5.かつて令嬢だった乙女達
あの日、あの場で、少女達は痛感した。思い知った。
自分達がこれまで身を置いてきた社会とは、これからより深く関わっていく社会とは、こうも冷たく酷な場所なのだ、と。
クリスティーナ・アベル。
王太子の婚約者として研鑽を積む彼女は、卒業を待たず既に社交界で大輪の花を咲かせていた。その美貌は年嵩の女性達をも魅了し、思わず嘆息をこぼす程。爪の先まで磨かれた優美な所作は、学院内でも王宮内でも、目の肥えた教育者達を黙らせる程。
公爵家令嬢としてだけでなく、王太子妃に求められる知識や教養も学ぶ彼女は当然、学院において誰よりも多忙であった。にもかかわらず、彼女は多くの生徒と交流を持ち、些細なおしゃべりにも耳を傾けた。
子爵家のあの子が風邪を引いたらしい。男爵家のあの子は長年の恋を実らせたらしい。伯爵家のあの子は大変な読書家である。侯爵家のあの子の婚約者はひどい浮気者らしくて、可哀想に不安で泣いていた。公爵家のあの方は厳しいけれど正しいことを言っている。
学院の端から端まで、不思議とクリスティーナはどんなことでも知っていた。身分による扱いの差はあれど、それは貴族であれば誰もが重んじる社交界のマナー。下の者が上の者へ気安く話しかければ窘め、けれど悩みや困りごとがあるとわかれば親身になって寄り添っていた。感謝し、さらなる尊敬の念を抱く者こそあれ、差別だと騒ぎ立てる恥知らずはいない。
そばに連れているご令嬢は上位貴族の出身が多かったけれど、それも貴族であれば当然のこと。そこには両親の繋がりもあれば上下関係もある。自分だけでなく家同士の関係にも気を配れば必然、深く付き合っていく相手は絞られていく。それを贔屓だと指さす愚か者はいない。
貴族令嬢として正しい姿でいれば、クリスティーナは誰に対しても聖母のように慈雨を降らせた。淑女の鑑であり、みなの憧れ。
卒業式に参加していた令嬢達の誰一人として、王太子が口にしたような行為を目撃した者はいなかった。清廉にして潔白なクリスティーナ・アベル。王太子の背後で肩を震わせる男爵令嬢こそ、彼女達にとって悪だった。理解のできない、不気味な悪意の塊。
決して、決して忘れない。
嘘だ、と声を出したくても相手は王太子。王家と公爵家での話し合いも済み、クリスティーナは沈黙している。前へ出ようにも、腕を腰を捕まえる婚約者がそれを許さない。
違う、違うのよ。クリスティーナ様はそんな方ではないの。言いたいのに、殺意を感じる程に燃え上がった男性の視線は恐ろしくて。親しくしていた自分達に、何も問わないまま彼女を悪と断じて睨む婚約者が信じられなくて。何か、自分達とは違う別の何かにすら見えて。軽やかに大広間を出て行く背中が見えなくなっても、誰も何も言えなかった。
あの日の疑心を、後悔を、屈辱を。
忘れることなどできなかった。
父に、母に、話はすぐに伝わった。両親の反応は全く異なるもので、まさか、と震える母の隣で、アベル公爵家も終わりか、と呟いた父の言葉が決定打になった。あの場で打ちのめされた令嬢達は、家に帰って今度こそ叩き潰されたのである。
一人、また一人と調べる者が出てきた。婚約者によってクリスティーナのそばから引き剥がされた日からそう間を空けず。証拠としてかの男爵令嬢が王太子へ提出した署名。当然、全員に聞き込みが行われた。王家がどれだけ秘匿しようとも、人の口に戸は立てられない。一人、また一人と被害者だと名を記した令嬢の名が明らかになる。それはいっそ不自然な程、一人の例外もなくどこからか名が漏れる。
少しずつ、少しずつ嘘は真実に塗り潰された。
『経済的な援助を申し込まれた』『婚約者でない男性と会っているところを見られた』『借金がある』『クリスティーナ様が羨ましかった』『クリスティーナ様が疎ましかった』
クララ男爵家は金で爵位を買った成金だ。金だけならいくらでもあった。そして金があれば、大抵のことはどうにでもなった。誰かの秘密も、弱点も、時には心さえ。
クリスティーナに害されたと泣く令嬢。害するよう命じられたと怯える令嬢。被害者にも、加害者にも、真実などなかった。
あの日、自分達が道具だと思い知った彼女達は冷静だった。憤りも失望も、全て飲み込んで水面下に潜った。誰にも悟らせない。誰一人の裏切り者も出さず、彼女達はやり切った。
母親が、姉が、貴族社会の歯車だった女達が徐々に味方となったことも大きな助けとなった。
密に連絡を取り合い、慎重に日取りを決め、不自然でないよう丁寧に演じた。
『北方にある孤児院へ行きたい』
クリスティーナが追放された土地のそばにある、孤児院へ行く。娘の悪行に気づけず、あまつさえ放置した公爵家は宮廷内でも厳しい立場に追いやられたと専らの噂だ。きっと、領地も苦労が多いだろう。あの辺りは孤児院が多い。自分はもうじき結婚し、そしていずれは母となる。慈善事業への参加を通して、甘やかされた令嬢から脱したい。
理由なんていくらでもあった。ありとあらゆる甘言で父親を丸め込み、一人、また一人と北方へ出向いた。
時期も人数も言い訳も、大勢で協力すれば違和感を生む隙など生じなかった。
そうして真実にたどり着いた彼女達を待っていたのは、
『あら、思っていたより早かったわね』
と、優雅にお茶を飲みながら、嬉しそうに破顔したクリスティーナ・アベルだった。