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ちなみに、英語版Wikipediaに"User-Led Research"の項目は存在しないので、英語圏で、それほど一般的な概念ではなさそうです。
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なお、Googleで"User-Led Research"を検索しても、121件しかヒットしません。英語圏で、それほど使われているフレーズではないようです。
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"Frist person and collaborative study"をGoogle検索すると僅か2件しかヒットしません。これだと完全に「一人称による自分語り」になってしまい、第三者による反証可能性が完全にゼロであることを認めるものですから、欧米の基準では、学問として認知される筈もないのでは?
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UTCP方面が混線を容認する形ですかねえ。   「当事者研究の研究 石原孝二編  2013 医学書院 」の石原氏の記述に『科学的研究は再現性を担保するために厳密な手続きを要求する…しかし、事象や実践に対する特殊な態度としての「研究」は、誰でも行うことができる』とあります。
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石原氏の記述を見る限り ”当事者研究”は科学的研究の要件を満たさなくても成立する。 ただし”当事者研究”が科学的研究要件を満たす可能性を否定してはいない   といったところでしょうか。 玉虫色ですね。 この少し前あたりから「現象学」が「当事者研究と急接近」した感があります。
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西村ユミは「看護師→哲学研究」の順番。いっぽう哲学研究者は看護師に合流することでいわば「役に立つ話」ができる。 嫌なことを言うようですが―― この交流で、看護師側は知的に地位が上がり、哲学は虚学のそしりを免れる。Win-Win的な関係を感じました。
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彼らのイベントは何度か聴きに行きましたが、聴衆には現職の看護師さんが多数おられました。 人文思想と臨床的な取り組みとを同時に考える必要性は、同時多発的にいろんな人が自分の切り口でおっしゃってると思います。 そういえば「べてる」は木村敏とも交流してましたね→
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「当事者絶対主義」をめぐる先日からの議論で、マルクスの影響はずっと出てますが、もう一つどうしても関係すると思われるのが、フロイト的な「自己分析」の文脈です。とくにラカン派では、相談に来る人をわざわざ「分析主体 analysand」と呼んで、本人自身が分析努力の主体であることを強調してる。
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ところがそのフロイト派においても、またその影響を強く受けた「脱構築」系の論者たちも、権威主義的にフロイトやデリダの話をするわりに、「自分の分析」はろくにしない。そしてそのぶん、自分ではない「当事者」を擁護することで政治的正しさを調達する――というふうになっている。
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「自分の分析」をやらされるのは、差別的に見下された「当事者」だけである――というのを、ここ20年ずっと感じてます。 私は精神分析や脱構築の影響もあって「自分の問題を自分で考えてみよう」と出版企画に応じたのですが、 そういう作業は、ラカンやデリダを研究する大学教授たちはやらない。
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医師や教授は、ラカンやデリダの口真似で業績と権威を作る。いっぽう、「自分の問題を自分で考えてみる」というのは「かわいそうな当事者」の作業であって、その当事者は見下され、医師や学者と対等な目線で話し合う相手とは見做されていない。(そのぶん、別格の配慮と尊重を受ける)
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上野千鶴子や熊谷晋一郎による当事者研究と、「無資格の患者さん」による当事者研究とでは、位置づけは違うんですかね。教授や医師の当事者研究のほうが「上」なんだろうか。そこらへんの判断はどうなってるんだろう。 どうもけっきょく、「地位の上下」だけにも見える。学問的真実云々ではなくて。
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そうすると、「カネをもらう側の当事者研究ならどんなに主観的な独りよがりでも学問と見做され、カネを払う側の当事者研究は児戯的な独り言とみなされる」で決着、ですかね。 「当事者」サイドが出発でも、大学教授になればいいと。フェミニストのように。
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それも含めて、やっぱり「左翼政権のヒエラルキー」を強烈に感じますね。出世のために「学習する」というような。
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これむしろ、フロイトやラカンをこそ「当事者研究」のひとつとして見るべきかもなぁ… フロイトが「夢理論」とか言って絶大な影響力を持ちましたが、あれは「患者さんの当事者研究のひとつ」と見れば、まぁそういう研究もあるよね、でいい。彼はあのやり方で言語化した、と。
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少なくとも、フロイトとユングの場合は、「精神分析医」と「患者」の間に、ハッキリと一線を画しているというイメージがありますが。フロイトの場合は、かなり家父長制的色彩が濃厚ですし。
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ラカンが「分析主体」という語を採用してこだわったのは、まさにそういう「一方的教導」みたいな姿勢をやめにするため、と言えると思います。 そもそも、分析家本人がまずは「自分の分析」を進めなければならない、そうでなければ分析家にはなれない――つまり、全員が分析主体として位置づけられてる。
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そこで、では単なる分析主体から「分析家」に移行するには、どういう条件と手続きを用意すればいいのか――ここに取り組んで、ラカン本人は「うまく行かなかった、失敗した」と言って亡くなってます。
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フロイトやラカンでは、権威とされる彼ら自身が「自分の分析」を続けていたはずで、 その意味でフロイトやラカン自身が自分の《当事者研究》をやっていた、という見方もできると思うんです。
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フロイトの夢解釈のデタラメさ(蛇や剣はペニスの隠喩だとか何とか)がよく話題になりますが、それも「当事者研究のひとつのやり方だった」と見なして位置づけなおせないかどうか。(それこそ手続き的に反証不可能だし、科学や学問とは呼びにくいわけで)
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フロイトの精神分析の理論は、名詞に「性」がある独語、仏語などを母国語にしていない人間には理解が難しいと考えています。英語も日本語も名詞に性別がありませんから、独語、仏語で思考する人間の無意識の感覚は理解できないのではないかと。
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同様の手法で日本語圏のやり方を模索できるかもしれませんし、独語圏の人でも「剣がペニスだと言われてそれを受け入れるか」という原理的な問題は残りますから、当事者研究との関係を考える上では二次的なお話ではないでしょうか。独語圏でフロイトが学問的威勢を保ってるようでもないですし…。
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フロイトも「夢判断」の初期と、超自我概念を出した中期、「生の本能」「死の本能」の後期とで、全然違いますし。フロイトの功績としては「無意識の発見」ということになるのでは?
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いや、ですから無意識概念の位置づけまで含めて彼なりの技法や解釈枠の提示であって、それは物理学と同じ意味での「学問」として位置づけるのは難しいのでは、という話です。 そして逆に言うと、「だから完全に無意味だった」とも言いにくい。
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「自我」とか「無意識」とかいう話がでてくると、いわゆる「科学」とは違ったかたちでの「推論」は必要なのだとおもうのだけど、それは複数の他者から観測されうる「病態」や「回復」との整合性は必要だと思うんですよね。
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返信先: さん、さん、他4人
観測が「複数人の語り」に現れるものであってもいいと思いますけど。   つまり治療家も、分析家も、疾患当事者も「自分」だけを見ていても出てこない。 「自己」と「外界」の「界面」が変化しうるという前提の論はあまり見ないように思いますが、その辺どうなんでしょう?
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