イライラし始めたのは躁の終わりだから
病院に行ってきました。
数日経過してしまっているので、精神療法の話題をずいぶん忘れてしまいましたが、覚えていることをいくつか書きます。
コンサータを18㎎から21㎎に増やしました。
私の持論なのですが、多動と躁状態はとても良く似ています。
そわそわしてしまうという意味では区別がつきません。それを先生に伝えたら「ADHDで双極性障害を併発している人は多いねー」と言っていました。
それで、脳の近くが同じ感じで興奮しているんじゃないかなーと思いました。
コンサータを増やしたけれど、躁状態だったので、多動が収まっていたのかどうかちょっと区別がつかなかったです。
ただ、今月は読書がはかどりました。多動が強いと読書ができないので、効いていたのかなという話でした。
コンサータが効くと、物音が気にならなくなったり、セーターのチクチクが気にならなくなったりします。そのことをお医者さんに話したら、そうなんだ、勉強になると言ってもらえました。役に立てるとうれしいです。
服への感覚過敏があると、アトピーが悪化しがちです。でも、今回は、コンサータが効いたのか、皮膚に対して関心があまり向かなかったので、病勢がいくらか衰えました。
躁がまだ続くかどうかで話し合いましたが、最近イライラしていると話したら、「イライラしているってことは疲れているってことだから、鬱に入り始めているのかもしれない」ということでした。
理屈上では、躁が低く済めば、疲れが少なくなり、鬱が軽くなるそうです。
だから、鬱行動記録で、自分の躁鬱の波を常に把握しておこうとしています。
今回は、セルフモニタリングがかなりうまくいき、躁状態でも、「調子いいな」とは思わず「躁だな」と気が付けていたので、何をするのにも家族に相談しつつ生活できました。
そのため、お買い物での失敗が最小限に済ませられました。
今月は、家族の物を買ったり、アレクサを導入したりしました。
プライムデーで5000円くらいでした。
躁転していて買い物がしたい
欲しいもの
この布団かけカバーが欲しくてイライラしている。
昨日まで躁で、今朝から鬱に転換したと思ってたけど、イライラするってことは躁。
一昨日までは睡眠時間が短かったのに、昨日は夜十一時から寝ていたから、たぶん鬱に入ったので間違いないんだと思ってた。
でも、鬱に入った割に、欲しいものが消えない。
欲しいものが消えなくて、イライラするなら躁。
躁の時にまずいのは、迷わないで決めちゃうこと。
即断即決がかっこいいって思っちゃうときはまずい。
迷って意見を聞いて、その通りにできないときには、いわゆる「かっとんだ」状態ってことだからダメだ。
病識がなくなると、躁の時には行動に歯止めが利かなくなって破綻するし、鬱の時には、悲観的になって死にたくなる。
病識があれば、かっとぶことは少なくなるし、鬱の時には客観的に考えて、これは気分の問題だから時期が過ぎるのを待とうと思える。
最初、今日は鬱だなと思ってたけど、この勢いでブログを書いているってことは、多弁だし、鬱じゃなくて躁みたいだ。
最近、無印にはまっていて、日用雑貨を買うととてもいいなと思っている。
今度は、壊れたボストンバッグを無印で新調する予定だ。
↓のとちょっとまだ迷っている。
サブでシュパットも欲しい。
用途は違っているから比べられないけど、これもサブで持っていたら便利そう。
買い物袋にシュパットを使っているけどすごく便利。
欠点は、一つ目の荷物を入れるときに、底が安定しないこと。
利点は、持ち手が長くて肩から掛けられること、たくさん入ること、何よりたたみやすいこと。
このボストンバッグも軽くてよさそうだから、お土産を入れるのにいいなと思っている。
買ったもの
梅酒から入れすぎた梅を取り出すために買った。
砂糖と梅を一対一で入れたのはよかったものの、選んだ瓶が3Lので、十分にホワイトリカーを入れなかったもので、これだと、梅シロップとほぼ同じで腐りやすいということを見たので、ちょっと取り出してホワイトリカーを入れて分量を調整しようと思った。
下のストライプを買った。とても気分がよくなる。シーツも欲しくなった。
便利なもの
鍋は行平鍋と、普通のと、テフロンのフライパンを使っている。ちょっと重さがないと、コンロから落ちてしまうから、あまり軽いのは使いにくい。
煮物もいいし、揚げ物をした後、洗うのも楽だ。カレーを作っても、こびりつかない。
酸性の強いもの、例えばジャムなんかも煮られる。ホーロー鍋を持っていないので、酸性の物を煮炊きするのには、こればっかり使っている。
とにかく汚れがさっと落ちる。
