渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

自分を知る事の大切さ

2021年06月29日 | open
 
どれ位今の自分ができるのかは、どの
ジャンルにおいても知っておいたほう
がいい。これは年齢に関係なく。自己
の正当な公正な能力評価を自己認識
することが身の安全に直結する。

乗り屋については、年齢に関係なく、
「今の自分がどれくらいの距離を走って
も支障がないか」
を知っておくことは重要だ。
私の場合、20代前半は900kmはサッと
走ったが、今はどうなのだろうと58才の
時と59才の時に試してみた。
1日に735km走行して、身体四肢は何とも
なかった。無論適正乗車姿勢を保持して
いるため背骨や腰なども痛くなったりも
しない。
ただし、脳が著しく疲労困憊している
事に気づいた。単純な割り算暗算どころ
か、簡単な足し算引き算さえおぼつかな
くなっていたのだ。
この時期、血液は生涯のうち最高位ほどに
健康な状態であることは病院の検査により
判明している。走行による一時的な知能
機能低下は血液障害によるものではない
ことが判断できた。
長距離走行による疲労により、適正に脳
自体が機能しなくなっていたのだった。
このことは、脳が「現在行動を継続するな」
と警告を発していることを意味する。
これは状況に対する適切な判断ができない
のと、適正対処行動が円滑に成就しない
事を意味するので、走行そのものが極めて
危険な状態、という事になる。

いろいろ試した結果、現行の私の安全
距離範囲は概ね1日500km程という事が
自覚的に判断できるに至った。
750kmでももちろん走れる。しかし、それ
は今の私には脳の疲労が激しくて危険
なのだ。
四肢が何ともないのは教習所や安全協会
や認知不明者が広めるような不適切な乗車
姿勢など取らず、従前のまともな人たちの
多くが採用していた理にかなった適正な
乗車姿勢を取っているためだ。長距離を
走ろうが、身体は何ともない。
問題は脳なのだ。脳が疲れる→身体の適正
な動きの不能をもたらす。
そのために、休憩が必要だが、休憩も長く
取り過ぎるとかえって疲労度が増す。
これは徒歩による行軍などでも同じ現象
が起きる。

飛行士と同じで、二輪乗りは乗った時間
と距離が決定打というものがあるのだが、
ただ距離かせぎやどれほどの年月を乗った
かよりも「中身の密度」がとても重要に
なる。乗れる乗れないき年齢は関係ない
という現象が起きるのはそのことを証明
している。
16才のレーシングライダーが、二輪歴
30年の人間よりもはるかに乗れている
現象などはごく普通に世の中にある。
オートバイでは年齢や年月は関係ない。
まして免許の種類などは、乗り師の腕
とは一切無縁だ。勘違いマウント人間
は非常に世間に多いようだが、まず
そうした有象無象の者たちに乗れる
人間はいない。乗れる人間は他者の
駄目な部分は見切れるので危険性やネガ
部分のカラクリの指摘はしても、マウン
トなどは取らない。自分よりできない
人間にマウントを取ってもしかたないし
意味ないからだ。自分より技術や知見が
低い者をできる人間は指摘はしても相手
にはしない。
これは現象として人の世に存在している
ようだ。できない人間ほど、できる人
に執拗に嚙みついたりつきまとったり
揶揄中傷誹謗を連ねる事で中身のない
自分の存在を自己確認したがるようだ。

かつて我々が「弾丸」と称した乗り方は、
なにも高速度走行をすることではない。
無給油走行のような極度に休憩を取らない
継続走行の事を従前は「弾丸」と指した。
延々と一直線に走り続ける事だ。アメリカ
やドイツのように。
なんだか最近ではアメリカ合衆国の圧力
によって大型二輪車が簡易に普及したせい
か、言葉の意味も変わって来たようだ。
最近の「弾丸」とは、高速度を出して距離
を乗ることを指すらしい。
かつての「弾丸」はせいぜい150km/hとい
うあまり高くない速度で延々と巡行する事
を指していた。ドイツアウトバーンの
標準巡行速度域でずっと延々と一直線を
走るのだ。それが「弾丸」だった。
今は簡単に250km/hオーバー、300km/hも
出る車両が金を出せば買える時代なので、
いろいろな意味合いが変化してきている。
乗り方や考え方、言葉の用法まで違って
来ている。乗りこなせない車が誰にでも
手に入る時代でもある。

しかし、最新の本間利彦ライディングCh
で本間氏が元モリワキ→ホンダワークスの
八代氏の最新のコメントを動画サイトで
紹介していたことは、真実の今の車両を
取り巻く現象として存在する。
八代氏は、最新のホンダのオートバイに
乗ってみて「久しぶりに本気で腹が立った」
というのだ。
今のオートバイは駄目なのだ。
人間不在で作っているから。
これは、もうどうしようもない事実として
存在している。
開発をする人間をすべてクビにして、コンピ
ュータのデータのみで車作りができると
妄想することに日本のメーカーすべてが
シフトチェンジしたからだ。
良い車など出来る訳がない。その道理が
存在していないのだ。
テストライダーではない私でさえ、最新の
現代二輪を何種類か走行させてみて、即
感知する。
くっそくだらない車作りをしている事と、
安全安心を謳いながら、実は非常に危険
な車になっている事実を。これは好みの
問題ではなく、物理的な問題として現実
に存在している。
ABSやトラコンが安全性に寄与するかとか
勘違いしている大まぬけな規制制度忖度の
車作りでは、良い物は絶対に誕生しない。
この先、日本の自動車産業はどんどん
直滑降のような斜陽の一途を辿る事だろう。
私は現在、二輪車は33年前、24年前、21年
前の車両に乗っている。まだ車が車であっ
た頃の、「人が車作り」をしていた時代の
車両だ。
かつて、ベンツ500E乗り(ベンツ4台所有)
のイトコが私の街乗りプリウスを興味から
運転してみた。
コメントは、「移動コミューターとしては
優れているのかもしれないが、ひとつも
面白みが存在しない金属物体」と言った。
私はそれと同じ感想を現代の二輪車に感じ
ている。
というか、私一個人が感じる感じない関係
なく、くそつまらなく、人間の状況察知
対処能力を削ぐような危険な乗り物である
ことは事実だろう。感想など関係ない。
安全を口にする虚構が大きく内在している
のが現代車だ。
そりゃあ、八代さんじゃないけど、腹も立つ
だろう。駄目なもんは駄目なんだから。
タイヤの接地感を得る事とナチュラルステア
を阻害する二輪車が良い二輪車である道理
は、時代に関係なく、いつの時代でもこの世
には存在しないのだ。

日本の工業界、とりわけ自動車産業界は
とてつもなく変な方向に今向かっている。
私は今年で丁度四半世紀、自動車工業界
にプロとして身を置いて、今非常に危う
いものを日本の自動車産業に感じている。
そして、自動車メーカーの企業的な変質
というのは、内部にいれば具に判る。
企業体自体がてんで別物になって来てい
る。これはうちだけでなく産業界全般と
して。
日本の産業界、特に自動車工業自体の
未来は残念ながら、非常に昏い。
 

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