【書評】沢村忠から那須川天心まで、「キックボクシング」の変わらぬテーマとその背景。時空を飛び越え真剣にタブーに斬り込んだ、格闘技ファン必読の書「沢村忠に真空を飛ばせた男―昭和のプロモーター・野口修 評伝―」(細田昌志著)
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「日本の格闘技の歴史で一番のターニングポイントと言えるのは、昭和39年の大山道場とムエタイの他流試合でしょうね。もし、あれがなければ、その後の日本の格闘技界って全然違ったものになっていたはずです。あれこそが、プロ格闘技の走りなんですよ。
プロレスにだって、UWF的なものは生まれなかったと思うし、極真もあそこまで大きくならなかったでしょう。ということは、僕も空手を始めたかどうか判りません。そうなると、K-1もなかったってことになりますから」
これは細田昌志著「沢村忠に真空を飛ばせた男―昭和のプロモーター・野口修 評伝―」(新潮社)の「第十三章 タイ式ボクシング対大山道場」の冒頭における、K-1創始者の石井和義・正道会館館長の言葉である。そして大山道場勢に合わせ、投げ・頭突きありの変則ムエタイルールで行われた他流試合を「キックボクシング」と名付け、1964年(昭和39年)2月12日にタイの首都バンコクのルンピニースタジアムで史上初のキックボクシングの試合を主催したのが、この本で人生が綴られる野口修である。
野口は1934年(昭和9年)1月24日に生まれ、2016年(平成28年)3月31日に82歳でその生涯に幕を閉じた。しかし平成の格闘技ブームの仕掛け人・石井氏にそう言わせた功労者であり、キックボクシングの創始者でありながら、その死は彼が生前関わった多くの人達にはしばらく伝わらず、格闘技ファンやメディア(当サイト含む)においてもほとんど話題にならず、キックの大会で追悼セレモニーが行われることもなかった。忘れらた、いや、そもそも今の多くの格闘技ファンに認知すらされていない、ほぼ無名の存在になっていた野口。しかしこの本で2段組み500ページ以上に渡って詳細に綴られた、戦前から高度経済成長期を経て平成時代に至る生涯は、1年間のテレビドラマシリーズでも成り立つほどの波乱万丈なものだった。
だが野口のドラマチックな生涯は、日本のテレビ局にとっては触れにくいものだろう。野口はキックボクシングを創始する前、NET(今のテレビ朝日)で毎週日曜夜のプロボクシングの中継番組を立ち上げ、試合をプロモートしていた。父の野口進は戦前の日本のボクシング黎明期のトップ選手・ライオン野口。父も終戦後にプロボクシングの興行を主催し、修は二世プロモーターだった。戦前、父は元日本ウェルター級王者で、国技館などの大会場を常に満員にし、1933年(昭和8年)6月の試合では甲子園球場に15,000人の観客を集めた人気選手だった。しかし進には右翼団体の一員というもう一つの姿があり、その甲子園の試合から5か月後の11月、元首相の若槻礼次郎の暗殺未遂事件を起こす。その2か月後に生まれたのが野口修。父・進はその時獄中にいたが、進が府中刑務所で出会ったのが「戦後最大の黒幕」とも呼ばれ、政界やメディアに大きな影響力を及ぼした児玉誉士夫(よしお)だった。
父・進は刑務所を釈放された後、児玉の資金源「児玉機関」の本部のあった中国・上海に渡り、日本兵の慰問興行に携わる。そして戦後もその右翼人脈を活かしてボクシングのジム会長兼プロモーターとして成功する。息子の修が事業を継いだ後、修の弟・恭の国技館での世界戦の券売で苦戦した際、11,000席のうち2,000席のチケットを児玉が買い取り、側面から支えたという。
野口修がTBS中継のキックボクシングで一大ブームを巻き起こした後、他局も二匹目のドジョウを狙い「キックボクシング」の名前を使ってキックボクシングの中継を放送するようになる。そうなればなぜ野口が「キックボクシング」を商標登録し、独占しなかったのかという疑問が生じる。平成の格闘技ブームにおける民放各局の中継争奪戦や、現在に至るキックの団体・王座乱立につながるテーマで、野口修物語において重要な話題だが、ここにおいて、野口親子を育てた右翼人脈が、過去の恩とは正反対の敵として立ちはだかることになる。さらに野口はキックで得た富と人脈を武器に、新進の歌手・五木ひろしの売り出しに関わるが、大晦日の賞レースにおいて、審査員への接待工作を展開する。
