7.奪われた者
エドガー・アベルは口端からこぼれ落ちる溜め息を制止する努力を、ここにきて完全に放棄した。
よもや、ここまで良いように操られてしまうとは、何たる恥だろう。全く予想していなかったわけではないけれど、それにしたって、まるで筋書き通りにみなが演技でもしているようではないか。
「やあ、クリス。アーサー殿下は遂に、両親へ事の次第を問いただしたそうだよ」
挨拶もそこそこに来訪の目的を告げると、愛娘は満面の笑みを浮かべた。
「素敵なことを聞きました。わたくし、今日は良い夢を見られそうですわ」
三十を過ぎたというのに、少女の頃と変わらぬ愛らしさがある。魔性だと肩を震わせるのは、これで何度目だろう。
王国の北方にある修道院、そこが娘の根城となって久しい。あれからずっと、娘は瑞々しいまま歳を重ねることを忘れたかのように、美しく大輪のまま咲き誇っている。
十余年前、愛娘であるクリスティーナが卒業パーティの最中に断罪され、修道院へと追放された。公爵家の身分を笠に着て非道に堕ちた、と。
アホか、と思ったし、実際に声にも出した。クリスティーナから先んじて、どうやら自分はアルフレッド様から婚約破棄されるうえに謂れのない罪で断罪までされるらしい、と報告を受けた時、あんぐりと開いた口は塞がらなくて両手で覆った。
罪とやらの内容を聞いた時には、目ん玉が落っこちるかと思って両手で塞いだ。
身分の差を理由とした明確な差別。当たり前だろう貴族なのだから。不敬罪と言う言葉を知らんのか。
あからさまな贔屓。当たり前だろう貴族なのだから。そばに置く人間は選ぶし、そこで手を抜くのは自殺行為だ。
不当な嫌がらせの数々。ありえないだろうクリスティーナだぞ。教本を破り捨てただの階段から突き落としただの、挙句の果てには毒を持っただの。人を使ったという話だがそれにしたって、あまりにみみっちい嫌がらせだ。不敬な男爵家の小娘一人、クリスティーナであれば家の力を使わずとも、この世から影も残さず消してしまえる。
なんてくだらない。
エドガーはすぐに陛下へ謁見し、話し合いを重ねた。
愚かとはいえ息子が可愛い陛下と、必要なら王位を簒奪してでも娘を守ると意気込むエドガーの話し合いは難航した。
その話し合いに終止符を打ったのは他でもない、クリスティーナであった。
『お二人とも、そう熱くならないでくださいまし』
子どもの喧嘩を見守る母親のような口調だった。そのままの口調で語られた話が、今でも国全体を縛り付けている。
「エレン・クララは失意に沈み、今は療養という名目で離宮にこもっているよ」
王妃を旧姓で呼び捨てる。エドガーは彼女が王妃の席に坐してから、否、王太子だったアルフレッドに邪心を抱えて接触したと知ってから、人であるということすら認めていない。
己の欲を満たすため、エドガーから愛娘を奪おうとした愚か者。綿密な計画と弛まぬ努力を、とことん自己を満たすためだけに使い果たした恥知らず。
「アルフレッド・スレインもまた、心に大きな傷を負ったようで気を落としているよ」
エドガーはまた、アルフレッドのことも人としては見ていない。国王という名札をかけた傀儡である。
愚かな娘にまんまと騙され、エドガーの愛娘を衆人環視の中で辱めたくそったれ。
「お父様ったら、彼らはわたくしの愛を満たしてくれる大切な器なのですから、乱暴に扱っては嫌でしてよ」
無邪気に笑い頬を上気させる娘の姿を、エドガーは心の底から恐ろしいと、そう思う。
陛下との話し合いは、クリスティーナのもたらした情報によりあっさり片が付いた。結果として陛下は予想よりも早く王位を退くほどに体調を崩したが、愚息をそれでも愛した報いだと、今では誰も気にしていない。
「エレンの隠し事はそのままだが、二人の隠し事は息子にバレたよ。二人とも本当に終わったことだと信じて疑っていなかったようで、まさかここにきて罰が当たるとは、すっかり青褪めていたよ」
アルフレッドはこのまま王太子とし、時が来れば王に据える。放っておいても次の婚約者の椅子にはエレンが勝手に座るだろうからこれは黙認する。そして王妃の席にも繰り上げてやる。幸いにも二人は飾り物としては優秀だから問題ない。
体調を崩しても王はしばらくしがみつくだろう。その間に、予定通り宮廷を整える。無能な貴族は叩き潰し、宮廷内のくだらない権力争いに終止符を打つ。二人はあくまで飾り。それなりに役立ってはもらうが、国を満たすために邪魔になる要素は徹底して排する。
予定通り婚約破棄を告げられたその日。修道院へ旅立つ荷造りのため邸に戻ったクリスティーナは、必要なものを鞄に詰めながらざっくりそんな話をした。
まさかその話をするために荷造りを後回しにしていたんじゃあるまいな、と問うエドガーに、クリスティーナは悪戯に成功した子どものように、本当に可愛らしく笑ったのだ。人の笑顔で心臓が潰れるかと思ったのは、後にも先にもあの時だけである。
「ふふ、……例の秘密はもう少し秘めさせてあげましょう」
新たな悪戯を思いついた少女のような笑顔に、知らず背筋が震えた。とっさに話題を捻じ曲げる。