取っ手を取り外せるものは、取っ手のプラスチックが劣化して鍋ごと落ちることがあると聞いてからは収納が楽でも、取っ手がくっついているのを買うようにしている。
病識があれば抑えられるはず
最初に書いたけど、イライラするってことは、鬱じゃないのかな、躁なのかな。
せっかく躁の時期なら、すっきり楽しいのがいいんだけど、イライラして過ごすのは損だ。
病識があれば、ほとんどのことは防げて乗り越えられる気がするんで、今の状態をどっちなのか見極めて、何かする前に十分に検討して迷うようにしたい。
迷うってことは躁じゃないって先生に言われたからそれを目印にしたい。今日は、無印まで行ったけど、布団カバーは買わなかった。客観的にはいらないって思っていたんだよね。でも、本人としては必要だと思っているし、ほしいから買いたいってことを夫に伝えたら、給料が入ってからにしようって言われました。それまで待とうって。
それが待てないというか、待つのがつらくて衝動がきついんだけど、でも、まあ、押さえられるような気もする。
てか、買わないで帰ってこられた。
前なら、強引に買ってたと思うんで、ちょっと進歩したかも。聞く耳持てるのも。
こういうことが進歩なのか、それとも単に薬が効いてるだけなのか、後者だったら悲しい、情けない、自分をコントロールできないことがつらく感じるけど。
実際に、結果的に、行動が収まっているかどうかが大事なんだと思う。で、収まっているんだからいいんだ。薬が止められたり少なくなったらいいんだけど、一生止められない病気なんだから、それはそれで仕方がない。薬があっているから、破滅しないで済んでいるんだ。
防火のために金属のお玉に変えた
お玉を入れたまま鍋を火にかけて、プラスチック部分を焦がすということを四回くらいして、そのうち一回は火が出た。
他にもちょっとしたボヤを起こしたのは、何回かある。
当時はまだぼーっとしていたので、記憶も定かではなく、何を考えていたのかさっぱりわからないんだけど、危機感があったのかというと疑問だ。
最近は当時よりははっきりした感じで生きているので、防災について考えている。
燃えないように、金属のお玉を使っているとヘルパーさんが言ったので、無印良品で金属のお玉を買った。
アマゾンは無印の商品も扱っているのか……。
柄まで金属じゃないと意味がない。
持ち手が熱くならないか心配だったけど大丈夫だった。
コンサータが27㎎になった
病院に行ってきた。
躁状態に入っているけれど、かっとんではいないという話をした。
イライラしてしまうのは、もともとの性格を躁と多動が強化しているからじゃないか。
そして、何かしているとき子供にあたってしまうのは、集中力が切れやすいからじゃないかという仮説を立てて、そのためにコンサータを増量することになった。
薬を増やすことには賛美両論あるけれど、効かないのに少量を飲んでいるのは無駄でかえって体に悪いので、効く分量を飲んだほうがいいんじゃないかということだった。
先生もADHDだそうで、気が散るそうだ。
コンサータを増やして思ったのは、五感に対する劇的な変化は感じられないけれど、クリアになった感じが強まった。眠くならない。頭の中の雑音が消える感じ。いちいちじぐざぐとびとびに思考していたのが、寄り道なしにゴールにたどり着く感じがする。
創造性が亡くなったと悲しむ人も見たけれど、私の場合はあまり関係ないようだ。
それよりも、本を読む気になれるのが嬉しい。
今はアウトプットよりもインプットをしたい時期なので、さくさく作業がこなせるほうがありがたい。
先月は緊急に手術をしたので、体力が落ちている。
けれど寝込んでいるほどでもないので、何かしたい。そうすると、読書がちょうどいい。でも、集中力がないとインスタやtwitterをしてしまって、効率が悪い。
SNSは面白いし、お金を使ってしまうわけじゃないから比較的がいは少ないけれど、あとで残るものがないからあまりしたくない。
気を紛らわせるにはいいんだけど、苦痛がそれほどない時には必要ない。
元気がなくて、集中できなくて、苦しくて、何か刺激物が欲しい時に、SNSはあると便利だ。でも、今はそういう気分じゃないのだ。
そういう意味でコンサータが27㎎になったことがこれからどんな風に生活の質を上げてくれるのか楽しみだ。
発達障害や双極性障害があっても楽しく生きられる(たぶん)
たぶん、今軽躁なので、割り引いて聞いてほしいのですが、療育なしの発達障碍者でも、けっこう楽しく愉快に暮らせます。やりたいことをやれる。
そのためには、工夫がいるし、自分を制御下に置くために苦労する必要はあります。
私は今数限りないルールを設定してそれをこつこつ守って生活している。
朝起きる。その後寝てもいいから。
