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生きてるだけで丸儲け
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生きてるだけで丸儲け

2013-06-07 23:53
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最近どうもPCの調子が悪いです。というか、ミャンマーと日本を行き来すると、いつもしばらく調子が悪くなるのだけど、今日もブロマガを書こうとしたらタスクマネジャー先生すら起動しない完全フリーズ。リカバリにすっかり時間をとられまして、どうにもこうにもいんぐりもんぐりです。



(食事の布施のため、列をつくるお坊さんたち。白い服の子たちは、ちょっと特殊な身分だけど)


さて、そんなわけであまり時間はないのですが、ツイッターで「so what病」の話をしたので、それを少し敷衍して。

「so what病」というのは、何か特定の価値を「よいもの・よいこと」として提示されたときに、「うん、だからなんなの?」と言えてしまう状態のこと。

本を読んで知識を身につける、一生懸命に働いて昇進する、結婚して家族をつくる、たくさん稼いで、美味いものを食って高級なものを買う。そういったことは、現代日本において多くの場合、「いいこと」であるとされて推奨されるのですが、私たちには意識の中で自分を「あらゆる価値体系から自由な立場」に置いて(繰り返しますが、そんなものは現実存在しません)、物事を批評する癖がついてしまっていますから、「それだって一つの恣意的な価値観でしかないよね」と、ごく自然に言えてしまう。

だから、「うん、それができたらどうなるの(so what)?」と自問自答するわけですが、現象の世界のどこを探しても、全ての価値(レッテル)を価値づける究極の価値などというものが見つけ出せるわけではないので、「なんだ、じゃあ結局なにをやっても無意味じゃないか」と感じ、生きていてもあまり幸せであると思えなくなる。「so what病」とはそういうことですが、これを(敢えて皮相な言葉遣いで)「現代的ニヒリズム」と呼んでもいいかもしれません。


この状態から脱却する道は、私の見るところでは二つあって、一つは外側から見ている限りでは全くもって「完全」ではない、ある特定の価値体系の世界に、敢えて目をつむって飛び込むことです。

「生きがい」とか「自分探し」とかいう言葉が、しばしば世の中を騒がせるようになって長い時間が経ちますけれども、「生きがい」にせよ「自分」にせよ、もしそんなものが存在するとすれば、それは「わけもわからず走っているうちに、いつのまにか内面化されているもの」です。よく言われることですが、「自分」というのは探しているあいだは見つからない。『首楞厳経』の演若達多の逸話において、アレゴリカルに示されているように、「自分」というのはわけもわからず走り回った後、実は最初からそこにあったことに気づくものです。演若達多が部屋の中で鏡を見ながら、ひたすら「自分」に関する「哲学的思索」にふけっていたら、いつまで経っても迷妄から覚めることはなかったでしょう。

あるいは、ある作家さんの話ですが、彼も若い頃に「自分」や「世界」の問題について悩んでいた。悩み続けて部屋の中で非生産的な時間を過ごすばかりだったのですが、何かのきっかけで魚市場で仕事をすることになり、その重労働を続けて半年後には、悩みがすっかり消えてしまったとか。もちろん、それで全ての「悩み」が氷解するとは言いませんが、そのように「とりあえずわけもわからず走ってみる」ことで消える「悩み」も、あんがい多いんじゃないかとは思います。


ただし、そんなことではどうしても納得できない、という人たちも世の中には存在する。そういう場合は、もう仕方ありません。どんな価値体系にも、その恣意性のゆえに満足がいかないのだから、価値やレッテルのありようがどうあろうが、そんなことは自分個人の幸せとは一ミリも関係がないという立場を、自分の中に確立する以外にない。

こういうことは、日本では例えば古東哲明さんという哲学者がずっと言い続けてきていて、その所説については以前のブログ記事でも紹介していますから、ここで繰り返すことはしません。


とはいえ、そのような立場、臨済禅師の言葉を借りれば、「随処に主となれば、立処みな真なり」という境涯に立つことはたいへんな難事であって、それこそ禅者などはそれに一生をかけるようなことですから、普通に生きている人にとっては、なかなか実現の難しいことでもある。

だから多くの人は、普通に人生を送るうちに、知らぬまに第一の道をとることになります。前回のエントリに書いたように、宗教を信じればそのこと(ある価値体系に敢えて身を投じること)は自然にできますし、またそれをしなくても、現代日本には、「金パン教」、「日本教」、「努力教」、「スイーツ教」といった、「安全」な「信仰」もたくさんある。そこに(意識的か無意識的かはともかく)身を投じることで、いつのまにか人生を幸せに生きられるようになる。そのことは、(多少の弊害はあれ)必ずしも悪いことではないと、私は思います。


ただ、そうした状況のもとで、もし敢えて「第二の道」を選びたいという人がいるのであれば、それはもちろん素敵なことだとも思います。その気になって探してみると、手段もヒントも、古今東西にたくさんあったりしますので、「第二の道」がメインの私としては、そのあたりの紹介も、今後いろいろとやっていきたいなと。



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悩む余裕があるうちは悩めばいいと思うよってtwitterの住人が言ってた
97ヶ月前
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