戦後最大の黒幕との切っても切れない関係。そして興行の世界で飛び交う欲望と金。野口修の人生の絶頂は、沢村忠が日本プロスポーツ大賞を、五木ひろしが日本レコード大賞を獲得した1973年(昭和48年)で、それから50年が経とうとしている。どちらの賞も選考組織のトラブルについて近年報じられ、レコ大の問題点に関しては国民の多くも昔から薄々察してはいただろうが、当時からの関係者が存命の限り、日本のテレビ局にとっては触れにくい案件のままだろう。
上記のように、野口修の生前を含めた何十年もの間の出来事や人脈の点と点が、線としてつながり、スポーツ・テレビ・芸能・政治・国際社会、さらには銀座の夜の街の出来事とも、幾重にもクロスオーバーしていくところが、この本の最大の魅力である。キックボクシング誕生に関連する話題が登場するのは本の5分の2を過ぎてからだが、そこまでの野口家の国内外のネットワークが大変重要なことは、我慢強く読み続けていただければ十分にわかると思う。
ここまで書いたエピソードは、本の中でつながる何本もの線のごく数本にすぎない。著者の細田昌志は、2010年から野口への取材に取り掛かり、国会図書館などで当時の新聞や雑誌から入念に記述やデータをかき集め、野口をはじめ、多数の人々に取材した。時には沢村と関係のある人物を探しに広島の山奥のお好み焼き屋やバンコクまで取材に訪れ、「水道橋博士のメルマ旬報」で連載を続け、約10年かけて一冊の本にまとめた。(元々、1年以内に刊行させる予定だったそうだが、そのあたりの苦労話は年始の細田へのインタビュー記事でお届けする予定だ。)
取材相手は格闘技界の関係者はもちろん、ボクシング・テレビ・芸能・政界など多岐に渡る。芸能界ではビートたけし、真木ひでと、湯川れい子、格闘界では輪島功一、西城正三、藤原敏男といったあたりが有名な人物で、平尾昌晃、安部譲二、藤本勲といった、近年に鬼籍に入った人達にも細田は多数聞いている。(五木ひろしにも雑誌インタビューで話を聞いている。)
そして執筆の折り返し時点である2016年(平成28年)に、野口修も亡くなっている。冒頭にも記したとおり、野口は既に忘れられた存在で、キックボクシングの黎明期について、ちゃんと彼から話を聞いたライターや記者はいなかった。キックボクシングという競技は、誰もがその名前は知っているとはいえ、ファンの数も競技者の数もメディア関係者の数も、野球・サッカーを筆頭としたメジャースポーツに比べれば圧倒的に少ない。格闘技の隣接ジャンルともいえるプロレスでは過去のエピソードを集めた書籍が多く出版され、一定の市場を形成している。増田俊也著「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」、柳澤健著「1976年のアントニオ猪木」も、MMAのルーツを記した重要な書でヒットしたが、これらもプロレス本市場とは無縁ではなかった。これら2冊と比較的近いスタイルの野口修評伝だが、プロレスとの接点はほぼ無く(少し登場するエピソードも非常に面白いのだが)、出版マーケット面ではこれらの2冊よりもさらに挑戦的な本である。そして何より、キックボクシングの黎明期を詳細に記した唯一の書であり、細田が晩年の野口に話を聞かなければ、その歴史は闇に葬られていたかもしれないと思うと、キックボクシングの報道に携わる者として、細田に敬意の念を抱かずにはいられない。
私・井原は2000年からキックボクシングの取材をはじめ21年が経った。それ以前はK-1は見ることはあったものの、純粋なキックボクシングを生で観たのは、記者生活を始めてからで、野口が沢村を売り出してブームを作り出した時代のことはほとんど知らなかった。本やネットや関係者からの直接の話で、断片的に情報を得る範囲では、前時代のスター・沢村は21世紀の日本の格闘技メディアにとって触れにくい存在だというのも、若いながらもなんとなくわかった。後にYouTubeの登場で彼の試合映像を見ることができるようになり、なぜタブー視されていたのかがはっきりとわかった。
序章・終章と合わせ、全27章の大著「沢村忠に真空を飛ばせた男」を、発売翌月の11月上旬に細田から献本され、目次を眺め、最もインパクトを感じたのは「第十八章 八百長」の文字だった。小説以外の多くの本を読む際同様、まずは「あとがき」を読んだ。それから迷うことなく、第十八章を読んでいた。ノンフィクションの読み方の行儀として正しくはないのかもしれないし、細田も序章から読むことを推奨している。だが、自分の知的好奇心、と書けば綺麗だが、のぞき見的な感覚に逆らうことはできなかった。
