佐々木琴子 × 小町娘のレメディオス

乃木坂46, 特集

佐々木琴子 (C) 乃木坂46/3rd YEAR BIRTHDAY LIVE

「眠れる美女」

«名前もない路上で ヒッチハイクしている 膝を抱えて待ってる»  «ここは荒れ果てていて 人の気配はないし 誰もここを通らないや»  «進入禁止だって あらゆるもの拒絶して 追い払ったのは僕だから»  « 誰も迎えに来ない ちゃんと分かってるって だけどもう少し待ってたい»

未来 / Mr.Children

空扉が真っ青な空に浮かんでいる。上空から渡り鳥がやってきて、木々と重なり身づくろいしている。螺旋の階段は深緑の苔に覆われている。アイドルという偶像になった女が暮す架空の箱庭。女は古拙な美と拒絶を抱えている。虚ろな目に舞う砂埃。「名前もない路上」の先に虹は架かっていない。空扉は閉じられたままだ。色を帯びた空も、土も樹木も、甘美を求める妄執が行き着いた幻想であると女は知っている。挫折の許されない美が隘路に遭遇してしまった。まだ、空扉に鍵がかけられていなかった頃、この世界に産み落とされたばかりの少女の眼前には、広大な世界と家郷が建築され、「ただ果てしない未来があってそれを信じてれば何も恐れずにいられた」。(*1)
生きた証を残したい、と語った少女が、”眠れる美女”へと変異した日を鑑賞者である私たちは知らない。擦りむいたままの鑑賞者に自己投影を強いるオーヴァークオリティな美。目の前に横たわった純潔は、過去に失ったモノを、認め難い事実と体験を、喪失と欠落を、叙述させる。回想に耽ける江口老人のように、眠れる美女を眺める。「黒い髪は流れるようにまっすぐ艷やかで、目鼻立ちは人形のそれのように端正だった。ただあまりにも端正過ぎるために、顔全体として眺めると、どことなく現実から乖離したような雰囲気が感じられた。客観的に見れば顔立ちは本来美形であるはずなのに、ただ素直に『美しい』と言い切ってしまうことに、人はなんとなく戸惑いを抱くのだ。何かが-おそらくある種の少女たちが成長期に発散する独特の生硬さのようなものが-そこにあるべき美しい流れを妨げているのだ。でもいつか、何かの拍子にそのつっかえが取り払われたとき、彼女は本当に美しい娘になるかもしれない。しかしそれまでには今しばらく時間がかかりそうだった。」。”そのつっかえ”が取れるまでのながい待機は、抑えきれない覚醒への期待感を作ることになる。(*2)
しかし、夜が明けても女は目覚めない。ふたたび、回想に耽ける。次第に、眠れる美女に覚醒がおとずれ、未来が動きだす光景(ボーダーを越える瞬間)よりも、”覚醒前夜”そのものが鑑賞の目的になる。”あと一歩という距離は、実は一番遠い”。やがて、ファンは、覚醒に転換するストーリー展開への期待感を、自己の内で佐々木琴子というアイドルを何とか成り立たせようとする”よすが”にしている事実に直面する。「目の前に横たわる 先の知れた未来を 信じたくなくて 目を閉じて過ごしている」
のは、佐々木琴子ではなく、外でもない、アイドルを鑑賞する自分自身だと思い知らされる。(*3)

たぐい稀な美の働きかけによって沸点の上がりきったカタルシス。そこになんとかタッチしようと悶えのたうつファンを”前”に、佐々木琴子が抱いているのは”退屈”のみである。ファンのそれぞれが、やがて同一のモノローグへと達する。「いつしか僕の 愛情だけが膨らんでた 絡めた指に効力はない それを分かってても 自らほどく勇気もないまま 過ごしている」。くるみのように硬い外殻を作り、まるでboringな石みたいにつめたく”生硬”に彼女は黙っている。(*4)

食事のあとで青年はまた『大公トリオ』を聴いた。
「よう、石くん」、青年は一楽章の終わりのところで石に声をかけた。「どうだい、素敵な音楽じゃないか。聴いていると心が広がっていくような気がしねえかい?」
石は黙っていた。…でも青年は気にせず話し続けた。
「…俺はずいぶんこれまでひでえことをしてきた。身勝手なことをしてきた。それを今更ちゃらにはできない。そうだよな?でもこの音楽を聴いているとだね、ベートーヴェンが俺に向かってこう話しかけているみたいな気がするんだ。〈よう、ホシノちゃん、それはそれとして、まあいいじゃんか。人生そういうことだってあるわな。俺だってこう見えてけっこうひでえことして生きてきたんだ。しょうがねえよ、そういうのってさ。成りゆきってもんがあるんだ。だからさ、これからまたがんばりゃいいじゃん〉ってさ。もちろんベートーヴェンはなにしろああいうやつだから、実際にはそんなこと言わねえんだろうけどさ、なんとなくそういう気持ちみたいなのがじわじわこっちに伝わってくるってことだよ。そういう感じってしないか?」
石は黙っていた。
「まあいいや」と青年は言った。…
2時過ぎに窓の外を見ると、太った黒猫がベランダの手すりに乗って、部屋の中をのぞき込んでいた。青年は窓を開けて、退屈しのぎに猫に声をかけた。
「よう、猫くん。今日はいい天気だな」
「そうだね、ホシノちゃん」と猫は返事をかえした。
「参ったなあ」と青年は言った。そして首を振った。

