「東京女子医科大学は一体、何を目指しているのか。そして医療機関としてどのような社会的責任を果たすのか、見えてきません」
労働法の第一人者である、早稲田大学法学学術院の島田陽一教授は、筆者の取材に対し、このように疑問を投げかけた。島田教授は厚生労働省の「医師の働き方改革の推進に関する検討会」の構成員も務める。
2024年から大学病院を含む勤務医の長時間労働に上限規制が適用される。今年5月には改正医療法が成立し、医療機関に対し勤務医の健康確保を図るよう具体的な措置を取ることが義務づけられた。いわゆる「医師の働き方改革」の第一歩である。
名門として知られる東京女子医大の付属病院で、医師が一斉に退職した結果、一部の診療科で外来や入院の中止などの混乱が起きた。原因となったのは、医師が所定労働時間内に、ほかの病院で働くことを認めた「研究日」の廃止だった。
東京女子医大は、「医師の働き方改革」を受けた措置だと学内で説明しているが、医師たちは疑問を抱いている。
看護師より医者の給与が低い
「看護師から言われたことがあります。そんな給料でなぜ医者やっているんですかと。給与明細をお見せしましょうか」
苦笑いしながら、若手医師はスマートフォンを取り出して、給与明細の画面を見せてくれた。「本給 約20万円」。これに諸手当がついても、額面で30万円前後。そこから社会保険などが引かれる。ちなみに、同世代の看護師は本給27万円程度だという。
個人の特定につながるために詳細は明かせないが、この若手医師は初期研修を終えてある程度の経験を積んでおり、東京・新宿区にある「本院」と呼ばれる付属病院では、外来を担当している。
若手医師によると、「本院」の近所に住む暗黙のルールがあり、経済的にも負担が大きいという。
「オンコール当番で夜間に呼び出しがあると、30分以内に駆けつけるのが原則です。この担当になる医師の多くは、本院の徒歩圏内に住んでいますね。あの周辺は家賃の相場が高いエリアなので、私の場合は1カ月分の家賃で本給の大半が消えてしまいます」
東京地方医療労働組合連合会の調査によると、35歳医師の賃金は、東京女子医大:30万円、杏林大:34.2万円、東京医大:35.6万円。東京女子医大は私立の大学病院のなかで最低ランクだった。一般病院も合わせた賃金の平均は約50万円、最大で61万円の一般病院もある。
私立の大学病院の大半は、一般病院よりも大幅に基本給が低いので、東京女子医大はさまざまな病院の中で最も低い水準だといえる。
私立大学の付属病院ではこうした給与格差を埋めるため、週1回程度、ほかの病院で「外勤」と呼ばれるアルバイトが認められている。
東京女子医大でも、週1回の「研究日」に外勤することが、長年の慣行となっていた。付属病院での所定労働時間は「週39時間」。ただし、研究日の7時間は外勤でほかの病院で働くので、実際は「週32時間」勤務だった。これに残業や当直などが加わってくる。
研究日の廃止と年中無休プラン
2019年1月、東京女子医大は、勤務する医師に対して説明会を開催した。そこで国が進める「医師の働き方改革」を受けて労務管理を見直すとして、「研究日」の廃止を医師に通告したのである。そして、「研究日」に代えて、2019年4月から「臨床医師研究日休暇」を新たに就業規則に加え、2021年3月末までの2年間は無給を猶予するとした。
大学側によると、これまで毎週7時間の「研究日」は労働時間として給与に反映されていたが、「臨床医師研究日休暇」では無給扱い、すなわち給与の対象外となる。本来ならば、毎週7時間分が減給されるはずだが、「経過措置」として2年間は猶予することにしたという。医師にとって2年間は現状維持となる。
実はこの制度変更よりも、医師たちの関心を集めたのは、同時期に大学側から示された「365日年中無休プラン」構想だったという。もし、実現すると医師の労働環境が激変する可能性が高いからだ。
東京女子医大の中堅医師は、医療収入を増加させる方法として唐突に打ち出された計画だったと話す。
「病院の収益を上げるために、『他の病院と同じことをやっていてはダメ』『休んでいる時に働けば利益が上がる』と、岩本絹子理事長(当時は副理事長)が言い出しました。これに賛同した田邉一成病院長が提示したのが、〝土日の診療=年中無休プラン〟です。もし、土日も診療することになると、私たちの働く時間がより長くなるのは確実です。だから研究日の廃止も、年中無休プランのためだろうと噂されました」
