9.不運な悪魔の嘆き
初めてその魂を見た時、己の幸運を邪神に感謝した。
穢れなく、高貴な魂。氷塊を削り出したような美しい魂の中では、燃える炎が閉じ込められていた。なんて美しい。是が非でも手に入れたい。
きっと最高の食事になるだろう、そう思った。それが、全ての過ちの始まりだ。
クリスティーナ・アベル。
彼女は魂だけでなく器も美しかった。
髪は悪魔が好む闇を流し込んだように暗く艶やかで、双眸は悪魔の内に宿る業火を閉じ込めたように見る角度によって揺らいで見える。整った顔が、絶望に歪み恐怖に染まる瞬間を想像するだけで、背筋を甘い痺れが駆け抜けた。
しかし想像に反して、彼女の絶望は静かだった。夜の静寂に似ていた。
感情は揺らがず、魂は陰らず、静かにただ静かに、内に閉じ込めた炎が燃え上がっただけだった。
――つまらない。
もっとわかりやすい絶望が欲しい。もっと激しい感情が見たい。
上質な魂を喰う際に振りかけるスパイス。彼が好むのは絶望や嘆きであった。提案したのはだから、彼なりの食材への気遣いだった。料理の一手間と言ってもいい。
『お可哀想に。愛を失うのはさぞお辛かったでしょう。よろしければ、お手伝いしましょうか?』
慇懃無礼な態度で、恭しくお辞儀までして、彼はクリスティーナに声をかけた。
突如として姿を見せた悪魔に動揺したのはほんの一瞬。彼女はすぐさま満面の笑みを浮かべ、彼の手をとった。迷う素振りもなかった。彼の方が狼狽した程、あっさりとクリスティーナは握手を求めた。
もちろん、応じないわけもなく。
彼もまた笑みを浮かべ、彼女と握手を交わした。では契約成立ですね。あとは一言、彼女にそう伝えて魂に印を刻めば終了だった。終了するはずだった。
ぶちぃ、と。
肉の千切れる音のした後、焼けるような熱さに襲われた。痛みを感じる余裕もなく、悲鳴も出せず、くずおれる肉体をただ見ることしかできなかった。
状況を理解した時にはもう、何もかもが遅い。
『悪魔ごときが与える愛が、わたくしの魂と釣り合うなどと烏滸がましい。身の程をわきまえろ』
美しい笑みは睫毛の一本分も崩れておらず、それが余計に恐怖を煽った。恐ろしい。この娘は何だ。なぜ、そんなことができる。
魂は変わらず穢れを知らぬ顔で澄んでいるのに。無垢なまま、悪魔の頭をもぐことなど、人間に可能なのだろうか。
笑顔で虫の足をもぐ幼子のよう。
好奇心だとでも言うのだろうか。興味本位で頭をもいだ。なんたる歪。なんたる狂気。悪魔である彼より、よほど悪魔らしい。
『悪魔も死ぬのかしら』
明日は雨が降るのかしら。天気の話でもするような気軽さで死の概念を問うてくるクリスティーナを、彼は心底、恐ろしく思った。視界が歪んだことで、自分が泣いていると自覚した。
彼の涙を肯定と受け取ったのか、クリスティーナは笑みを深めた。
『隷属するのであれば、わたくしの魂の一角に住まわせて差し上げますよ』
頷くしかなかった。従うしかなかった。屈服する他に、恐怖から逃れる術を思いつかなかった。
クリスティーナ・アベル。彼女は悪魔であるに違いない。悪魔を喰う悪魔。そうに違いない。そう思わなければ正気を保っていられなかった。
社交界の華としてあらゆる相手と糸を繋ぎ、悪魔にせっせと情報を運ばせる。完璧な淑女の仮面を被り、言葉巧みに人の本心を引きずり出す。女神のような言葉を吐き、人の心をつかんで離さない。
どこからが悪魔の力で、どこまでがクリスティーナの力か。境目は彼にもわからなかった。彼の力を使わずとも、彼女は何でもできるような気がした。それほど巧みに、彼女は状況を操作した。
清廉な心を保ったまま、無邪気に悪意をばら撒いて、他者の命運を捻じ曲げることにも人生を狂わせることにも罪悪感を抱かない。
エレン・クララが何だというのか。アルフレッド・スレインが何だというのか。裏切りの予兆を察していたのだから、さっさと殺してしまえばよかったのに。愛を注ぐに値しない婚約者、愛を損なう発端となった女。わざわざ裏切らせて、復讐の口実まで整えて。そのうえ国まで巻き込むとは。
異常だ。彼女はまともじゃない。
父の愛を取り戻したかった。己の愛を果たしたかった。
クリスティーナの根底にあるものが愛だと知って、彼はますます恐怖を覚えた。際限のないものだ。目に見えない、形のない、愛などというものを、真なる悪魔が欲している。
終わりのない、それは確かに絶望だった。
彼女にとって都合の良い道具であるから生かされている彼には、果てのない地獄に落とされた気分である。
――しかし、
「わたくしはきっと、世界で一番の幸せ者です」
父の愛を取り戻し、己の愛を国へ注ぎ果たしたクリスティーナが、幸福を余さず表情に乗せ、微笑む。
――くそったれ。
真なる悪魔は天使のように慈悲深く、神のように全能で、悪魔らしく欲深い。
天使のように慈悲深い人間を演じ切り、悪魔の手を借りて神のように全能に振る舞い、悪魔らしく欲を叶えた。クリスティーナ・アベルは、悪魔をも魅了する、真なる悪魔に違いない。
そうでなければ、恐怖ばかりを降らせる彼女の笑みを、彼が美しいと感じて胸の業火を燃やすことなどあるはずがないのだから。
終わりのない、それはわずかに、愛に似ていた。