第十八章で細田は、沢村にまつわる問題に真正面から向き合わなかった格闘技メディアについて言及しつつ、野口に対してもこう聞く。
「教えて下さい。沢村忠の試合は真剣勝負だったんですか、八百長だったんですか」
ここからの細田と野口の、約4ページに渡る“真剣”で斬り合うようなやりとり、一歩も引かずに立ち向かう細田の言葉が、この本の最高の山場である。そして私は、21年の記者生活を振り返り、細田のような取材が一度もできていないことを情けなく思った。
この提案も細田は嫌がるかもしれないが、本屋でこの本を見つけたら、まずは立ち読みで362ページから385ページの「第十八章 八百長」を読んでみてほしい。だがこの章を読み、細田の調査能力と文章力の高さ、肝の据わりっぷりを知ってしまえば、その前後の野口修の人生、彼に関わった沢村忠、五木ひろし、野口の父の進らの物語も、興味を持たざるを得なくなり、あなたを戦前から平成までの時間旅行にいざなうことになるはずだ。税込3,190円と安くはない本だが、読み終われば安かったと思うだろう。Amazonのレビューでも発売2か月後で36件・星5つが72%、4つが17%と、約9割が満足したと言っていい高評価となっており、個々のレビューからも読者の興奮が伝わってくる。
2020年(令和2年)の大晦日も、フジテレビでRIZINが放送される。そこでは現代のキックボクシングの最大のスターであり、1964年から50年以上の日本のキックボクシング史上最高傑作ともいえる那須川天心が、タイのムエタイの現役強豪と戦い、その模様が全国のお茶の間に生中継される。天心の技術のベースは極真空手。1964年(昭和39年)2月12日にバンコクで極真空手とムエタイが真剣勝負の対抗戦を行い、「キックボクシング」が生まれてから約57年が経とうとしても、この競技の根本のテーマが変わらないことに、改めてながら驚いてしまう。
現代の最高峰のキックボクシングを堪能した後の年明け、コロナ禍で帰省も旅行も買い物もできず余った時間に、「沢村忠に真空を飛ばせた男―昭和のプロモーター・野口修 評伝―」で、キックボクシングの歴史をじっくり味わってみるのはいかがだろうか。(文・井原芳徳)(文中敬称略)
細田昌志著「沢村忠に真空を飛ばせた男―昭和のプロモーター・野口修 評伝―」紹介(新潮社の資料より)
◆内容
2016年3月31日に亡くなったプロモーター・野口修の生涯を描く。野口修の父野口進は「最高最大の豪傑ボクサー」と呼ばれた人気拳闘家。「元首相暗殺未遂事件」を起こした国士でもあったため、野口修は右翼人脈に囲まれた環境で育つ。
大学卒業後、家業のボクシングジムを継いで、プロモーター業に就いた修は、タイ式ボクシング(ムエタイ)からヒントを得た新しいスポーツ「キックボクシング」を創設。沢村忠を送り出し、巧みなメディア戦略で大ブームを巻き起こす。
さらに芸能界にも進出。無名のクラブ歌手をスカウトし「五木ひろし」と改名させ、日本レコード大賞を受賞。日本人歌手として初めてラスベガス公演まで行う。
数々の栄光とその裏で繰り広げられた葛藤を描きながら、野口修の数奇な人生と、共に刻まれた壮大な昭和裏面史を活写する。
◆目次
序章 日本初の格闘技プロモーター
第一章 最高最大の豪傑ボクサー
第二章 若槻礼次郎暗殺未遂事件
第三章 別れのブルース
第四章 新居浜
第五章 日本ボクシング使節団
第六章 幻の「パスカル・ペレス対三迫仁志」
第七章 プロモーター・野口修
第八章 散るべきときに散らざれば
第九章 死闘「ポーン・キングピッチ対野口恭」
第十章 弟
第十一章 佐郷屋留雄の戦後
第十二章 空手家・山田辰雄
第十三章 タイ式ボクシング対大山道場
第十四章 大山倍達との袂別
第十五章 日本初のキックボクシング興行
第十六章 沢村忠の真剣勝負
第十七章 真空飛び膝蹴り
第十八章 八百長
第十九章 山口洋子との出会い
第二十章 よこはま・たそがれ
第二十一章 野口ジム事件
第二十二章 一九七三年の賞レース
第二十三章 ラストマッチ
第二十四章 夢よもういちど
第二十五章 崩壊
終章 うそ
あとがき
参考文献
◆著者略歴
細田 昌志(ほそだ まさし) 1971年生まれ。CS・サムライTVの格闘技番組のキャスターをへて放送作家に転身。いくつかのTV、ラジオを担当し、雑誌やWebにも寄稿。著書に『坂本龍馬はいなかった』(彩図社・2012年)『ミュージシャンはなぜ糟糠の妻を捨てるのか』(イースト新書・2017年)。メールマガジン「水道橋博士のメルマ旬報」(博報堂ケトル)同人。