自分の性格がどの程度のものなのか計る2つの物差し | 【猫と占いよもぎ蒸し】執着専門心理療法士のタロットカウンセリング ファンダリカ

人からの評価とは

自分がいったいどの程度の人間か?というのを

自分で判断するための指標のようなものだ。

 

 

自分の性格は良いのだろうか

悪いのだろうか。。。

 

 

たぶんこうではないか

良いところもあるし

悪いところもある

 

客観的に一応判断していることだろうと思う。

 

 

 

道理をわきまえているだろうか

思いやりはあるだろうか

自己中心的なところは無いだろうか

すぐに応じているだろうか

 

 

 

確かに

この事すら考えずに自由に生きている人も若い人ならばたくさんいるだろうが

成熟した大人であれば日々反省したり

自分のすばらしさを認め

相手の弱さを許している人たちが多いと思う

 

人の評価が単なる指標ではなく

尊敬や賞賛、ほめられる事を望むようになるのであれば

それは愚かである

 

 

 

 

ダンマパダ73,74章

愚かなものは他人に尊敬を求めれば

それが返ってくると思っている。

 

実際は「私は凄いのだ」という人間をだれも尊敬はしない

 

人間は認められたい生き物である

そして人よりも優れていると安心するために比較する煩悩がある

 

尊敬されたいからするのではない

 自分、相手、皆の幸せを考えて行動するのだ

人と比較することは無い

 相手も自分も境界はないのだ

 

(ご縁があってお話できる正田大観先生や、中村元先生訳を参考にしています)

 

結構難しい文なので個人的な解釈で書いています。

さらに超訳するなら

 

「ねーねー私すごくない???いいねしてよね!」という

無言の圧力の投稿

恥ずかしいよ!

 

 

聖書ではフィリピ4:5 ピリピ4:5

すべてのひとなんぢらの寛容くわんようらしめよ、しゅちか

 

自分で自分の評価はどうでもよいのです

他人から、どのような者として知られているのか?ということです

 

自分の考えに固執しません。

むしろ、他の人の言うことに快く耳を傾け

適切に対処し必要であれば譲ります。

 

(文語訳、口語訳、新世界訳など黒崎注解から超訳してます)

 

個人的に新世界訳を採用しました。

フィリップス現代英語新約聖書での訳も似たような訳です

【あなた方が道理をわきまえていることがすべての人に知られるようにしなさい】

 

 

 

聖書もお釈迦様も似たようなことを話されています

聖書では 人は完璧ではない 未完全の存在である

仏典では 悟りを開いた覚者でさえも こんなすごい修行をしたのだ見よと思う

 

 

修行をしている人でさえ難しいのだ

 

だからこそ

 

1つ目は、慢心していないか

 

2つ目は、『自分は、思いやりがあり、すぐに応じ、穏やかであるとの評判を受けているだろうか』

自問すること

自分の指標ではなく

周りの世界からの指標によって判断することの大切さがとかれています。

 

 

 

 

 

非常に良い気づきがあったので

思い出した聖句と仏典を引用しました。

 

慢心と謙虚

賞賛と嫉妬

 

ちなみにこの記事は自分のことを書いてますよ・・・

どちらにも揺れ動く二極が私にはあります。日々是精進。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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