文は、せっかくの長い連休だというのに、妻は出勤し続けで、家族の団欒もなにも御座いませんでした、全く、このヤロウ!、というシンプルな表明が主目的なので、ここら辺で終わってよいのだが、ちょっと自分のことを加えておく。
妻が連休中も、一日たりとも休めない、ということはなにを意味するか。当然、家事は他の誰かがやらないといけない、ということになる。我が家においては、その任に当たるべきは私しかいない。布団干し、掃除、洗濯、買い物…と日々くり返されるわけで、これは連休中に限らず、こちらも勤めに出る普段の日常生活においても変わらない。なにせ、朝から夜遅くまで妻は帰らないが、こちらは夕方に帰る。帰宅のこの数時間のズレが、こちらの家事労働的被搾取の理由となってしまうのだ。万国の家事労働ハズバンドよ、団結せよ!
妻の労働条件の過酷さを傍観しているだけではなく、家事の徹底的な皺寄せということから、こちらも、妻の職場のアホラシさの十二分な被害者であり、当事者なのである。
私の場合、たゞ、家事を含めたあらゆる生活において、あまりに(恥も外聞もなしに、馬鹿丸出しに大いに自慢してしまうけれど)ユーシューすぎるので、軽々と、チョチョイノチョイと、家事程度のことは消化してしまう。なにも家事をしない馬鹿夫がそこらじゅうにノタクッテいるというニッポン世間と比べて妻が幸せだったのは、まさにそこのところで、まるでホテルよろしく、帰宅すると、陽にあたってホカホカになった布団が敷かれていたりする生活を享受できている。重い大根もカボチャも夫が買ってきてくれている。好きな刺身や鶏のナンコツやらも、夫が見つくろって買ってきてくれている。夕食づくりにかぎっては、じつは、腹立たしいことばかりの職場から帰ってきた妻が絶好の気分転換になるからと自らやる場合が多いものの、私も手伝うし、妻の帰宅をLine で知らされた私が、あらかじめ作っておくことも少なくない。
能力のある人間に不平等不公平に仕事が集中するというのは、今、どこの業界でも起こっていることだが、これは家の中でも同じこと。私がもし、家事にまったく疎い、100 %会社人間だったらどうだっただろう、あなたは今の仕事なんかやっていられないはずだよ、と時どき妻に言うのだが、「そんな人だったら、最初から結婚してないもん」と答えるのだから、よく言うよ、というお話になって、今回のこの短文も、とりあえず終わりにしておくわけであります。
…という終わらせ方や、エピソードのふざけたドライブぐあいも、じつは文体練習と文章研究の一環なわけだが、さァ、よい子の皆さんには、わッかるかなァ…
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