1.愛を偽った彼女
エレン・スレインの頬を、涙の粒が伝い落ちる。
悪魔が嗤った。
枯れることのない美しさのまま、咲き誇る花のような笑みを浮かべ、悪魔は残酷な言葉を紡いでいく。
「――理解できまして?」
悪夢は終わったのだと思っていた。
犯した罪に対する罰はもう、十分に受けたと思っていた。だって息子が幸せを得た。
どうやっても決まらなかった婚約者はある日、降って湧いたように現れた。男爵家の出身という、身分は低いけれど誠実な子が。
愛されるために生まれてきたような可憐な容姿は、自然と人を笑顔にする。上位貴族の令嬢にも劣らぬ優雅な所作は多くの人の目を釘付けにし、教育係を呻らせた。
自分という前例がある以上、身分が障害となることはない。これでやっと、息子は幸せになれる。安堵の息を吐いて胸を撫で下ろしたあの日が、悪夢の終わりだと、信じていた。
なのに、今になって。アーサーが王として即位する、そのための準備がようやく整おうというこの時期に。
「ど、どうして……」
声が震える。
平和に慣れたこの国で、しかしここは王宮内にある王妃の寝室だ。民がみな平和で呆けたとしても、追放処分された罪人が身一つで侵入できる場所ではない。扉の前には護衛が、それどころかそこら中に警備の人間がいる。掻い潜るなど不可能だ。
「なぜ、今になって……」
もう十分、息子のことは十分に苦しめただろう。罪のない子を傷つけて、もういい加減、もう消えてよ。
涙すら混じる声を、いつかの姿とは異なり彼女は笑みのまま黙って聞いている。
クリスティーナ・アベル。
解放されたと思った過去の罪が再び、首に両の手を添えた気がした。
悪魔が嗤う。
「仮初の幸福はこれにてお終い。これからは、ずぅっと不幸だけですわ」
芯から凍える、真冬に降る雨のよう。
クリスティーナの言葉一つひとつが、エレンの肌を刺していく。彼女は一体、何の話をしているの……?
「あなたの秘密も今日でお終い。偽りの幸福の檻は快適だったかしら?」
「い、つわり……?」
「何を呆けているのです? ああ、あなたの夫との愛も、始まりは偽りでしたわね」
息が詰まった。
夫――アルフレッドとの愛。クリスティーナは偽りだと言い切った。知っているのだ、気づいていたのだ。では秘密とは、つまりそういうことなのだろう。
魅了の魔石。
エレンが一人で、墓まで抱えて持って行くと決めていた秘密を、彼女は知っていた。
「ど、どうして」
「大きなお金を動かす時は気をつけないといけませんよ。お金の流れ程、人の欲望を如実に表すものはないのですから」
そこから、そんなところから知っていた。
震える足が遂に膝を屈した。崩れた体を床に倒し、残った腕の力で上体を辛うじて支え起こす。
「私は、……私はただ、」
アルフレッドの心が欲しかった。相手がクリスティーナであることなど、関係なかった。愛してしまったたった一人を、自分のものにしたかった。
そのための努力なら惜しまなかった。頭のてっぺんから爪先まで、徹底して磨いた。女として、淑女として。愛した彼の隣に立って恥ずかしくないように。相応しい、と周囲の肯定を得るために。
「愛が欲しかった……」
血を吐くようなエレンの言葉を受け、クリスティーナは笑みを深くした。
「ですから、差し上げたでしょう?」
「……」
「あなたの愛が実るようお膳立てして、邪魔者は退場。仕えることになる皆さまには申し訳なかったけれど、王妃として問題ないだけの資質をきちんと磨くのであれば正当な評価を、とお願いしましたわ」
顔から血の気が引くのが自分で分かった。
積み重ねた努力、その果てに得た評価。全てが砕け散ったような錯覚に陥る。
「違う」
吐息のような言葉が漏れ、弾けた。
「違う! 私は自分で勝ち取ったわ! あなたへの勝利も、アルフレッドの愛も、私は自分の努力で得たのよ!」
決して悟られぬように。不自然にならないように。
扱いの難しい魅了の魔石を意のままに操るため、寝る間も惜しんで訓練した。
アルフレッドに接触する瞬間、彼に微笑みかける瞬間、言葉を交わす瞬間。ほんの一瞬だって手を抜かなかった。溺れさせないよう、細心の注意を払って。エレンの笑顔を、言葉を、ほんの少しだけ魅力的に、魅せるだけ。細い糸を、時間をかけて紡いだ。
クリスティーナよりも、エレンを選んでくれるよう。結果、アルフレッドはエレンを選んだ。クリスティーナ・アベルは、大輪の薔薇は、エレン・クララに敗北したのだ。頼った石のためでなく、女としての魅力で劣ったために。
「ええ、そうですわね」
静かな返事に、言葉が詰まった。
「実に見事でした。素晴らしい研鑽でした」
嘘も偽りもない、心からの称賛にたじろぐ。恐ろしい。不意に、そんな感情が脳裏をかすめた。
「あなたが重ねた努力は称賛に値する。だからこそ、今日まで見逃してあげたでしょう?」
知らず、肩を抱いていた。恐ろしい。恐怖で震えが止まらない。
「あなたが過ごした幸福の日々は、わたくしからのご褒美ですわ。よく頑張りましたね」
聖母のように、我が子を慈しむ女神のように、悪魔が嗤った。
「胸いっぱいに抱えた幸福を糧に、これからの不幸を乗り越えてくださいまし」
「な、何を……」
「この国は新たな、正当な王を戴く。傀儡の王にかしずく日々は終わったのです。これからはアーサー陛下のための時間。あなたを包んでいた真綿は没収です。どうぞ、しっかり反省なさいませ」
にっこりと、美しく微笑んだクリスティーナが背を向ける。エレンの寝室、その扉から堂々と外へ出た彼女を、護衛が笑顔で出迎えた。
――ああ、そうなのね。
偽りの幸福の檻とは。エレンの手のひらにあった愛とは。全て彼女が与えてくれていたものだったのだ。
よく頑張りましたわね。子を労う母のような言葉は事実、エレンという子鼠がのたうち回る様を愛でていた悪魔の労わりだったのである。よく頑張って、わたくしを愉しませてくれたわね。
ご褒美として与えられる餌を自ら運んできたと錯覚していた愚かな鼠は、悪魔に新たな娯楽を提供できなくなった鼠は、ここでお終い。もう要らないから、過去に主人の手を噛んだ罪を償って、正しい不幸の檻で飼い殺される。
震えの止まった、けれど立ち上がれないエレンの耳元で、
「ご子息には、秘密にすると良いでしょう。嘘はお得意でしょうから、死ぬまでずっと、口を噤んでおいでなさい」
姿なき声が嗤った。その主を、エレンはもう気にすることもできない。
「ごめんなさい、アーサー」
愚かな母を、どうか許さないで。エレンはただ、謝罪することしかできなかった。