顔を洗って身支度をする。毎日決まった服でもいいし、気分の上がる突拍子のない服でもいいから。
薬を飲む。食卓の横に薬を入れている。朝、昼、晩、それぞれの薬を縁がそれぞれ赤尾青黒の透明なポーチに入れている。それで服薬管理をして飲み忘れないようにしている。
起きたら洗濯機を回す。
機嫌が悪いことが多いので、朝食の準備と子供の世話はやってもらっている。
手間を最小限にするために、朝食はトーストとコーヒーのみ。
気が向いたらフルーツを向いて出すところはやる。
今までの部分は一人暮らしの時にもやれることだと思う。そのころは、朝起きる習慣がなくて寝つきも悪く、コンサータを飲んでもいなかったので、昼間眠くて居眠りしてしまうことがあった。今はそれはない。不眠でも、一度朝起きてそのあと寝るという風にすると、生活のリズムが崩れないと言われたのでそうしている。
洗濯物を干す。感覚過敏で濡れた布の感触が苦手だったけれど、コンサータのおかげでできるようになった。コンサータを飲むのをやめても、今までやったという実績があるから、できるようになれるんじゃないかと希望的観測を抱いている。
ヘルパーさんが週二で来るので、掃除と片付けをする。話を聞いてもらって安心したりすっきりしたりする。メンタルが安定する。
そして、それが終わったら、読書か勉強か、ゲームをして過ごす。
お昼ご飯はカップラーメン率が高い。
食べたら、台所にいる勢いを利用してそのまま夕食の下ごしらえをしておく。ご飯を研いでタイマーをセットしておく。
夕食は汁とメインの食事を作るだけのことが多い。気が向いたら副菜も作るけれど、だいたい作れない。作れるときにはたくさん作りすぎてしまう。
一日で火を使うのは一回にしているのは、ADHD由来だと思うが、ボヤを半年に一回くらいのペースで起こしてしまうからだ。
いつの間にかお玉がコンロにはみ出して燃えてしまったりプラスチックが解けたりしてしまう。
ここが次の課題だが、ハード面でなんとかなるのではないかという提案をTwitterでもらったので、検討してみようと思う。
調理が終わったら、ぐだぐだしたり、スマホをいじったりしてしまう。これは時間の無駄だからなんとかしたい。まだ工夫の余地がある。
夕方になると、夕食を温めたり調理したりする。そのころ保育園から子供が返ってくるので、食べさせる。
そして、時間になったら塾に行って働く。週二だけど。そこそこ収入になる。
他の日は子供と遊ぶ。最近はブロックが多い。
イライラするとその前兆に気づいて、薬を飲む。最近はなんと薬がなくても、イライラしているなと自覚するだけで、クーリングできるようになってきた。すごい進歩だ。
前はしょっちゅうかんしゃくを起こして泣いて騒いで疲れて一日を棒に振っていたが、それがなくなったのでゆっくりではあるけれど時間を前向きに使えつつある。
鬱の時は動けないし、軽躁になったら、楽しい時もあるが切迫感に突き動かされて大金を使ってしまう場合もある。
でも、それは、けっこう工夫によって解決された。他人の手を借りている部分もあるけれど。
それは現金を持たないということだ。お金の管理は家族にしてもらう。で、お小遣いをもらっている。
家族を頼れなかったら行政サービスでお金の管理をしてくれることがあるらしい。一回役所に相談したら、そういうサービスもいざというときになったらありますと言われた。実際には利用しなくてなんとかなったけど、いざとなったら自分の浪費を管理してもらえるんだと思うと安心した。
軽躁になると自分が何を欲しいかわからなくなって、欲しいに違いないと思い込んだものを買ってしまうのが自分で一番困ってるところだ。
でも、生活のリズムを付けて、失せもの防止に物の場所をきちんと決めてそこに必ず入れるようにできるようになって、生活は爆発的に改善した。
療育を受けていない大人でも、カウンセリングを受けてアドバイスをもらったり一緒に考えたり、またヘルパーさんを頼んだりして、生活力をつければ、それなりに安定することもあるんだと実証したい。
N=1にしかならないし、特殊な事情もあるから参考にならないかもしれないけれど。
最近になって、気づいたのは、何かを楽しむには教養がないと楽しめないということだ。
ゲームにしても、ハードとソフトを買って時間を費やしてやってみないと、楽しさはわからない。経験を積んで投資しないと楽しくならない。
花の名前を知っていたら、道に咲く花に気づいて、いつもより楽しくなる。
そういう経験や、楽しさを理解するための教養がないと、とっつけないし、趣味のタネが育たないので、教養は大事だと思った。
幸せには楽しさが必要だと思うので、いろいろチャレンジして、経験を積んだり、教養を蓄えたりして楽しくいきたいと思う。
