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布袋

作者:蚪蝌

母が85歳で死んだという急な報せを受けて,私は7月の終わりに田舎の実家へ戻った。ひっそりとした葬式・通夜を一通り終えた後,母がずっと営んでいた小さな薬屋の戸に「店主逝去につき閉店します」と張り紙をした。

翌日の昼,母の生活していた狭い部屋で一人で茶を淹れていると,玄関の呼び鈴が鳴った。少し痩せた30くらいの男性だった。幼い頃からこの小さな町で育ち,今は会社に勤めているのだという。私の母親が死んだと聞いてやって来たらしいが,ならばどうして葬儀に来なかったのだろう,何か事情があったのか,などと考えながら部屋に通すと,男は母の写真の前で手を合わせた後,話したいことがありますと言って小さな椅子に腰かけた。男は私の出した茶を一口飲んで,一息ついてから私と目を合わせずに話し始めた。


私は母が病気で,ずっと前に夫を亡くした女性が一人で経営している薬屋に小さい頃からよく通っていました。その人は私の名前を知りませんでしたが,何度も通ううちに私の顔を見るとすぐに薬を整えてくれるようになりました。

中学生になったある日,私は学校帰りに寄り道をしているときに坂道の階段から転げ落ちて右足を痛めました。捻挫だろうか,と思って痛みをこらえてどうにか立ち上がると,私は例の薬屋が近くにあることを思い出し,湿布か何かを貰おうと思って,右足を引きずり手を握りしめて痛みに耐えながらそこへ向かったのです。

その人はいつも通り勘定場の向こうに座っていました。私は今そこで転んだから湿布を下さいと頼みましたが,お金は持っていないと言うとこう返されました。

「転んだくらいで湿布なんか貼る必要はないよ。大体お前はどうやってここまで歩いてきたんだね,それくらいなら放っておいてもすぐ直るよ」

そのとき,勘定台から一枚の五百円玉が転がり落ちました。私は―


―男は一口茶をすすって,また目を落として話し出した。


私は咄嗟に足を出して,その五百円玉を踏みつけようとしました。利き足の右足を出して。激痛が走りました。私が顔をゆがめると,その人は私を鋭い目で睨みました。

「あんた…まさかお前だったのかね。これまで何度も勘定が合わないことがあったのは,全部お前が盗っていたからだったのかね」

私は即座に否定しました。しかし信じてはもらえませんでした。

「帰りな。盗人に渡す湿布は無いし,盗人の家族に渡す薬も無い」

いくら違うと言っても聞き入れてもらえず,私は仕方なくその店を出たのです。

袖を噛んで右足の痛みをこらえながら,左足でけんけんをするようにして私はどうにか家に帰りました。


―そこで男は私と目が合った。その目が私に何を訴えかけているのか,私にはまだ分からなかった。


足の骨に―ヒビが入っていました。捻挫じゃなかったんです。病院で足に包帯を巻かれて,松葉杖を渡されました。私は痛み止めを買いに,また例の薬屋に向かったのです。

その人はその日も,いつも通り座っていましたが,松葉杖をつく私を見ると驚いた顔をしました。

「お前…その足はどうしたんだね」

私が実は骨折していたと答えると,その人は申し訳ないと言って頭を下げました。

「この間は冷たいことを言ってすまなかったよ。金を盗っていたのも,お前さんではなかったのかね」

私がうなずくと,その人は「疑って悪かった」と重ね重ね謝りました。


私は安くしてもらった痛み止めを買って家に帰ると,部屋の机の引き出しを開けました。

たくさんの硬貨。ほとんどが十円玉で,あとは五十円玉が何枚か。

全て私が,薬屋で踏みつけたもの…。


―男はまた目を落とした後,鞄から布袋を取り出して私に渡した。中にはたくさんの十円玉と一枚の封筒が入っていた。封筒には香典と書かれていた。私は呆気に取られた。

「あなたは…なぜ,私の母が死んだと知って,ここに来たのですか」

と尋ねると,男は

「ずっと,謝りたかったんです」

と答えた。

私は,ついぞ本人に罪を告白することができなかった馬鹿者,現金を手渡してきた愚か者に対して静かに言った。

「あなたから受け取れるものは何もありません。お引き取り下さい」

男はどうかこれを受け取って下さいと言って私に布袋を押し付けようとしたが,私は受け取らなかった。男は泣きそうになりながらすみませんと言い,布袋を置いて逃げるように走って家を出て行った。私はその布袋を窓から投げ捨てようとしたが,思いとどまった。あれは勇気の無い彼にできる精一杯のことだったのだ,と。


母の写真の前には,今も小さな布袋が置いてある。

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