渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

夜散歩

2021年06月25日 | open
旧三原城内を出てみる。
これは、大手門外の大橋からわくはら川
の下流方向を見た景色。
右側に戦国末期に作られたフンの石垣が
あるのが写っている。
「非業の死」とあるが、石工は皆殺し
された。工事の秘密の口封じの為だ。
武士というのはそういう事を平気でやる。
人殺しなど何とも思わないし、武士以外
の人の命などは虫けら程にも思わない。
そういう人種であるのだ。
武士などを美化してはいけない。
武士を美化するのではなく、また全否定
するのでもなく、武士が達しようとした
精神的領域は何であったのか、作法や身
づくろいや身の処し方の思想性等を紐解
いて
日本人を解明し、この国の未来
の糧とし
て学んだほうがいい。
 
旧山陽道のど真ん中から大手門方面を
見る。信号の向こう側に大手門があった。
そこより先は三原城内。誰でも好き勝手
には通れなかった。


この撮影位置からまっすぐ300m先に城
の本丸があった。


和久原川、涌原川、加羅川などと呼ばれ
る。


枯れ川と呼ばれる程に水量が極端に少な
い川だが、2017年の豪雨災害時には
危険な状態だった。
江戸期、溢水が発生しそうになると川岸
の水門を数カ所開いて東町を水没させる
事で城内を守る仕組みになっていた。
町人街を水没させてでも武家地は守る。
それが武士の発想だ。
そもそも、城下町は江戸もどこもその
ような発想で作られている。
大外の街道の出入り口には門を設置し、
外には被差別地区を設置する。街道沿い
には絶対に設置する。そして、下級官吏
してエタなどの賎民階級を農民や
町人
の監視取締り役にあたらせた。
また、城下に入れば、本丸の御殿近辺は上
級武士団の居住地で固めるが、その
エリア
盾には下級武士の長屋や家屋
を並べる。
その周囲に町人商人街を配し、盾にする。
さらに城下町外の農村には農民反乱を起
こさせない為の監視として横目という
非人
やエタ(カワタ)を複数戸在宅駐屯
させて
農民の百姓たちを監視させた。
広島藩では革田(広島藩はエタという単語
は使わない)たちは屋敷ではなく「小屋」
に住んだ。
一村の狭いエリアで五戸ほどの革田を置
き、死牛馬の処理(江戸期屠殺は禁止。
自然死まで使役させた)、人の処刑と
関連
する処理、人民の捕縛、農民の
監視に
当たらせた。
広島藩には革田の武芸として岩関流
いう専門総合武芸流派も存在した。
絶対に武士
の武芸流派とは交流はし
ない。江戸期には
両階級間での武技の
交流は存在しない。賤民である香具師が
新陰流を継ぐ、一刀流を継ぐなどという
事は日本の歴史開闢以来一度も存在しない。
幕末、幕臣山岡鉄舟は清水の次郎長とは
胸筋を開いた昵懇の仲だった。
だが、ある時、山岡の前で次郎長が縁側に
腰を掛けた。山岡は無言で次郎長を下駄
で蹴り倒
した。武士を前にして賤民が
縁側に腰を
掛けるなどは当時は無礼の
極みだったから
だ。(無宿人、渡世人は
賤民階級として請胸やエタと同じくその
筋の江戸浅草の統括者が統治し、その
差配の支配下にあった)
結局は武士が他の階級の人間と昵懇とは
いえ、そんなもんだ。
長州藩の奇兵隊は農民や賤民までも出自に
関係なく部隊に参加させて編成していた
が、高杉自体はとんでもなく階級差別的
概念を保有していた人物だったし、部隊
編成にも出自による差別性が現出している。
結局は武士の「平等観」などはその程度
の矮小なものでしかなかった。

