出馬の際の手持ちの駒によりけり、乗車
姿勢は異なる。
それは「馬曳けい!」の段階で既に自ず
と決まる。
えてして、前傾物にはそれなりに恰も競馬
の如き乗り物姿勢となる。
背は円弧を描き脱力させる。
然るに、通常の礼法を要する日常直立に
おいては、背筋を凛と伸ばし、猫背には
ならずして臍下丹田に気を込め腹を張り、
胸も張る。しかし、肩は怒らせず、脱力
させてごく自然に前に落とす。
これ、武家の慣い、武士の心得になりに
けり。
見る者が見れば、何がどうでどこが武士に
非ずの者とは異なるかは、即断できる。
座そうが、立っていようが、武士は武士
らしき一挙手一投足の立居振る舞いとな
る。黙っていても、そうなってしまう。

(幕臣榎本武揚。1864-文久4年。
オランダ、ハーグにて)
そして、士魂は佇まいに出る。
乗車姿の佇まいから、駒種の違いをも
超える意気たるもの、けだし上の銅像
並びに五稜郭での肖像写真と相通じる
ものを感じ取れるだろうか。
この一葉と上の二葉の似通う何かを感じ
取ることができるか否か。
その感受の如何により、己に内在する
士魂を解する資質の如何が自ら量れる。
士ってね、階級や制度の事じゃないんだ
よね。
解る人にしか解らないだろうけど。
ほんの1時間15分程でも話せば、この仁
には士魂あり、無し、というのが解る。
明瞭に解る。
そして、士魂無き者は、日常においては
歩行や直立時の姿勢で胸を張れていない。
首も前に下がり、人を下からねめ上げて
見るような卑屈な姿勢になっている。
そして、目が常に泳いでいる。
もはや、士魂どころか、人として信用でき
ないその実体を何故そこまで見た目で即断
察知されるようないびつな姿勢でいるの
か不思議だ。
普段、厳しき人社会に己を置かぬから、
かような卑屈を体現してしまうのかも知れ
ない。
卑しき了見を常とするから、そのような
姿勢になってしまうのかも知れない。
まあ、見て即判る、という事案は世の中
にある、という事だ。
但し、接すること無くしては人は判らな
い。電脳拡散情報は意図的な嘘流しとそれ
を無思慮に盲信する埒もなき族の玩具で
しかないので、電網情報などは全くあてに
はならない。
自分の目で見て、実際に接してしか人の
判断はできない。
なのであえて言おう。
立った時にせむしのような姿勢で目の泳い
でる奴には気をつけろ。すべてが嘘まみれ
で人を蔑ろにすることを繰り返して来たや
つばらだから。
ゴミとて気をつける必要がある。バイ菌を
繁殖させることがあるからだ。