江戸時代

第二次長州征伐

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「第一次長州征伐」(だいいちじちょうしゅうせいばつ)ののち、長州藩では、倒幕を掲げる「改革派」が主流となり、これを知った幕府は藩主に江戸に出て説明するよう言い渡したり、詰問団を広島に送ったりなどをしましたが、長州側ははぐらかすばかりでした。これにより、再び幕府は長州へと兵を送り、1866年(慶応2年)、「第二次長州征伐」が勃発。幕府軍は約15万人、長州軍は約1万人と、人数では圧倒的に長州軍が不利な状況でした。
しかし、薩長同盟を締結した薩摩藩から西洋式の軍備や軍制、戦術を取り入れてきた長州軍は各所で健闘。そして、もっとも大きな戦いとなった「小倉口の戦い」のさなか、大坂城に出陣中の14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)が亡くなり、これをきっかけにして幕府軍は総崩れになってしまいます。
最終的には休戦となりましたが、幕府軍の大敗は明白で、幕府の求心力はますます低下していきました。

幕府と長州藩の対立

改革派の中心人物だった「高杉晋作」(たかすぎしんさく)らが、保守派打倒のために起こしたクーデター「功山寺挙兵」によって、再び「改革派」が実権を握ったことを知った幕府は、長州藩主父子に江戸に出てくるよう、改めて言い渡します。しかし、長州藩は倒幕に向けた軍備・軍制改革を進めており、この命令に応じませんでした。

幕府は、命令に従わない長州藩を厳しく問い詰めるため、詰問使を広島に送り込みます。これに対し長州藩は、交渉団を送って一旦対応はするものの、回答をはぐらかすなどして、時間稼ぎを続けました。

このような状況が1年以上続き、ついにしびれをきらした幕府は、老中の「小笠原長行」(おがさわらながみち)を送り込み、長州藩主の出頭を命じます。

しかし、藩主は病気であるとして、幕府へ偽の家老を送り込んできたことから、長州藩に対し、10万石削減と藩主父子の蟄居の命を下しました。しかし、この命に対しても長州藩は従うことなく、広島に送りこんでいた交渉団も撤退させてしまいます。

このため、幕府は朝廷からの許しを得て、再び長州藩の討伐「第二次長州征伐」に向かったのです。

開戦

幕府は、第二次長州征伐において、まずは外様大名に戦わせて長州藩を屈服させると同時に外様大名の力も削ぎ、長州征伐が片付いたあとには、幕府にとって邪魔な藩も順次平伏させようという思惑もあったことから、尾張藩主「徳川茂徳」(とくがわもちなが)を総督とし、薩摩藩を含む西国の諸藩に出兵命令を出しました。

しかし、薩摩藩と長州藩はすでに薩長同盟を結んでいたため、薩摩藩は出兵を拒否。それでも、総勢15万人の軍勢となりました。

幕府軍は、瀬戸内海から侵攻する「大島口」(周防大島)に2万人、山陽道(安芸広島藩側)から侵攻する「芸州口」に5万人、関門海峡より侵攻する「小倉口」に5万人、山陰道(島根県・浜田藩)から侵攻する「石州口」に3万人を配備し、4方面から一気に攻め込む作戦をたて、長州征伐に乗り出します。作戦では、長州藩の本拠である萩を攻撃する「萩口」も入っていましたが、薩摩藩が参加を拒否したことにより萩口はなくなりました。

これに対し長州藩は、大島口に500人、芸州口に2,000人、小倉口に1,000人、石州口に1,000人と、兵力では圧倒的不利な状況で迎え撃ちます。

そして、1866年(慶応2年)6月7日。ついに小倉口総督・小笠原長行が指揮する「長崎丸」から大島口へ砲撃されたことによって第二次長州征伐が開戦し、13日には芸州口、16日に石州口、17日に小倉口と、幕府軍対長州藩の戦いがそれぞれの場所で始まったのです。

第二次長州征伐の関係図

第二次長州征伐の関係図

大島口の戦い

最初に戦いが始まった大島口の戦いでは、長州藩領である周防大島が戦場となりました。周防大島は、広島や四国の海から攻める際、本土を守る壁のような役割をする位置にあったことから、幕府軍はまずここを占領して、長州制圧の足掛かりにするつもりでした。

