4.母になった彼女
エレン・スレインは泣いた。泣くしかなかった。
終わったことだと思っていた。過去のことだと、思い出しもしなかった。そばにいる人間は誰も、社交の場でも誰一人、気配さえ感じられない過ぎた日の罪。
「ごめんなさい、アーサー」
ごめんなさい、と謝罪を繰り返すエレンを、息子がどんな顔で見ているのか確認する勇気はない。恐ろしくて堪らない。身を震わせるこんな恐怖は、これまでの人生でただの一度も感じたことがない。
問題のない人生だった。人よりもずっと努力して来たし、その分は正しく報われてきた。愛する夫と愛する息子。男爵家の生まれでありながら王妃となった彼女への風当たりがつらい時期もあったが、そんなものは覚悟の上。ひたむきに重ねた努力は決してエレンを裏切らず、今では多くの者が支え助けてくれる。
それがどうして、今になって。なぜ、息子が。裂けるような痛みの中、涙だけではない熱で双眸を燃やし、エレンは思い出す。
クリスティーナ・アベル。
まさかこんなに年月が過ぎ去ったあとに、あの女の牙が息子の肉を抉ることになるなんて。あの頃はもちろん、今だって信じられない。
完全に出し抜いたと思っていた。誰も負かせなかったあの女に、自分こそが勝ったのだと思っていたのに。
「どうして……」
ミスはなかった。エレンの行動にも選択にも、落ち度など少しもなかった。細心の注意を払って行動したし、その実、今日までエレンが示した正義に影が差したことはない。みなが受け入れ、納得している。納得しているはずなのに。受け入れてくれたのではなかったのか。
「まさかこんなことになるなんて、」
あの日、あの場の誰もがクリスティーナを悪だと睨んだ。
清廉潔白なご令嬢。それだけであったなら、あれほど事態はうまく進まなかった。彼女が、未来を期待される王太子の妃に選ばれた女性であったから。断罪したのが他でもない、同じだけ清廉潔白な王太子であったから。
高嶺の花だったクリスティーナに臆して交流の少なかった令息はみな、より交流のあった王太子の言葉を信じた。提示された証拠には、それだけの署名があったことも拍車をかけた。
下位貴族の中に紛れ込んだ伯爵令嬢達の署名、署名の総数、真剣に語る王太子、芯から怯える男爵令嬢、王家と公爵家の間で交わされた協議。あの場の条件は全て、クリスティーナを悪だと告げていた。
口を挟める人間などいなかった。証拠を持った王太子を相手に、弁論だけで立ち向かえる令嬢などいるはずもない。なにより、クリスティーナが異論を唱えなかった。黙って最後まで話を聞き、その後は普通に退室していった。信じるしかない。クリスティーナは悪だったのだと、救いの手を差し伸べられなかった己の保身のためにも、全員が信じて口を閉ざした。そう思っていた。それが事実だと、疑いもしなかった。
心に残った小さな棘は、いつかは自然と抜けるだろう、と。
しかしそうはならなかった。誰一人、特にクリスティーナを慕い手本としていた令嬢達は誰一人、忘れてなどくれなかった。そして、そんな婚約者を見るうち、令息達も気づき始めた。
「あの時は正しいことだと思ったの。それがまさか、こんな形で復讐されるなんて」
ごめんなさい、と繰り返す。
大勢の貴族令嬢を傷つけ、怯えて表に出られないほど打ちのめした。それも自分では手を下さず、人を使って。いずれ王妃となった時、仕えるには酷な女性だろう。しかし、それでも。
十五年も連れ添った婚約者の悪行に、周囲がひた隠しにしたからといって全く気付かなかったアルフレッド。卒業パーティという場でわざわざ断罪して、罪人とはいえ女性を辱める行為には変わりない。王家と公爵家、双方で協議が済んでいるのなら、あの場でクリスティーナを罰する行為は他の貴族への見せしめと受け取られてもしかたない。
小さな棘は、次第に不信感へと変わっていく。
あの事件の後、陛下が体調を崩された。関連がないと、どうして言えよう。
アルフレッドが負った傷も、そばで尽くしたエレンの献身も外からは見えない。不信の芽は、エレンを婚約破棄の騒ぎに乗じてまんまと婚約者の椅子に座った厚顔としか見えなくしたのだろう。
かつて令嬢だった彼女達は一人も、忘れてくれてなどいなかった。
完璧と称されるほどの、自分達が憧れて焦がれて止まなかったクリスティーナでも使い捨てにされる。王家にとって――この国の男達にとって、彼女は切り捨てられる程度の存在でしかなかった。公式の場で見せしめに断罪される程度の、政のための道具。
クリスティーナで駄目なら、自分達などもっと簡単に捨てられる。彼女達は手を組んだ。身を守るため、そしていずれ生まれてくる我が子を国の餌食にさせないため。
非道に堕ちたクリスティーナに立ち向かったエレンには目もくれず。悪を打ち倒し正義を行ったアルフレッドを信じられず。クリスティーナを切り捨てた貴族社会の在り方に憤った。
手に手を取り合って、彼女達は奮闘したのだろう。徹底した情報共有、誰がどの家に縁談を持ち込むのか、どの家が誰に婚約を持ちかけるのか。相手も、時期も、タイミングも。全て計画したのだろう。でなければ、ここまでアーサーの縁談がこじれるはずがない。
王家が茶会を催すたび、招待状を送るたび、王命を下すたび。先んじて婚約してしまう。夫側も片棒を担ぐことに抵抗しなかったのだ。妻たちが開花させた不信が、我が子を傷つけないように。
勝てるはずがない。アルフレッドとエレンのたった二人で、当時の子息令嬢すべてを相手に事態を改善することなど不可能だ。
考えもしなかった。氷のように冷たい、とどこかで侮っていたクリスティーナ・アベルがよもや、貴族社会をここまで動かしてしまう程、慕われ愛されていたなんて。
「母上……」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
さめざめと泣く母の背を、アーサーはただ撫でることしかできなかった。
果たされた正義が垂らした一滴の毒が、ここまで大きな波紋となるなど、誰にもわからない。
「ごめんなさい」
エレンは謝罪を繰り返す。
アーサーに対する告白は、夫と二人で犯した過ちだけを。彼女が一人で、墓まで抱えて持って行くたった一つの秘密だけは、それだけはどうしても言えなかった。
「ごめんなさい、アーサー」
愚かな母を、どうか許して。エレンにはただ、謝罪することしかできなかった。