- 「合憲」判断は、あくまで「民法と戸籍法の条文が憲法違反ではない」ということ。
- 夫婦同姓の是非や具体的な制度については、国会で議論・判断されるべきとも指摘。
- 特に憲法24条との関係で、法制度が婚姻を「制約」しているか? その制約は「合理的」か? がポイント。
23日、夫婦別姓(氏)を認めない民法および戸籍法について、最高裁大法廷が「合憲」と判断した。2015年にも同様に「合憲」判断がされており、それに続く決定となる。
選択的夫婦別姓については、今年3月の日本経済新聞社による世論調査で「賛成」67% ・「反対」26% となった他、同じく1月の時事通信による世論調査では「賛成」50.7% ・「反対」25.5% となるなど、国民の間で前向きな声が広がっている。
今回、こうした流れに水を指すように夫婦同姓を「合憲」とするかのような判断が出たことに、立憲民主党・安住淳国対委員長が「時代遅れ」と述べたり、国民審査での罷免を求める声が上がるなど批判の声も広がっている。東京新聞は、「夫婦別姓から逃げた?最高裁 『憲法の番人の役割果たさず』国会任せの姿勢に批判の声」と強い口調で非難している。
では一体なぜ、15人の裁判官のうち11人は「合憲」との意見を示したのだろうか?彼らが選択的夫婦別姓に反対する、時代遅れの裁判官で、夫婦別姓から逃げたからなのだろうか?
「合憲」判断の意味
まず重要なことは、今回の判断は「裁判官の選択的夫婦別姓に対する賛否」を問うものではなく、あくまで「民法と戸籍法が憲法違反であるか」を問うものだ。
すなわち「合憲」とした11人が夫婦同姓に賛成あるいは反対しているわけではない。ましてや、「婚姻率をあげるために夫婦別姓を認めるか」が争点なわけでも、裁判官が「女性差別を容認している」わけでも、夫婦別姓から「逃げた」からでもない。もちろん「合憲」判断は夫婦同姓について支持・推奨するものでもない。
実際に決定文では「夫婦の氏についてどのような制度を採るのが立法政策として相当かという問題と、夫婦同氏制を定める現行法の規定が憲法24条に違反して無効であるか否かという憲法適合性の審査の問題とは、次元を異にするもの」(*1)だと明確に述べられている。
簡潔に言うならば「民法と戸籍法は合憲だが、夫婦同姓の是非や制度は、国会において議論・判断されるべき」という話なのだ。そこで2つの疑問が浮かんでくる。なぜ最高裁は「合憲」と判断したのだろうか?そして、なぜ夫婦の姓については国会で議論されるべきなのだろうか?
(*1)「姓」は条文において「氏」と表記される。本記事は判決文・決定文の引用なども多いため必要に応じて両者を用いる。
「合憲」の理由
まず今回、最高裁が「合憲」判断をおこなった理由は、次の一文に集約される。
民法750条の規定が憲法24条に違反するものでないことは、当裁判所の判例とするところであり(略)、上記規定を受けて夫婦が称する氏を婚姻届の必要的記載事項と定めた戸籍法74条1号の規定もまた憲法24条に違反するものでないことは、平成27年大法廷判決の趣旨に徴して明らかである。
ここで言う「判例」および「平成27年大法廷判決」とは、前述した2015年の判断であり、今回もそれが踏襲されたことになる。2015年から現在までは、
- 女性の有業率の上昇
- 管理職に占める女性の割合の増加
- 選択的夫婦別氏制の導入に賛成する者の割合の増加
- その他の国民の意識の変化
などの社会的変化も生じているが、これらの「諸事情等を踏まえても、平成27年大法廷判決の判断を変更すべきものとは認められない」ともされる。つまり、今回「合憲」判断がされた理由を理解するためには、2015年の判断(以下、平成27年大法廷判決)を見ていく必要がある。
争点
そもそも平成27年大法廷判決の争点は、民法750条が憲法13条・14条1項、24条1項および2項に違反するか?だった。それぞれを簡単に整理していこう。
まず民法750条は、以下のように夫婦同姓(夫婦同氏の原則)を定めている。これが憲法違反であるかが、大きく3つのポイントから争点となった。
夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する。
憲法13条
まず憲法13条は以下の内容であり、いわゆる基本的人権について定めている。
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
平成27年大法廷判決では、民法750条が13条で保障される人格権の一内容である「氏の変更を強制されない自由」を不当に侵害しているか?が争われた。
これに対して最高裁は「氏が、親子関係など一定の身分関係を反映し、婚姻を含めた身分関係の変動に伴って改められることがあり得ることは、その性質上予定されて」おり「婚姻の際に『氏の変更を強制されない自由』が憲法上の権利として保障される人格権の一内容であるとはいえない」として、「憲法13条に違反するものではない」と結論づけた。