海辺のカフカ / 村上春樹

『海辺のカフカ』において、おそらく、読者が本物のカタルシスに到達するシーンである。この、現実ではありえないこと(ありえないと決めつけてしまっていること)を、しかし心のどこかでは起こるかもしれないと期待していること、それを架空の世界にぎりぎりまでリアリティを損ねないかたちで落とし込む。そのような企みによって読者は”はじめて”カタルシスに到達する。ありえないと決めつけてしまったけれど、心のどこかで、未だ、期待している現象。どうしても振り払いきれない偶像。諦めきれない物語。それが現代アイドルシーンのなかで唯ひとり、古拙な美を抱える佐々木琴子の覚醒ではないか、とおもう。
あるいは、もし彼女の覚醒を”完全に諦める”という事態が既に伏在しているのであれば、それは結局、妄執の矛先に選ばれ、日常を演じる少女の物語とは、”アイドルとしてデビューした段階で物語のすべてを決定づけられている”、という厭世観の降り積もりが筐体の底に見え、物語の作り方、共有方法に予めひとつの”諦め”を受け入れなければならない「慣習」を佐々木琴子は作ってしまった、と云えるだろう。

古拙とは、「古風で技巧は拙いが、その中に素朴な味、捨てがたい趣のあるさま」を意味し、比喩としても、写実としても、佐々木のイメージにピタリと当て嵌まる。たぐい稀な美貌の持ち主と称賛される彼女のつくる笑顔がアルカイック・スマイル(古代ギリシアの彫像がみせる感情表現の一種であり、抑制され、静止的な無表情の中で口元だけ意思を与えられたように皮膚が動き、微笑を作る)であるのは、数奇な結実と云えるだろう。アルカイック・スマイルは、胎動から動きはじめる瞬間に発生する、日常の生命力や活力を表現しようと試みた過程で生まれた概念であり、佐々木琴子の描く物語、アイドルのアイデンティティ(覚醒への期待)と強くリンクしている。(*5)
グループアイドルのパラダイムでもある宝塚少女歌劇の第一期のスターに雲井浪子がいる。その雲井と人気を二分したアイドルが第二期でデビューした篠原浅茅である。篠原浅茅は美を人格の一部と扱われるほどの美貌の持ち主であった。その彼女の美を形容するならば、それは「微笑」であったという。共時性や宿屋めぐりを信じるのならば、人間性の貧しさや敗者の倨傲を映す佐々木琴子の笑い顔とは、アイドル史のモノグラフに大書された起源と緊密に結びつく笑顔と描出できるはずだ。「佐々木琴子」は、時代の収斂により古典になった「篠原浅茅」の古拙な美(アルカイック・スマイル)、この形容辞を「復元」し、過去の物語を「解明」する批評空間の原動力であり、彼女がアルカイック・スマイルと邂逅する動機の露出(アイドルに絡みつく「物語性」への希求が孕む危うさ、音楽家のジストニア的病弊の提示)、緘黙は広大な検証余地を差し出しており、現代人を映す鏡として、叫びを圧しころし、青春の犠牲を抱きしめ、ボロボロになりながら、アイドルを演りきった島崎遥香と遠く響きあうように、素顔をさらけ出している。