長州藩においては、大島を占領されてもさほどの損害はないと判断し、大島在住の兵力500人で防衛に当たります。

幕府側は、松山藩、宇和島藩徳島藩今治藩が参戦するはずでしたが、財政難や幕府への不信感などから宇和島藩、徳島藩、今治藩の3藩は出兵せず、実際に兵を出したのは松山藩のみとなりました。

しかし、幕府海軍の軍艦が大島の沿岸などに砲撃を加えた他、幕府陸軍の洋式歩兵隊と松山藩の兵が地元住民に乱暴狼藉を加えるなどの奇襲をかけたことにより、幕府軍が勝利します。

大島口の戦い

大島口の戦い

大島口を重視していなかった長州藩でしたが、大島の惨状を聞き付けた高杉晋作と第二奇兵隊、浩武隊が大島口へ反撃に向かい、夜陰にまぎれて幕府艦隊に近づき、「丙寅丸」(へいいんまる)で激しく砲撃して奇襲攻撃を開始。

沖に停泊していた幕府艦隊が長州藩軍の動きに応戦し、戦闘は一進一退の攻防が続いたものの、激戦の末、長州藩が勝利し、大島の奪還に成功しました。

芸洲口の戦い

芸州口の戦いでは、長州藩(山口県)との国境にある大竹が戦いの最前線となりました。

広島城に集結した幕府軍は、紀州藩主「徳川茂承」(とくがわもちつぐ)を総督とし、近代装備と洋式訓練を受けた幕府陸兵や、彦根藩、紀伊藩、高田藩、与板藩など、約3万人の軍勢が配備されます。

一方、長州藩は、岩国藩の「吉川経幹」(きっかわつねまさ)を総督とする岩国兵や遊撃隊、御楯隊、干城隊などが集まり、総勢1,000人が防備にあたりました。

芸洲口の戦い

芸洲口の戦い

芸州口の戦いは、開戦の前夜、長州軍が広島藩領に侵入し、大竹の北側にある鍋倉山に陣取って(幕府軍の後ろ側)、鍋倉山から井伊家の軍勢へ砲撃をしたことにより開戦します。

長州藩の数は少なかったものの、山を駆け下りながらゲリラ戦を展開し、最新鋭であるフランスのミニエー銃で彦根軍を一斉射撃。さらに小瀬川を渡ろうとする彦根軍を、川岸から集中攻撃し、長州藩側にある瀬田八幡宮山から大砲を浴びせました。

日本刀甲冑(鎧兜)など旧式の装備だった彦根藩・井伊隊は、予想外の奇襲攻撃とミニエー銃や砲弾の攻撃によって大混乱となり、そのまま退却。それを知った高田藩・榊原隊や他の藩も戦うことなく撤退し、長州藩が幕府軍を圧倒したのです。

この先鋒部隊の敗走を知った幕府軍は、征長総督直属の幕府正規軍を戦線に投入し、広島領内に布陣する長州藩軍を攻撃しましたが、逆に激しい猛撃にさらされ、幕府正規軍も敗走します。

その後、幕府軍は、西洋式の装備を持つ紀州藩を投入し、大野四十八坂で再び戦闘となりましたが、一進一退のこう着状態が続いたことから、幕府側が勝海舟を派遣し、宮島の大願寺において、長州藩と交渉を行なったことにより、芸州口の戦いは引き分けに終わりました。

小倉口の戦い

小倉口の戦いは、小倉藩領だった赤坂(現在の北九州市)が激戦地となりました。

幕府側は、小倉藩の小笠原長行を総督として、小倉藩、熊本藩久留米藩、柳川藩など、九州勢2万人の兵力が小倉城に集結。

一方、長州藩側は、長州藩にとって馬関(下関)が軍事経済の中心であったことから、この小倉口が生命線と考え、指揮官には高杉晋作、参謀には「三好軍太郎」(みよしぐんたろう)、軍監に「山県有朋」(やまがたありとも)など軍略の才に長ける人材を投入します。さらに、山県有朋率いる最強部隊・奇兵隊を下関に布陣させました。