姓(氏)は、個人のアイデンティティにとって重要な要素ではあるが、同時に「社会的にみれば、個人を他人から識別し特定する機能」を持っているため、それが結婚や養子など何らかの関係性の変化によって変更を求められるのは、予想された性質だということだ。
憲法14条
次に憲法14条は以下の内容であり、男女の平等が示されている。
すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。(略)
平成27年大法廷判決では、夫婦同姓の実態として96%以上の夫婦が夫の姓(氏)を選択しているため、女性のみに不利益が生じる性差別を生みだしているか?が争われた。
これに対して最高裁は、民法750条の文言そのものが「性別に基づく法的な差別的取扱いを定めているわけではなく」、それ自体に「男女間の形式的な不平等が存在するわけではない」として、「憲法14条に違反するものではない」と結論づけている。
「形式的平等」とは「機会の平等」に近い概念で、たとえば女性であることを理由として給与が低くなることを禁じる考え方だ。反対に「実質的平等」とは、法的に男女平等が定められていたとしても、構造的な差別や見えづらい偏見などによって、男女に給与差が生まれてしまうことがあるが、こうした状況を是正する考え方だ。
今回であれば、民法750条によって現実には女性が不利益を被るという「実質的平等」を妨げる問題が生まれていたとしても、条文そのものは「形式的平等」を守っているため、違憲とは言えないという指摘になる。
憲法24条
最後に憲法24条は、婚姻に関する以下の内容が定められている。
(1項)婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
(2項)配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
平成27年大法廷判決では、改姓が婚姻届出の要件となっていることで実質的に婚姻の自由が侵害され(1項)、立法裁量の存在を考慮しても、個人の尊厳が侵害されているか?(2項)が争われた。「立法裁量の存在を考慮しても」とは、立法府である国会は、憲法の枠内で自由に立法する裁量を有しているが、その裁量を尊重したとしても、憲法で保障される個人の尊厳を侵害しているか?という意味だ。
まず1項についてだが、法制度に意に沿わないところがあって婚姻しない選択をする者がいても、それをもって直ちに、民法750条が憲法24条1項に反するとは言えないとする。
その上で、ある法制度が婚姻を「事実上制約」するものかは、2項で述べられるように、その法制度が ①個人の尊厳と ②両性の本質的平等 に「十分に配慮した法律」であるか? がポイントとなる。
この観点で考えた時、以下3つの論理が示される。
- まず、夫婦同姓(夫婦同氏の原則)そのものは、明治31年から日本に定着してきたもので、家族の一員であることを対外的に示して、識別する機能を有しているなど、氏を1つに定めることには「合理性が認められる」。
加えて、憲法14条で見たように、夫婦同氏制それ自体が男女の「形式的な不平等」を生んでいるわけではなく、夫婦間の協議による自由選択に委ねられている。
- 一方、夫婦同姓によって「アイデンティティの喪失感を抱いたり、婚姻前の氏を使用する中で形成してきた個人の社会的な信用、評価、名誉感情等を維持することが困難になったりするなどの不利益を受ける場合があることは否定できない」。
- しかし、「夫婦同氏制は、婚姻前の氏を通称として使用することまで許さないというものではなく」、婚姻前の姓(氏)の通称使用が社会的に広まり、それにより上記 2. の問題は「一定程度は緩和され得るもの」と言える。
ここから、①個人の尊厳と ②両性の本質的平等 を求める憲法24条に照らし合わせて、民法750条が違憲とは言えないという結論が示される。
本判断のポイント
ここまで平成27年大法廷判決の争点において、なぜ最高裁は「合憲」と判断したのだろうか?という問題を見てきた。繰り返しになるが、あくまでこれは民法750条が憲法の3つの条文に違反するか?という問題であり、夫婦別姓の是非の問題ではない。
今回の判断では、特に憲法24条が問題化されており、戸籍法74条1号および民法750条の規定について「憲法24条に違反するものでないことは、当裁判所の判例とするところ」とあるように、平成27年大法廷判決の論理を踏襲していることがわかる。
一方、今回は事前に「社会情勢の変化などを踏まえて大法廷が今回どのような決定を下すかが焦点」だと言われていたが、その点については、3名の裁判官による意見でも言及されている。
この問題については、もう1つの議論である「なぜ夫婦の姓については国会で議論されるべきなのだろうか?」と関係してくるため、それを順番に見ていこう。
憲法ではなく国会で議論すべき?
