新団体の基本的な性格
(2007年04月06日)
(新団体は従来の宗教団体ではない)
旧教団の事件が、その宗教によって起こったのに、なぜ新団体は宗教を行なうのか、という質問をされることがあります。
私たちは、旧教団の事件が、その宗教教義に一因があったということを深く受け止め、オウム真理教の宗教教義の総括だけでなく、カルト教団を宗教的な構造から、従来の宗教全般に渡る問題までを分析・検討して、そういった従来型の宗教を乗り越えた新しい宗教ないしは思想を実践しようとしています。
よって私たちは去年から、「新教団」ではなく「新団体」と表現してきました。これは、新団体の性格が、「従来の宗教団体」のものではないという意味合いが込められています。
従来の宗教団体は、そのほとんどが、その宗教団体が掲げる特定の信仰対象を絶対視する特徴を有しています。特定の信仰対象とは、その宗教の開祖、開祖の信じる神、開祖の作った教義などです。
オウム真理教では、絶対視されたのは、開祖の松本氏であり、松本氏が説いたシヴァ大神であり、松本氏の教えでした。そして、このような傾向は特にカルト教団といわれるものに顕著だと思いますが、多くの宗教・宗派において、その歴史全体を見れば、そういった要素が多かれ少なかれ存在するということもできます。
例えば、今現在、伝統宗派として社会に受け入れられているものも、歴史的に見れば自己の宗教・宗派を絶対視し、その布教のために、宗教的な動機による暴力行為に関与したものがあります。
天台宗の比叡山は、平安時代の頃から、その僧兵によって、他宗の寺院を焼き討ち、弾圧を行いました。
浄土真宗は、戦国時代に武装し、独立国をつくるなど、各地で蜂起し、結果として、織田信長とぶつかったことは有名ですが、これを「法難」と称しており、仏教徒の戦闘を正当化しているともいえます。また、この浄土真宗の一向一揆から都を守った法華一揆(法華宗)も、武装集団でした。
そして、今現在、伝統仏教として尊ばれているこれらの宗教・宗派は、過去の暴力行為の総括・反省はしないまま、現在に至っています。
欧米では、ローマ法王が指示した十字軍遠征、神父が先頭に立った植民地侵略が、神の意志として実行されましたが、これまでに植民地侵略に対する賠償もなく、本質的な総括・反省・謝罪があると言えません。
多かれ少なかれ、こうして聖戦を正当化する宗教文化の中で、今でも、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教には、原理主義的な勢力が存在し、宗教的な紛争を続けているのだと思います。
このような宗教の問題の背景には、宗教が自己を絶対視するという傾向があるからで、それが自己に誤りがなく完全で、万人に最善のものだという考えということができると思います。
そして、より具体的に言うならば、私たちは、オウム真理教での手痛い教訓と、これまでの宗教の歴史を合わせて考えると、以下のような教訓を学ぶことができると考えるに至りました。
(1)宗教とは実際には人間が作るものであり、開祖である人が完全に神や神の化身であることはない。
(2)通常開祖になる人は、通常の人間を超えた霊能力があったり、時には奇跡的な現象を起こす場合が多いが、そうであっても、開祖は人間であって、神ではなく、不完全である。開祖の語る神も、客観的には、開祖の神体験であって、それが絶対神であるという完全な証拠はない。よって、自己の宗教が絶対に正しいと考えることは、本質的に、矛盾であり、過信である。
(3)自分たちの宗教が絶対となると、他の宗教や無宗教の人を否定する結果となり、それが著しくなると、自分たちの宗教を他に強制し、他の宗教や無宗教の人との争いが生じる。しかし、本質的に、人の心は強制によっては変化せず、強制的な行為は、長期的には破綻する。
(4)特に、自分たちが善・聖、他者は悪・邪といった構図ができる場合は、自己に関する過信・誇大妄想、他に対する蔑視・被害妄想が生じ、本質的に、真理・真実から遠のき、無智・無知が増大する。
(5)個々人の神聖な意識=愛を引き出す手段として、個々人の個性にあった宗教・宗派を実践すればよく、各宗教・宗派は、相互に認め合い、多様な宗教の存在を個性として認める中で、融合していけばいい。よって、万人に強制すべき唯一絶対の宗教などはなく、強制的な手段で教えを広める意味はない。
このような認識に基づいて、私たちは、新団体において、従来の宗教を超えた新しい宗教、ないしは(それが宗教と言うよりも、精神的な成長のための思想と呼ぶ方が適切ならば)、その思想の実践を行っていこうと考えています。具体的には以下のような原理、原則を考えています。
(1)人を神としないこと
特定の人間を神ないし神の化身として絶対視しない。一般で言う開祖・教祖を設けない。例えば、新団体の代表は、団体構成員の先輩・先達であり、あくまで不完全な人間である。
(2)各人にあった実践を認めること
人間を神としないだけでなく、観念上の崇拝対象である神格や、実践する教えについても、唯一絶対のものは設けず、人それぞれが自分にあったと思うものを実践、利用すればよい。よって、表現としては、崇拝対象と言うよりは、神聖な意識を引き出す象徴物と位置づけて、教えも、その人にあった方便・手段と位置づけるべきである。
(3)団体は衆生に奉仕すること
団体は、上記の通り、その会員・利用者に対して、その団体を上に置いて、団体を絶対視させるのではなく、団体が、会員・利用者に対して、その心身の浄化・癒しのために奉仕することに力点を置くものとする。
なお、現実の問題ですが、団体が変化していくためには、所属する人全体の意識が変化する必要があり、その結果として、私を初めとするグループは、2004年頃にアーレフにおいて代表派(上祐派)が発足して以来、組織を徐々に変革させてきました。すなわち、ソフトランディングさせてきたということができます。
これは、旧団体を反省し、やり直していくにしても、その過程が急激すぎるならば、出家修行者や在家信徒がその流れについて来れず、別にご説明した被害者・遺族の方々への賠償や信者の生活を確保することができないほどに、団体組織が崩壊する可能性があったからだということがあります。
よって、これまで、私たちの対応の遅れ、不適切な表現、説明の不足によって、一般の皆さんには、新団体に関する様々な誤解が生じていると思いますが、今後の努力を積み重ねて、実行をもって、正しい理解が深まるように努力していきたいと考えております。