「年中無休プラン」は、医師や看護師など職員の猛反対を受けて、あえなく撤回された。
一方、今年2月に大学側は説明会を開いて、「臨床医師研究日休暇」を3月末で廃止、すべての医師は付属病院で「週39時間」の労働義務を負うと通告した。これで、長年続いてきた「研究日」(2019年からは「臨床医師研究日休暇」)は、完全に廃止となる。大学側のこうした姿勢に反発して、多くの医師が東京女子医大を去る決断をした。
「私も含めて、医師たちは油断していました。年中無休プランが撤回されたので、研究日の廃止も結局は立ち消えになるだろう、と思ってしまったのです」(前出の中堅医師)
「研究日」が廃止されると、収入を維持したい医師は7時間多く付属病院で働き、「週39時間」勤務で外勤を継続しなければならない。
「週32時間」勤務のまま外勤を続ける選択もできるが、「給与は相応になる」と大学側は説明した。
「相応」とはどの程度なのか? 医師らの質問に対して、大学側は「本給が2割下がる」と口頭で答えたという。そこで複数の医師がメールなどで、文書による明示を求めたところ、明確な返答がなかった。
東京女子医大の広報室は取材に対して、「意図的に回答しなかったのではなく、返信漏れなどの不手際があったのでは」と述べている。
大学側は「不利益変更であっても合理的」
労働時間の増加や賃金の減額など、労働者にとって明らかにマイナスとなる就業規則の変更を「不利益変更」という。労働契約法の第9条では、労働者と合意なく「不利益変更」することは禁止されているが、例外規定もある。
今年4月20日、東京女子医大の各診療科から代表を集めて説明会が行われた。入手した録音データには、経営側の労務担当弁護士が、「不利益変更」について言及する場面が記録されていた。
ある診療科の医師
「研究日の慣例を変えるのは、やはり私たちの感覚からすると労働条件の不利益変更だと思います。詳しく説明してほしい」
労務担当弁護士
「おっしゃる通り、労働条件の不利益変更です。ただし、労働契約法10条に〝変更の合理性〟があればOKだという規定がある。
ほかの医療従事者(筆者注:看護師、検査技師など)に研究日はないので、公平性、公正性という観点から変更の必要性はある。
変更内容の相当性としては、2年間の猶予措置があって、その間は二重に(筆者注:外勤先と東京女子医大から)報酬を取得できる状態が続いていた。そういった緩和措置もあり、変更の合理性はあると判断しています」
大学側の労務担当弁護士は、「研究日」の廃止は不利益変更だと明確に認めた一方で、変更の合理性があるので、手続きに問題はないという認識を示した。
医師の働き方改革に逆行している
早稲田大学の島田陽一教授に、東京女子医大の労務担当弁護士による不利益変更であっても合理性がある、という主張について見解を尋ねた。
「今回のケースが、不利益変更であることは間違いありません。労働契約法の第9条と10条で、合理性があれば不利益変更でも従わなければならない、というルールがある。裁判官が合理性をどのように判断するかというと、労働者である医師の受ける不利益の程度と、変更の必要性のバランス。そして変更内容が相当であるかなど、総合的に判断します」
以下、Q&A方式でポイントを紹介する。
Q:「研究日」が医師だけに認められている状態は、看護師や検査技師などとの公平性を欠くので変更(廃止)する必要性がある、という主張については?
A:「公平性が決定的な理由には、ならないと思います。医師は、看護職や技術職と仕事の内容が違いますので、職種別の対応があるのが自然です。不公平感と考える人がいても、それだけで労働条件を変えられる根拠ではない」
Q:では「研究日」の外勤という慣行は、変更せずに継続すべき?
A:「いえ、そうでありません。一般企業でも、兼業を認めるようになってきましたが、それは勤務時間外です。外勤も兼業の一つと考えると、東京女子医大が勤務時間と外勤を分けて整理したい、というのは理解できます」
Q:「研究日」を廃止した東京女子医大の判断は正しい?