前述したように、今回の決定文からは「民法と戸籍法は合憲だが、夫婦同姓の是非や制度は、国会において議論・判断されるべき」というメッセージが見えてくる。それは、夫婦の姓(氏)に関する制度について「平成27年大法廷判決の指摘するとおり、国会で論ぜられ、判断されるべき事柄にほかならない」という一文からも明らかだ。
その理由として、3名の裁判官(深山卓也・岡村和美・長嶺安政 各氏)は社会情勢の変化などを踏まえた判断こそ、国会における議論が重要だと述べている。その意見として、まず2005年からの以下のような変化を指摘する。
- 女性の有業率の上昇
- 共働き世帯数の増加、その他の社会的変化
- 選択的夫婦別氏制の導入など国民の意識変化
- 地方議会における選択的夫婦別氏制の導入を求める意見書の採択
- 通称使用の急激な拡大
- 女子差別撤廃委員会からの勧告
実際、こうした社会的変化こそが今回の判断で注目となった理由でもあった。しかしながら、それであっても憲法にもとづく判断として「合憲」が示された論理はここまで見てきたとおりだが、3名は加えて、次のように述べる。
上記の事情の変化のうち、まず、国民の意識の変化についていえば、婚姻及び家族に関する法制度の構築に当たり、国民の意識は重要な考慮要素の一つとなるものの、国民の意識がいかなる状況にあるかということ自体、国民を代表する選挙された議員で構成される国会において評価、判断されることが原則であると考えられる。
そもそも、婚姻や家族に関するルールは関連する法制度によって定められる。その法制度は「国の伝統や国民感情を含めた社会状況における種々の要因を踏まえつつ、それぞれの時代における夫婦や親子関係についての全体の規律を見据えた総合的な判断によって定められるべき」であり、だからこそ国会の立法に委ねられている。国民の意識や時代状況を反映した判断は、国民を代表する議員による議論にもとづいて行われるべきという見解だ。
また、少なくともこの3名については以下記述を見る限り、夫婦の姓(氏)に関する議論を国会に対して積極的に求めているように思える。
国民の意識の変化や社会の変化等の状況は、本来、立法機関である国会において不断に目を配り、これに対応すべき事柄であり、選択的夫婦別氏制の導入に関する最近の議論の高まりについても、まずはこれを国会において受け止めるべきであろう
このように「合憲」判断が出されたとしても、それが直ちに裁判官たちによる夫婦同姓への賛成を意味しないどころか、むしろ立法府(国会)における、法制度の積極的な議論を求めていると受け取ることができる。
裁判官はどのように考えているのか?
また今回の決定では、4人の裁判官が「違憲」判断をしている。その論理についても、簡単に触れておこう。
三浦意見
まず三浦守裁判官は、「結論において多数意見に賛同する」ものの「法が夫婦別氏の選択肢を設けていないことは、憲法24条に違反すると考える」と主張する。つまり「違憲」ではあるが「現行法において別姓による婚姻届が却下されるのやむを得ないため原審の判断は認めるという立場」であり、少し複雑ではあるため「違憲」の理由のみに絞って見ていこう。
それによれば、婚姻において婚姻前の姓(氏)を維持することは、(憲法上の権利として保障されるか否かはさておき)個人の重要な「人格的利益」だという。
その上で、婚姻によって姓(氏)の変更を望まない人にとっては、その「人格的利益を放棄しなければ婚姻をすることができない」わけであり、これは「法制度の内容に意に沿わないところがあるか否か」の問題ではなく「重要な法的利益を失うか否か」の問題だという。
すなわち、これは「婚姻の自由に制約を与えている」状況であり、問題はその制約が「合理的」であるか否かということになる。憲法や法律において、無制限に自由が認められることはなく、合理的な理由があればそこに制約が課せられるものだ。たとえば後述するが、両人の自由にもとづいて婚姻はおこなわれるが、一方で「合理的」な理由から婚姻年齢や重婚などには制限がかけられている。
三浦裁判官は、下記3つのポイントから「婚姻の自由」への夫婦同氏という制約について合理的とは言えないと結論づける。
- 夫婦同氏制は多様化する現実社会から離れ、例外を許さない合理的な根拠を説明することが難しい。
- 婚姻という個人の幸福追求において、2人のうち1人が人格的利益を放棄することを例外なき要件であることは、個人の尊厳に照らして、自由な意思決定に制約を課している。