佐々木琴子の崩落を持ち堪える支柱が、正史から逸れたアルカイックなビジュアルであることは、当然、倒錯を招く(グループアイドルの闘争を嘲笑って黙殺する美。立ち並ぶアイドルたちを末端的登場人物に押しやって行く美。その美がもたらす覚醒ではなく、覚醒への胎動=遠景がファンの妄執の中で独り歩きしながら「佐々木琴子」のアイデンティティと設定される錯綜は彼女の抱える倒錯の象徴と云えるだろう)。日常で描くアクチュアルな立ち居振る舞いからは、対立命題に耽る『黒い羊』の主人公のようなドラマツルギーへの厭世と反動を投げ付けられたと錯覚し、観者は擦過を獲得するが、彼女はアイドルに対する演技=嘘を吐く行為自体は破棄していない。佐々木琴子はアイドルを演じるが、その「演劇」は素顔を装うための立ち居振る舞いで構成されてはいない。彼女は、素顔(本音)を伝えるための演技をしている。ある種の喪失体験が、しかし成熟に向かわず、自己否定へと向かった。そこで拾い上げたオブセッションに対する反動が、逆走する演劇行為を少女に選択させるのかもしれない。邪悪に歪んだものや無垢なものを直視した際に生まれる拒絶感や倦みを彼女が隠さないのは、また、”写真”という虚構の中に映し出される「佐々木琴子」が自身の意思とは無関係に動き出すことを許さない理由は、”素顔”に対する逆転を抱えているからだ。
ある種の純潔さをモラトリアムにおいて収斂させてしまった人間の美を透徹と呼ぶのならば、笑顔のふり撒きが恒常化された空間のなかで、佐々木琴子は独り、透徹した素顔を伝えようと演じ分けをしているのだ。彼女は場面選択による演じ分けの境界線を不分明にする”アイドルたち”の陳腐な「矜持」を把持しない。だから、多様性(バラエティ)の発揮、特にヴァルネラブルの表出をトリガーに「倒錯」=「クリティーク」が発生する。現在のアイドルシーンの根底には、アイドルとはファンに媚び諂い、笑顔をふり撒き、無垢に夢を与えるべきだとする認識が共通了解になっている。しかし、それはあくまでも一つの約束に過ぎない。人気を獲得し、アイドルという職業の延伸を図る手法に過ぎない。ファンはアイドルの書く物語の読者に過ぎず、介入はできない。この当たり前のルール、ながらく目を逸らし続けてきた事実に「佐々木琴子」への鑑賞行為が遭遇させる。観者は自身の思い通りには決して動かない「アイドル」に直面する。だから、ファンは怒り、嘆くのだ。オモチャ売り場で駄々をこねる子供みたいに、期待を裏切られたと、怒る。
つまりは、舞台や映像作品における演技力に関してはそのほとんどをヴェールに包んだままだが、ドラマツルギーの観点に絞れば、彼女は日常の輪郭を洩らさず描いており、執着の薄さを裏切るように物語性のあるアイドルを作っている、と云えるだろう。無表情の彼女が”はにかむ”、ただそれだけで鑑賞者が情動に遭遇するのもドラマツルギー、つまり日常の演じ分けの奏功であり、とくに、花澤香菜的なヴォイスの作り方、演じ方は星野みなみの声=呪文に比肩する力を具え、ファンを魅了しつづけている。
佐々木琴子とは、きわめて外伝的な主人公感を宿命づけられたアイドルであり、「場面」に対する明確な演じ分けによって獲得する個性(多様性=バラエティ)は、グループが描く群像劇の深化の実りに貢献している。アイドルの物語を独立した「短編」として読むとき、佐々木の書く「佐々木琴子」が主人公の物語とは、大衆の興味を惹く装幀画を描くが、新人文学賞の応募作品のように書き出しの三行で見捨てられる…、そんな物語。大勢の人間が手にし、ほとんどの読者に芥箱へと放り込まれる物語。一方で、乃木坂46という長編小説のなかに登場する佐々木琴子を読むと、名作と呼ばれるすべての物語にかならず登場する脇役=キーマンの存在(例えば、パーヴェル・フョードロウィチのような隔絶した存在)を否定することほど愚かな行為はない、という事実に突き当たる。この、架空の箱庭で演じられ、語られるべきであった物語が書かれずに、その要素を本編に融和させてしまう光景、「個」の遊離は、彼女が抱える、時代との乖離の徴になっている。百年前に生きた日本人、百年後の日本人が佐々木琴子の「横顔」を眺めたとき、おそらく、現代人と変わらない物語性を希求するのではないか。本質を貫く姿形とは、どの時代に映されても鑑賞者から賛辞を贈られる、しかし換言すれば、それは結局、”その時代”と浮遊した人物と捉えられる。彼女は、”ここではないどこか”という、アイドルにならなかった自分の喪失ではなく、アイドルになった自分も、ならなかった自分も、現在(いま)生活している世界からは浮遊しており、白石麻衣とは異なる視点から「百年の孤独」に迎え撃たれる人物にみえる。眠れる美女としての佐々木琴子の横顔を描写して行くことで、『百年の孤独』の登場人物である「小町娘のレメディオス」が浮かび上がり共時
するのは、文学の観点において、当然の帰結と云えるだろう。