「クリスティーナ、聞きたかったことがあるんだ。お前、どうしてエレン・クララに譲ったんだい?」
さっさと始末して、アルフレッドのくだらない児戯ごと抹消してしまうことなど容易かっただろうに。清廉潔白な女神のような顔をして、王太子妃を、王妃を演じるくらい容易かっただろうに。
エドガーの問いに一拍、きょとん、と首を傾げ、しかしすぐにクリスティーナは事も無げに言った。
「だって、あれは使えましたもの」
人間へ向ける言葉ではなかった。思うままに盤上を左右するために活用できる駒。クリスティーナの言葉は、テーブルゲームの最中にあるようだった。
「魅了の魔石ですわよ、お父様。扱いが難しいそれを、あの娘は実に見事に操りました。賞賛に値します」
エレン・クララは、莫大な財を叩いて魔石を入手した。全ては恋したアルフレッドの心を己のものとするために。
「お前という子はまったく……一体いつから企んでいた?」
溜め息交じりの問いに、クリスティーナは心外だと言わんばかりに瞠目した。
「わたくしはただ、真実の愛を貫こうと努力しているだけですわ」
愛、真実の愛。クリスティーナにこれほど似合わない言葉があるだろうか。
「仮にも修道女。お前の愛は神へ捧げるものではないのかい?」
「あら、お父様ったら。神へ嫁いで十年以上経ちますけれど、かの方は一度もわたくしの寝室を訪ねてはいらっしゃいませんわ。とっくに愛想を尽かしていてよ」
「……なるほど」
娘はこんな子だったのだ。情熱的な、双眸に閉じ込めた炎そのままに、燃えるような愛情を秘めた女。よく似ている、と熱烈だった妻の姿を重ねる。
「ああ、わたくしは本当に幸せ者です。奪われてばかりの愛を、こうして余さず捧げる相手を得られたのですから」
修道院へ向かう馬車の中、うっとりと語った娘の姿を思い出す。
『国へ、わたくしの愛は全て、この国へ捧げようと思います』
それはまだ、神へ嫁ぐより前の発言。端から愛してやる気など毛頭なかったのだと、思い至る。もし寝室を訪ねようものなら、娘はきっと不届き者として神を殺すだろう。エドガーはそう確信した。
神よ、あなたは賢明だ。今後も賢明であってくれ。
顔には出さず、こっそりと祈る。
「ここで過ごすことになって、わたくしはお父様の愛も改めて得ることができました。喜びばかりの人生ですわ」
口端が、心臓が引きつりそうになった。
愛していない。否、愛することを止めていた。最愛の妻を病で亡くして、エドガーは娘への愛もぴたりと喪った。
こんなにも恐ろしいと思う娘を、それでもかつてのように愛おしいと思うようになったのは、婚約破棄される、と娘に告げられたあの瞬間。きっと修道院へ送られることになるだろう、と聞いた時、まずエドガーの身を震わせたのは己への絶望だ。
二度と会うことはなくなるだろうな。
公爵としての自分がまるで他人事のように言った。事実、修道院へ送られたらクリスティーナの価値はなくなる。誰かの妻に据えるにせよ、王妃になるにせよ、クリスティーナという道具の価値はこの国で一番だ。アベル公爵家へ雨の如く利をもたらしただろう。その価値がなくなる。エドガーはその一点だけで、娘との別離を考えた。
娘に、たった一人の娘に、二度と会えなくなる。こんな粗末な企みのせいで。
父であるエドガーは凍りついていた己の心に絶望し、クリスティーナを失う未来を思って氷を溶かした。失いたくない、二度と。愛した者を二度と、失ってなるものか。
「愛しているとも、クリスティーナ。お前は私の、自慢の娘だ」
愚かな娘であったなら、それでも愛すとは言わない。けれど、心臓を握り潰されるような恐怖を植えつけてくる娘であるだけならば、それでも愛そう、いくらでも。
「それでクリスティーナ、アーサー殿下の婚約者はどうするんだい? 国にはやはり、未来の王妃が必要だよ」
たとえあの二人の血が流れる王太子でも、これまでの育て方がきちんと根づいた彼になら仕えてもいい。傀儡の王を退け、偽りの王妃を排除した暁には、新たな王と今度こそ清廉な王妃を迎える。準備はいつだって、整っているのだ。
「子に罪はないと申しますし、王子にはそろそろ婚約者をあてがって差し上げましょうか」
フラれ続きで落ち込んでいるようですし、と。顔には聖母と有難がられている微笑みを浮かべ、口では悪魔のようなことを言う。
アーサーはもうすぐ十五歳を終える。婚約者が決まるのはきっと、彼の誕生日の前後になるだろう。薄々、勘づいてはいたのだ。クリスティーナの復讐とも呼べる行為は、アーサーが十六歳になるまでには終わるだろうと。
クリスティーナが婚約破棄されたのはアルフレッドと婚約して十五年が経った頃だ。同じだけ苦しめるとわかっていた。クリスティーナならきっと、己に向けられた悪意を放置しないと知っていた。必ず返す、それも何倍にも膨らませて、徹底的に。
「せめて、愛らしいご令嬢にしてやりなさい」
「もちろんですわ、お父様。母親によく似た、それでいて中身は真っ当な、男爵令嬢をあてがってあげますとも」
誕生日プレゼントの包みを開ける幼子のような笑顔を浮かべる娘に、エドガーはもう、凍りつく部位が残っていないと溜め息を深く、深く吐き出して顔を覆った。