A:「労働時間が増えるとか、研究日の廃止に応じて給与を減らすのは適切とは思えない。日本の社会は段階的に労働時間を減らしてきましたが、企業はそれに応じて賃金を減らしたわけではないからです。
慣行として研究日の外勤を認めてきた前提になると、従来の基本給は研究日を除いた、週32時間でしょう。そのうえで外勤を認めるという対応もあると考えます」
Q:「医師の働き方改革」の一環として研究日を廃止したと説明していることに、問題は?
「医師の働き方改革の目的は、医師の健康確保と医療提供体制の両立です。
長時間労働で手術や診療を行うのは、(医師にとって)非常に危険だとわかっているからです。それに、新しく医師になっている4割近くが女性であることを考えると、東京女子医大は新しい病院の方向性を示す役割があるでしょう。
しかしこれまでの動きからは、一体、何を目指しているのか、医療機関としてどのような社会的責任を果たすのか、見えてきません。
医師の働き方改革は、経営側が一方的に時短を進めるのではなくて、医療者と一緒にPDCAサイクル(※)を回していくべきです。
経営陣と現場の医師が対立関係になっている状態で、良い病院が作れるはずがない。東京女子医大のやり方は、時代の流れに逆行していると私は思います」
(※PDCAサイクル=Plan、Do、Check、Actを繰り返すことで、業務内容の改善点を特定して変更するモデル)
業績は82億円の黒字決算
今年6月、東京女子医大の2020年度決算が公表された。約82億円の黒字。これは過去最高益となる。ただし、3つの付属病院の医療収入は2019年度より78億円少ない、742億円。それでも黒字決算となったのは、新型コロナ関連の空床確保料などで、多額の補助金が交付されたことが大きい。
「去年夏のボーナスは、新型コロナの影響で経営が厳しいので支給しないと説明されました。報道で問題となって、結局1カ月分が支給されましたが、例年よりも減額されています。補助金で黒字というなら、現場スタッフに還元されるべきでは、と思ってしまいますね」(本院・30代医師)
現在、東京女子医大では、新宿のキャンパス全体を再整備する計画を進めている。2028年までに、老朽化した病棟や校舎を段階的に建て替えていく予定で、総工費は約1000億円。昨年は新校舎棟2棟を竣工させた。さらに今年度は、東京・荒川区にある分院の東医療センターを、足立区に新築して移転させる。
経営が厳しいという理由で人件費を抑制する一方で、次々と大型施設の建て替えを続けている方針に、疑問を抱く医師は少なくない。
医師の働き方改革が法制化され、大学病院の医師にも新しい労働スタイルが必要になっている。だが、東京女子医大の「研究日」の廃止は、労働時間の増加や収入の大幅な減少の可能性があるなど、かえって医師の負担を増加させる要素が大きい。
こうした疑問を東京女子医大に尋ねたところ、広報室は次のように回答した。
「今回の改正は、一面から見れば 7 時間の労働時間の増加と見えますが、他方から見れば週 39 時間と計上されていた労働時間が週 32 時間という実態を反映した労働時間数となり、院内での年間 360 時間余りの『時短』が実現した形になったことも事実です。(中略)ただし、そうは言っても個々の医師にとっての実感は、週 7 時間の所定労働時間の増加であることは事実です。そのため、この 2 年間の猶予措置を講じてきました』
新制度への移行は「留保」状態
今年4月以降、東京女子医大の医師は、「週39時間」と「週32時間」のどちらかの労働時間を選択することになった。しかし、現時点(6/25現在)で基本給は、どちらも以前と同じだという。複数の関係者によると、新制度への移行は「留保」されているというのだ。
批判を受けての措置なのか、それとも準備不足なのか。整合性を欠いた対応に、勤務する医師の間に新たな不信感が募っている。
そもそも「研究日」に外勤をしなければならないほど、医師の給与が低いことが根本的な原因だが、大学側に改革する動きは何も見えていない。
優れた医師が集結して、高度な医療を提供してきた東京女子医大。その伝統が、これからも維持できるのか、危ぶまれている。