そもそも旧民法以来「夫婦同氏制が日本社会に定着してきた」とされるが、家制度そのものが男女の本質的平等とは相容れない。
- 選択的夫婦別姓には、嫡出子の氏をどうするか?などの制度整備が必要だが、国会において具体的な議論はほとんどされていない。しかし、それは夫婦別氏の選択肢を設けていないことを正当化する理由にならない。
すなわち、「人格的利益の放棄を迫ることで婚姻の自由を制約している状況」は、①個人の尊厳と ②両性の本質的平等を考えた時、「合理性を欠く」という結論だ。
宮崎・宇賀意見
宮崎裕子・宇賀克也両裁判官は、憲法24条1項・2項に照らし合わせて「違憲」判断を行う。大きく3つのポイントについて見ていこう。
(1)憲法24条1項
まず1項の「夫婦が同等の権利を有することを基本として」における「権利」について、人格的利益を含む「人格権」も当然含まれるとする。そして、氏名はアイデンティティの象徴として人格の一部になっているため、それは「人格権」に含まれるとされる。
その上で民法750条の規定は、婚姻者のいずれかは婚姻によって必ず氏の変更を求めるため、必然的に「2人が人格権を同等に享有すること」できない状況をもたらす。すなわち、この状況は「公共の福祉による制限として正当性がない限り」、不当な侵害だと説明される。
つまり問題となるのは三浦意見と同じように、「夫婦同氏を婚姻成立の要件とする」制約に合理性があり、それは公共の福祉による制限として正当性があるか? が問題として示される。ここで言う「公共の福祉による制限」とは、前述のように「重婚の禁止や近親血族間の婚姻禁止」などが例としてあり、「社会全体の共通利益」のために求められる制限だ。
平成27年大法廷判決において示された「夫婦同氏の合理性」について、宮崎・宇賀両裁判官は以下のようにいずれも「夫婦同氏制の合理的根拠とはいい難い」として退ける。
- 「氏が家族の呼称としての意義を有する」と言うが、そもそもこれに憲法上の根拠はなく、人格権を否定する合理的根拠にはならない。
- 「氏は夫婦であることを対外的に公示し識別する機能を有する」や「嫡出子であることを示す」や「家族の一員であることを実感する」や「子がいずれの親とも氏を同じくすることによる利益を享受しやすくする」は、民法が想定する夫婦・親子像の一部を捉えてはいるが、①家族形態の多様化という現実と、②多様な家族の形を想定・容認する民法の「寛容な基本姿勢」に照らすと、夫婦同氏制の合理的根拠とはいい難い。
つまり夫婦同氏には、「人格権」を制限するような合理的な理由がないという結論だ。
(2)憲法24条2項
宮崎裕子・宇賀克也両裁判官によれば、憲法24条2項は、①個人の尊厳と ②両性の本質的平等 にもとづいて「当事者の自由かつ平等であるべき意思決定」に「不当な国家介入」があってはならないと求めている。しかし(1)で見たように、そもそも民法750条などは憲法24条1項の趣旨に反して「人格権」を不当に制限している。
つまり、「個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚した法律とはいえず、立法裁量を逸脱しており、違憲といわざるを得ない」とする。
(3)平成27年大法廷判決に立脚した場合
そしてもう1つ注目すべきポイントは、宮崎裕子・宇賀克也両裁判官は、仮に平成27年大法廷判決の枠組みに立脚したとしても、社会的変化を考慮するならば「憲法24条違反と判断すべき」と述べている点だ。その理由は大きく以下の3つだ。
- もし氏名についての「人格的利益」が憲法13条で保障された権利に当たらなかったとしても、それが「個人の人格の中枢に関わるものであることは変わらない」。そのため、夫婦同氏制は①個人の尊厳と ②両性の本質的平等 に反している。
- 平成27年大法廷判決の後に、旧姓を通称として使用するケースは増えている。もし夫婦同氏制が合理的ならば通称使用は増えないはずであり、その事実自体が「不合理性」を認めている。
- 政府は、国際機関から女子差別撤廃条約に違反するとして、夫婦同氏制の法改正について正式勧告された。もし日本政府が、夫婦同氏制について①個人の尊厳と ②両性の本質的平等 に立脚していると考えているなら勧告に反論できるはずだが、それをおこなっていない。
草野意見
最後に草野耕一裁判官は、上記3名とは大きく異なるアプローチで「選択的夫婦別氏制を導入することによって向上する国民各位の福利」と「それによって減少する国民各位の福利」について「比較衡量することが有用」だと述べている。