自分の人生をコントロールしたい気持ちがある
昨日は病院に行き、診察を受けました。今日書くことは、カウンセリングや診察で話したことが中心です。
その中には、出産についてや性暴力被害についての考えも書いてあります。
最近は、何かするのにも時間がかかるということを言ったら、「発動性が下がっている」みたいなことを言われました。
鬱っぽいときに過去をじっくり振り返ると、鬱のフィルターで過去を評価するから、それほどひどくないことでも、まんべんなくひどい出来事だったと塗りこまれてしまうということを言われました。
認知というのは、認識だけじゃなくて、記憶や観察することにも関係があるらしいのですが、鬱の時には鬱のフィルター以外はオフになっていて、何を見ても鬱フィルターを通して認識するから、何もかも暗くなるそうです。
また、認知が向上した点としては、発作が起きる前に、前兆を察知して薬を飲んだり、気分転換して、気を取り直すことができるようになりました。
これは、薬のおかげではなく私自身のスキルだから服薬状況が変わっても残るものだと言われました。
そろそろ次の子を考えていますので、そうなったときに服薬を続けるかどうか、という相談をしました。
私はリスクがあっても飲みたいと思っています。それは、妊娠を期に全部の薬を切ってしまったことで、症状がひどくなり、回復するのに二年かかったからです。その機会損失や、子育てを楽しめなかったことを後悔しているので、多少のリスクはとっても、薬を飲んでおきたいという考えです。
先生は、最初、私が薬を切りたいと思っていたらしく、薬を全部やめてもいいと言いましたが、昨日話したら、飲んでいてもいいと言いました。
妊婦で実験するわけにはいかないから、対照実験できないので確固としたエビデンスは示せないものの、薬を飲むことで、影響が出ることに関して、それほど有意な差はないということを話してくれました。
妊娠で、ホルモンバランスが崩れて、健常だった人も精神疾患を発症させたり、もともと精神疾患があった人が、悪化したりということはよくあるそうです。それが劇的な症状であることも話してもらいました。
出産についての考えです。
妊娠中に薬を飲むことや、薬を飲まざるを得ないような人間が出産を望むことに否定的な人がいることは知っています。
障害がある人が子どもを持つことは、子どもが不幸になるとか、子どもにも障害が遺伝するのではないかとか、私もネットで言われました。
私はそういうことを言われるのはショックです。言われたくない言葉です。
子どもを何のために持ちたいと思うのか、問われることも本当は嫌です。それは、個人的な話だからです。
でも、万全な状況でないのに産むのは、子どもへの虐待だという人もいます。
生まれた子どもは祝福するが、生まれる前でとどめられるなら、子どもを産むべきじゃないとか、子どもを産むのは(押し付けられた)義務だから、それを拒否するべきで、権利だというのは愚かだとか、そういうことを言う人もいます。
私もなぜ子どもを持ちたいと思うのか、答えは出ません。
子どもを自分の幸せに巻き込もうとするのはよくないのかもしれません。
ただ、私は挑戦したいのです。私は自分の人生を切り開いていきたい、自分の人生を自分の意志で切り開きたいという気持ちがあります。それが無力感の罠から逃れる一つの方法だからです。
残念ながら、私の病気は、自分をコントロールすることを難しくする病気です。人生をコントロールすることも難しいです。
気分のアップダウンが、正常な判断を妨げます。
だから、私のような病気を持つ人には、判断力がないという人もいます。
でも、思うのですが、だれでも気分に影響された不完全な判断力をもって、自分の人生を決定しており、分かれ道のはざまで、どちらを選ぶか悩んで座して死ぬより、どちらかの道を選び、その景色を楽しんでこれが正解だったと言い聞かせているのです。
人生は選択の連続で、後から振り返って、これが正解だったか知りたいと思っても、同じ人間が同じ人生を送っているか対照することはできないので、正解はわかりません。
私は見知らぬインターネット上の人に、子どもを持ちたいと願うことを、どれだけ嘲笑わられても、やっぱり子供は欲しいと思います。
その理由は陳腐ですが、陳腐とは何かを言い換えれば普遍的な理由になるでしょう。
私は自分が見た景色を美しいと思っています。優しい人や、心を豊かに、穏やかにしてくれることがたくさんありました。それを喜ぶのは人生の良い面です。
良いことも悪いことも知らないままでいるよりも、良いことも悪いことも知って生きて死ぬほうが素晴らしいと思います。