そういうときの彼女は、冴えた鋭い頭の働きによっていっさいの形式的なものを超え、物事の本質を見抜くことができるのだと思われた。少なくともアウレリャノ・ブエンディア大佐の意見はそうだった。彼に言わせると、小町娘のレメディオスはみんなの考えているような鈍い人間ではなくて、まったく逆の存在だった。「二十年も戦場で戦ってきた人間のようだ、この子は」と、大佐はよく言った。
一方ウルスラは、たぐいまれな純潔な心の持ち主を授かったことを神に感謝したが、しかし同時に、その美貌に不安を感じていた。それが矛盾をはらんだ美徳のように、天真さのなかに仕掛けられた罠のように思えたからだ。そのためウルスラは、小町娘のレメディオスがすでに母親の胎内にいたときから、いかなる悪にも染まる心配のない人間であることも知らずに、彼女を世間から遠ざけ、すべての地上の誘惑から守ってやろうとしたのだ。
…アマランタは、この用心深さはかえって男の心をそそり、たちまち、彼女の弱みを辛抱づよく探るもの好きがあらわれるに相違ないと思った。しかし、あらゆる点から見て申し分のない求婚者を冷たくはねつけるばかな行動を見て、望みを捨てた。
フェルナンダにいたっては、彼女を理解しようともしなかった。…カーニバルで女王のなりをした小町娘のレメディオスを見たときは、ほんとにすばらしい娘だと思った。しかし、彼女が指を使って食事をするのを見、まるっきり子供みたいな受け答えしかできないのを知って、一家の持てあます白痴だけが、どうして生き延びるのだろうと、ひそかに嘆いた。
そしてアウレリャノ・ブエンディア大佐だが、彼は、小町娘のレメディオスこそこれまで会ったいちばん頭のよい人間である、いつもみんなを適当にからかっているのを見ればわかる、と今なお信じて、人前でもくり返していたが、しかし彼女の行動にはいっさい口出しをしなかった。
こうして小町娘のレメディオスは、十字架を背に負うこともない孤独の砂漠をさまよい、おだやかな睡眠と、きりのない沐浴と、時間のでたらめな食事と、思い出を知らない長くて深い沈黙のなかで、一人前の女に育っていった。

百年の孤独 / ガルシア・マルケス

「小町娘のレメディオス」と佐々木琴子の実在的連関によって、精神の連なり(シンクロニシティ)によって、「佐々木琴子」というアイドルを囲繞し、独り歩きするクリティークの全容が要約され、彼女の作るアイドルの構成要素が充たされて行く…、「小町娘のレメディオス」を描写する行為が佐々木琴子の性格を説明する結果になるのは、あるいはシニカルに映るかもしれない。しかし『百年の孤独』において、一家の歴史において、もっとも儚く、もっとも鮮明で濃やかな色彩の放出を描いたシーンが「小町娘のレメディオス」の喪失であった点は看過できないだろう。なぜなら、佐々木琴子には、白石麻衣のように「美」の消滅が自身に降り注ぐかもしれないと怯える素振りもなければ、「闘争」との対峙もない。演劇や仮装の果てだとしても、すでに、偶像の破綻に関心を持たない。おそらく、彼女はつめたく生硬に沈黙したまま、「小町娘のレメディオス」とおなじように、季節の記憶を呼ぶ風がながれる午後に、シーツにつつまれながら、儚く舞いあがって、架空の世界を見捨て、空扉をひらき、奇跡への羨望だけをあとに消失するのだろう。

やがて迎えた三月のある日の午後、紐に吊るしたシーツを庭先でたたむために、フェルナンダは屋敷の女たちに手助けを頼んだ。…アマランダが、小町娘のレメディオスの顔が透きとおって見えるほど異様に青白いことに気づいて、「どこか具合でも悪いの?」と尋ねた。すると、シーツの向こうはじを持った小町娘のレメディオスは、相手を哀れむような微笑を浮かべて答えた。「いいえ、その反対よ。こんなに気分がいいのは初めて」彼女がそう言ったとたんに、フェルナンダは、光をはらんだ弱々しい風がその手からシーツを奪って、いっぱいにひろげるのを見た。自分のペチコートのレース飾りが妖しく震えるのを感じたアマランタが、よろけまいとして懸命にシーツにしがみついた瞬間である。小町娘のレメディオスの体がふわりと宙に浮いた。ほとんど視力を失っていたが、ウルスラひとりが落ち着いていて、この防ぎようのない風の本性を見きわめ、シーツを光の手にゆだねた。目まぐるしくはばたくシーツにつつまれながら、別れの手を振っている小町娘のレメディオスの姿が見えた。彼女はシーツに抱かれて舞いあがり、黄金虫やダリヤの花のただよう風を見捨て、午後の四時も終わろうとする風のなかを抜けて、もっとも高く飛ぶことのできる記憶の鳥でさえ追っていけないはるかな高みへ、永遠に姿を消した。

百年の孤独 / ガルシア・マルケス


2019/11/06  楠木

出典、引用:*1 *3 Mr.Children/未来  *4 羊、吠える
*2 村上春樹/騎士団長殺し 遷ろうメタファー編
*5 小学館/現代国語例解辞典

 

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