広島藩領内の農民鎮圧専門の革田部隊の
武芸流派である岩関流には、
小具足
から居相、鎖鎌、棒、手裏剣、捕縛等
まで
持つ総合格闘技だった。
伝書の原本を私は実見した事があるが、
実に体系的に整備された武芸に思えた。
武芸=殺人術であるというのが分かる
ような。
浅野家の下級藩士や上級農民たちが学ん
だ難波一甫流やフセン流とも異なる体系
のように思えた。もろに総合武術。
なぜ岩関流のような武芸流派が存在する
か。
それは農民弾圧の尖兵と
して治安警察の
機動隊のような仕事をさせる為だ。
広島藩においても
大刀は武士しか帯刀でき
なかったので、岩関流は脇差
を使った。
広島藩浅野家の記録では、一揆
農民を藩命
により鎮圧しに行ったが、多勢に無勢、
農民五千人に革田部隊が包囲された。
その時、革田部隊の五十名は
脇差を充分
に駆使して全員が死亡者皆無で帰還した
と藩の記録にある。50人で5000人の包囲
網を突破して生還している。どれだけの
農民を斬り伏せたかは不明だが、相当な
手練れの革田たちが選抜されて鎮圧部隊
に編成されていたことは想像に難くない。
多分、特殊部隊のように、個人武技だけ
でなく部隊としての訓練の練度も高かった
のだろう。
こうした歴史事実を見る時、これまで
学校で習ってきたありきたりの「差別観」
ではない、制度上の差別構造という一面
と、統治者の補完役としての実利側面が
存在することが理解できる。
決してとことん賤民が「差別」によって
支配階級や賤民以外の自分らと同じ被支配
階級から一方的に虐げられて来た存在と
しては江戸期の階級構造は機能していなか
った。むしろ、権力の一翼を担う側面を
賤民たちは有していたという事実がある。
 
城下町の構造も、差別制度も差別構造も
全て武士がひねり出して考えて作り上げ
た事柄だ。
出自差別は制度として人間が作り上げた
制度と概念によって発生したものなの
である。差別は造られた物。
そして、仏教が出自や身体的な事など
あらゆる差別を日本では大きく助長し
た。
部落差別とその制度の完遂は日本の鎌倉
以降のインスタント似非仏教の
存在無く
しては存在できなかった。

医師も産婆も病院も祝詞よみも巫女も禰宜
も火消しも石工も鍛冶屋も歌舞伎役者も
旅役者も竹細工職人も出版版元も水夫も
瀬戸内海沿岸漁労民も町の十手待ちの下っ
引も、他にも実に
くの日本の人々が
賎民(のち
の被差別部落民)であった
事などは教科書では教えない。
咸臨丸を操船したクルーは誰でどの階級で
あったのかなどは学校では教えない。
そして大人たちは、無知な子どもたちに
差別心を植え付ける。無知が無知を再生産
させる。
日本て、そんな国。
しどい国は世界各国沢山あるが、日本も
褒められたもんじゃない。

ただ、日本人は他の国と異なり、一つだ
け良い面もある。
それは、宗教弾圧での一向一揆鎮圧や天草
での虐殺以外は、超大量虐殺をやっていな
い。ポルポトやナチスやソ連のような自国
民大量虐殺事は
していない。天草等は完全
に虐殺だが。
また、秀吉などは、賎民エリアで生まれ
育った
出自を隠すため、陣内に一族数十名
を呼び
つけて皆殺しにしたりした。全て
は自分の出自を
隠蔽する為。
出世した秀吉に褒美でも貰えるのかと喜ん
で遠路はるばる出かけた一族は、おんな
子どもまで陣幕の内で
全員殺された。
繰り返すが武士などはそんな人種だ。
城を作った大工や石工たちも皆殺しに
する。軍事機密の厳守のために全員殺す。
釣り天井もそうだし、三原城築城の職人が
他国で殺害されたのもそうだ。
また、江戸期に三原城統治エリアでは、
新開(しんがい。新たな農耕開発地)を
造るにあたり、どうしても海水をせき
止める必要があったがうまくいかない。
そこで三原城の武士たちは相談して
堤防作業に徴用で従事させた作業員の
人夫のうち、服に継ぎはぎをしている
者を引っ張り出して生き埋めの人柱
とした。その犠牲者の甚五郎という人
の慰霊碑は現在でも残っている。
それを決定したのは構造的には浅野藩主
になるが、その生き埋め案を謀議したの
は三原城の作事方の武士たちだ。
武士とはそういう事をするのである。
秀吉を武士であるとするならば、秀吉も
武士のならいを行使した。人の命などは
虫けらほどもない。武士はそう判断して
それを体現する種族なのだ。
そして、日本国は、その秀吉の家紋を国の
紋章にしている。
パスポートを持っている人は気づいている
だろう。
天皇家の菊紋と秀吉紋が日本のマークだ。
公武合体、といったところか。

だが、武士という階級は昭和23年に完全に
法的制度としても日本から消滅した。
同時に日本からは貴族が制度としても消滅
した。
そうした前時代的な武士=士族を存続させ
る封建制度の残滓、明治新機構の立憲君主
制の下での貴族制度の残滓などは、民主国家
としては消滅させるべきなので、敗戦により
日本から血脈主義による階級制度の法体系
が昭和23年(1948年)以降に完全消滅した
ことは喜ぶべきことなのだ。
 
無知は罪である。
それは、無知は、人々を虐げ不幸にする
源を製造するから。
 

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