それによれば、選択的夫婦別氏制の導入により向上する福利が、減少する福利よりもはるかに大きいことが明白であれば、当該制度を導入しないことは「余りにも個人の尊厳をないがしろにする所為であり、もはや上記立法裁量の範囲を超えるほどに合理性を欠いているといわざるを得ず、本件各規定は憲法24条に違反する」という。
その上で導入による福利の向上については、旧姓使用の煩わしさや自己の氏名に対するアイデンティティの希薄化などを解消する意味で「確実かつ顕著に国民の福利を向上させる」と結論付けられる。
一方で減少については、以下のように整理される。
- 婚姻当事者:選択的である限り減少しない。
- 子:「家族の一体感の減少など一定の福利の減少をもたらす」が、夫婦同氏が社会のスタンダード(標準)となっていることで生じるものであり、社会情勢の変化によって変わっていく。
- 親族:姓(氏)を変更する婚姻当事者と、その親族との一体感は夫婦別氏によって減少されるため、選択的夫婦別氏制によって福利の総和は減少しない。
- 第三者:夫婦同氏を我が国の「麗しき慣習」として残したいと感じている人々がいるかもしれないが、もし多くの国民がそう考えるならば、今後ともその伝統は存続する可能性が高い。しかしその存続は賛成・反対運動など「社会のダイナミズム」に委ねられるべきで、法の力によって存続を強制することは「憲法秩序にかなう営みとはいい難い」。
その結果、「選択的夫婦別氏制を導入することによって向上する国民の福利は,同制度を導入することによって減少する国民の福利よりもはるかに大きいことが明白であり、かつ、減少するいかなる福利も人権又はこれに準ずる利益とはいえない」と結論付けられ、民法750条などは「合理性を欠いている」とされる。
おわりに
本記事では、最高裁がどのような論理によって「合憲」判断をおこなったのかを見てきた。各人が夫婦同姓に賛成するか、反対するかはさておき、この判断を理解するために、まず議論の内実を理解することが重要だろう。筆者は、個人的には選択的夫婦別姓に賛同する立場であるが、そのことと「合憲」判断は別物であると考える。
しかしながら、冒頭で述べたように「合憲」判断と選択的夫婦別姓の是非を混同するような議論も目立つ。たとえば報道機関は、意見と事実を適切に切り分けて議論するべきだが、「合憲」判断の論拠に十分に触れないまま、特定の反対意見について「痛快」と述べたり「夫婦別姓から逃げた」と解釈するケースがある。報道機関が自らのオピニオンを発信すること自体は問題ないが、記事タイトルとして価値判断を含ませることは、ミスリードな姿勢だろう。
では、今回の判断をどのように理解するべきだろうか。あくまでも個人的見解であるが、現時点での「合憲」判断には妥当性を感じるとともに、立法府の怠慢というべき態度が際立ったと考える。
「違憲」判断である草野意見が(トリッキーで)興味深いことは事実で、宮崎・宇賀意見が論理的に美しいことも確かだ。特に後者については、個人的にも非常に興味深い指摘だと感じ、賛同する立場にある。しかしながら、それが大勢を占める意見ではなかったことも事実だ。もちろん人文・社会科学における学説とは、様々な意見が対立しながら、議論を通じて取捨選択され、最終的に主流となるプロセスを経るものである。そのため、宮崎・宇賀意見らがマイノリティだからといって誤りとは言えない。
しかしながら、それらは「現時点」での主流な判断とはならなかった。言い換えれば、多くの裁判官は立法府(国会)での制度変更が妥当であると考えたのだ。また、2015年にも同様の要請をしながらも議論は前に進まず、再度ボールが司法から立法に投げられたことの意味は大きい。
2020年の調査では「自分以外の他の夫婦も同姓であるべきだ」と考える人はわずか14%程度であり、反対している自民党議員内ですら、賛成派の議員連盟が誕生している。それにもかかわらず、選択的夫婦別姓が実現にまで至っていないことは、立法府(国会)において国民の声が十分に反映されていない可能性を示唆している。
われわれがおこなうべきは、「合憲」判断をした裁判官について非合理で時代遅れだと断罪することではなく、立法府と世論の乖離について問題視して、その声を強く届けていくことだろう。法制度を変えることは、自らの代表を立法府に送り込む国民に求められる役割なのだ。