なんで生きるかとなぜ産むのかは同じ理由なはずです。なぜ生きるかの答えはありませんが、答えがないまま、生きているほうが死ぬよりもましだから、死ぬことはいつでもできるから、一日ずつ後回しにすることで生きています。それは苦しみの先に、素晴らしいものがあるはずだと信じているからです。
カウンセリングで、性暴力の被害に遭ったせいで、苦しいことを相談しました。
自分の体のコントロールを失ったことが、今でも尾を引いていて、自分を気持ち悪く感じることと、その苦しさのせいで、二十代をどぶに捨てたような気がすることを話しました。
性暴力の苦しみは、だいぶ薄らいでいますが、体調を崩して二十代に得るべき経験をできなかったことは、本当にいつでも苦しく思います。その喪失感が私を苦しめています。あれほど苦しみたくなかった、苦しんだことで時間を無駄にした、と感じてしまいます。私に苦しむか平気でいるかの選択の余地はなかったのですが。
あの経験をとらえなおして、どこかに価値があるのだと思いたい、合理化したい、という気持ちがあります。あの苦しい十年間に意味がなかったのだと思うことは、本当につらいことなので、何らかの意味があったのだと思いたいのです。
たぶん意味はなく、また、意味があったところで、過去は変えられないのですが、変えられない過去だからこそ、とらえなおすことで、意味を書き換えて、自分の人生を自分のコントロール下に置きなおしたいと思っています。
私は二十代の最後に、また、暴力に遭って、抵抗するときに、左腕の神経を引きちぎられたことがあります。でも、その時は、大声を出して、抵抗もできたので、今ではそれほど心の傷になっていません。当時は、安全、安心だという感覚が失われて、恐怖で一人で外を歩けないくらいでしたが、今では平気です。それどころか、抵抗できた自分を誇らしく思う気持ちさえあります。
抵抗したことで、殺されなかったのは単に運がよかっただけだと思います。でも、抵抗するかしないかが、自分は状況を判断して行動できるのだ、という自信を得るのか喪失するのか、大きな境目でした。
私は、自分の二十代の苦しみをとらえなおすことができるだろう、という希望を持っています。楽しめなかったとは言え、二十代にやるべきことはやり遂げているので、その側面を振り返ることができたら、記憶の中にある過去の評価を塗り替えて、自分の人生は豊かだったといえると思います。
私は、「死にたい」と思うことがありますが、病気がそう思わせていることなのだ、と思って分けています。
私の人生に起きたいくつかの出来事は、ろくでもないことでしたが、それでもなお、どこかで、人生は素晴らしいことだ、これから先に必ずもっと豊かで美しく、暖かい経験が待っているはずだと信じています。そしてその経験が私を作り変えてくれるだろうということも、疑っていません。
この希望を持つということが、予期せぬことがあっても、なんとか切り抜けられるだろうと自分を信頼するために必要なことです。私には、自分の人生や体をコントロールできると感じるためには、自分の判断や、行動で、結果を変えられると信じられることが大切なのです。
将来は不確定だから、信じていても、そんな経験が待っているとは限りませんが、泥の中で咲く蓮を待つのと同じことだと思っています。
この期待や、願い、希望があるので、苦しみの中で咲く喜びを見たいと願って、今日も生きています。
ケア会議があった
今日はケア会議があった。
最近の調子について話した。
一月から鬱で安定していて、体が動きにくいが、躁とは違って、お金を使いすぎるなどはなくて、これはこれで過ごしやすい。ただ、やっぱり鬱なのでしんどい。
自己モニタリングはだいぶできるようになって貧困妄想などが出ても、現実と感情は別だと切り分けられているので、対処できている。
また、パニックなどが出てくるとその前兆に気づいて、頓服を飲めるようになった。
今までは、躁鬱が安定していなかったので、前兆なのか、多動なのか、わからなかった。躁だと自己モニタリングもできなかった。
一月から五月は十時間睡眠の過眠だったけれど、今は躁鬱混合で、七時間睡眠になっていることも話した。
一年前はラミクタールを飲んでいなかったらしい。
なので、それが変わった部分。
今の主治医は、先の見通しを教えてくれ、今飲んでいる薬の効き具合も、聞いているからこうなっているなどかなり話してくれるので助かる。
先月は電話診察で、今月は、対面の診察になることも話した。
ヘルパーさんの来た日は水回りの掃除をできるようになった。寝込んで頼むことはしなくなった。
今までは家事援助三時間、身体15時間だったけど、家事援助はもう使わないからなくしてもらった。
他にもいろいろ話した気がするけれど疲れてしまったのでメモ的に。