挑発する書状

挑発する書状

小倉口の戦いは、戦闘前、高杉晋作が幕府軍に対し「いつでも長州に攻めて来い」と挑発する書状を送ったことから始まります。この書状を見た幕府軍は、長州軍は藩境を固めて、攻めてこないだろうと思い込みました。

長州藩はその隙に付け入り、小倉藩領への上陸作戦を決行。関門海峡を渡って九州へ上陸し、門司を占領します。さらには、幕府軍が馬関の渡航用に用意していた船の大半を焼き払い、幕府軍の渡海を阻止しました。

虚をつかれた幕府軍は、当時東洋随一と言われた軍艦「富士山丸」を小倉に回航するよう海軍に要請し、馬関を一挙に陥れる作戦を立てます。

一方、その情報を得た長州藩は、石炭運搬船に偽装した3隻の小船に大砲を積み、それとなく「富士山丸」に近付いて機関部めがけて3発の砲弾を撃ち込みます。突然の砲撃を受けた幕府軍は慌てふためき、幕府軍の作戦は失敗に終わりました。

長州藩は再び九州へ兵を進め、小倉藩領の大里を攻略し、本格的に小倉城への総攻撃が開始されます。しかし、小倉城を守るのは、当時の最強武器アームストロング砲やミニエー銃を有する九州最強の肥後熊本軍だったこともあり、長州軍は大苦戦。

ぎりぎりの死闘が続く中、大坂城内で出陣中だった将軍・徳川家茂が急死したという訃報が届き、長州藩に神風が吹きます。

この報告に勝機のないことを悟った総督の小笠原長行は、本営から脱出して逃げるように大坂へと向かい、総督を失った幕府軍は統率が取れなくなり、諸藩は次々と帰藩。唯一、長州藩に一部藩領を占拠されていた小倉藩軍だけが戦っていたものの、これ以上戦うのは不可能と悟り、自ら小倉城に火を放ち、長州藩が勝利する形で幕を閉じました。

石洲口の戦い

石州口の戦いでは、浜田藩領の益田(現在の島根県益田市)が戦場となりました。

幕府軍は、先鋒部隊に津和野藩・浜田藩、その他に紀州藩、福山藩松江藩鳥取藩など、約3万の兵員を投入し、萬福寺医光寺に布陣します。

これに対して、軍略の天才「大村益次郎」(おおむらますじろう)が率いる長州藩は、清末藩主・毛利元純を大将とし、南園隊、精鋭隊、育英隊など1,000人の兵員で石州口防衛にあたりました。

幕府軍の先鋒部隊を任されていた津和野藩は、長州藩とは親交があったことから内応しており、長州藩が藩領を通過するのを黙認します。大村益次郎は1,000人を率いて、陸海両路から一気に浜田藩領内へと進撃し、益田城の郊外に着陣しました。

兵力では、明らかに長州軍が不利という状況の中、軍師大村益次郎は、敵陣の3方向を攻囲しつつも敵の突撃路を開けておき、そこに敵が突撃してきたところを一斉射撃で潰滅させるという戦術をたてます。

石州口の戦い

石州口の戦い

この巧みな戦術により、福山藩・浜田藩軍は潰滅。益田城を陥落させ、長州軍はさらに浜田城下に迫りました。

浜田藩は、幕府から援軍の見込みがないことが分かると、和睦の使者を長州軍に送って講和会議を進めようとしますが、この会合談判中に浜田藩側が、城に火を放ち、藩主以下藩士達が松江藩へと逃亡したことにより、石州口の戦いは、長州藩の圧倒的勝利に終わりました。

第二次長州征伐の結末

大坂城で病没した将軍・徳川家茂の喪に服すことを理由に、2ヵ月あまりにわたって繰り広げられた第二次長州征伐も、最終的には講和が結ばれて休戦に持ち込まれましたが、第二次長州征伐は、事実上幕府の大敗という結果に終わり、この幕府の求心力低下が日本中に知れ渡ることとなりました。

その後、長州藩や薩摩藩を筆頭に、国内の諸勢力が次々に反幕府に転じ、いよいよ国内は倒幕一色となっていったのです。

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