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LGBT法案をめぐる攻防が炙り出した「ねじれ」

ジェンダー・アイデンティティの尊重と女性の間の緊張感

千田有紀 武蔵大学教授(社会学)

男女の2分法の基準をアイデンティティに移行させると

 「性別変更に手術要件がなくなれば、ペニスのある女性が当たり前に存在するようになります。制度を変えるということはそういうことです。そうなれば、そういう人たちが、女性用のあらゆるスペースを利用することは、なんの問題もなくなります。風呂だけをあたしが問題にしないのは、そういう理由です」と尾崎日菜子氏はツイートしている。

 尾崎氏はトランスジェンダーの当事者である。「男女別トイレや銭湯や、「男性限定」や「女性限定」のあらゆる場所」の使用についてのツイートへのリプライである以下の

うひょ〜!そんなにハードル高いの?
あたしとか、チンコまたにはさんで、「ちーっす」とかいって、女風呂はいってんのやけど、意識が低すぎ?
あと、急いでるときのトイレは男。立ちションの方が楽やからね。
なんか、そういうジグザグなジェンダーをXって使ってる。

 というツイートが知られている。ペニスをつけたまま女風呂に入っていることを、あとで、嘘だとも事実だとも弁明している。このツイートは物議をかもし、尾崎氏のこの発言を擁護する清水晶子東大教授による論文が、雑誌「思想」に掲載されもした。急いでいるときに使用するトイレは男であると、Xジェンダーとして男性としても女性としても男女両方の施設に入ることが可能になっている点が、個人的には、トランスジェンダーをめぐる新しい展開であると思われる。

 日本学術会議の提言の立法事実として挙げられる論文のひとつは、この尾崎日菜子氏のものである。氏は、「『エイリアンの着ぐるみ』」と題するエッセイ(「女たちの21世紀」No.98所収)で、「性別適合手術を受けていない人やパス度が低い人(注:外見などが望む性別と思われないひと)」の女子トイレからの排除を問題としている。またほかの論者は、「主に女子大学、女子トイレ、女湯、女子スポーツ」といった「女性専有スペース」からのトランスジェンダーの「排除」を問題としているが、これも立法事実とされている。

 国際的な基準から言えば、尾崎氏の言うことは的を射ている。ジェンダー・アイデンティティの尊重をするということは、男女の2分法の基準を「身体」から「アイデンティティ」へと移行させることになるのだ。

 男女の2分法の基準をアイデンティティに移行させた結果として、性別の区切りは曖昧化されていく場合もある。例えば、トイレ、更衣室、シャワー室などのユニセックス化である。ジェンダー・アイデンティティと表現の尊重を立法化したカナダ出身のトランスアクティヴィストの女性に、「ユニセックスのシャワー室で、男も女もトランスも、みんながお互いの裸体を見るのは対等。女性だけが見られるわけではない。それになんの問題があるの?」と言われたこともある。かつて山谷議員らが行っていたジェンダー・フリーバッシングの際には、「男女同室着替え」などの実際には存在しないデマが煽情的に利用されてきた。しかしいまや、「男女同室着替え」はデマではない。諸外国では事実であり、むしろ先進的な取り組みと目されている。

 ときにLGBT法案を擁護する側が、ぎゃくにトランスフォビック(トランスジェンダーに対する非寛容)なロジックを使用してしまうことがある。以下、新聞から、ある弁護士の解説を抜き出してみよう(「トランスジェンダーへの誤った認識 自民党勉強会でも深掘り」毎日新聞2021年5月9日)。

 女性用のトイレは個室であり、人前で体を露出することはないのだが、よく「他の利用者が不安を感じる」と指摘されがちだ。これに対し、弁護士は「他の利用者が抱く不安感だけでは、利用を制限する理由になりません」と説明する。

 利用者が全裸になる銭湯などの公共施設はどうか。弁護士は「利用者全員が全裸になるという施設の特徴を考えると、手術の有無や身体的な性差によって異なる取り扱いをすることは合理的な判断だと考えられます」と解説する。

 男性がトランス女性を装って罪を犯すケースについても、弁護士は疑問を抱いている。男性が性犯罪で逮捕された際に「自分はトランス女性だ」とうそをついても、犯罪に変わりはなく、トランスジェンダーで言い逃れはできない。「トランスジェンダーかどうかは、性別変更の有無やホルモン治療歴などを調べればすぐにわかります。実際に男性が女性のふりをして施設に不法侵入するケースがあったとしても、トランスジェンダーとは切り離して議論すべきです」と指摘する。

 この弁護士の「手術の有無や身体的な性差によって異なる取り扱いをすることは合理的な判断だ」、「トランスジェンダーかどうかは、性別変更の有無やホルモン治療歴などを調べればすぐにわかります」というのは、国際的な基準では明らかに、トランスジェンダー差別である。現在の日本で、「手術の有無や性別変更の有無」で分かるのは、「性同一性障害」と診断され、特例法を使っているか否かだけである。ジェンダー・アイデンティティの尊重とは、原則的に、医師による治療や診断や手術や、性別変更の有無を問うことなく、そのひとのアイデンティティを認めることであり、疑いを表明することがまさに差別そのものとされているのだ。

 「性別適合手術を受けていないひとやパス度の低い人」であっても、ジェンダー・アイデンティティが女であれば、女風呂、トイレを初めとして、「女性用のあらゆるスペースを利用することは、なんの問題もなくなります」ということを、私たちはどう考えるのか。

 医療や司法を経ないジェンダー・アイデンティティの尊重を是とするのであるならば、私は脆弱性をもつトランスジェンダー当事者のみならず、女性も、そして男性も、すべてのひとの安心や安全が守られる施設の作り方や制度のあり方を、考え直す必要があるのではないかと考える。少なくとも現行の制度のままで、「女性用のあらゆるスペース」を開放することはできないと主張する女性たちの意見に、即座に「差別」というラベルを貼ることの是非は、議論されるべき事柄だと思われる。

拡大Neil Anton Dumas / Shutterstock.com

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筆者

千田有紀

千田有紀(せんだ・ゆき) 武蔵大学教授(社会学)

東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(社会学)。東京外国語大学准教授を経て、2008年から現職。著書に『女性学/男性学』(岩波書店)、『日本型近代家族―どこから来て、どこへ行くのか』(勁草書房)。共著に『ジェンダー論をつかむ』(有斐閣)、『上野千鶴子に挑む』(勁草書房)、『離婚後の共同親権とは何か-子どもの視点から考える』(日本評論社)ほか多数。