ファンに重ね合される女性キャラクターたち
また、作中に出てくる名前のある女性キャラクターは勘解由小路無花果(かでのこうじ・いちじく)の一人だけである。彼女は現政権のナンバー2という設定で、警察権力を牛耳り、テリトリーバトルを仕切る立場にいる。「所詮は男か」などと男性キャラクターを見下し、男性キャラからも「女め」と敵意をむき出しにされる。
彼女以外に登場する女性を全て挙げてみよう。女性恐怖症のホスト・伊奘冉一二三(いざなみ・ひふみ)に懸想して彼を殺そうとするストーカー、医者・神宮寺寂雷(じんぐうじ・じゃくらい)の病院に勤務する看護師、「モテるが特定の相手は作らない」デザイナー・飴村乱数(あめむら・らむだ)の「不特定の相手」たち、中王区のホテル内にあるレストランで働く給仕係、そして中王区で男性キャラを追いかけ回す女性の群衆だ。全員名前はなく、セリフもごく少ない。
つまり、現時点でストーリーに参加している女性は「敵」「モブ」「敵のモブ」の三種類だけなのである。
最新のCDには、実際に作中で中王区の女性が使う投票用紙が挿入され、ファンの投票でテリトリーバトルの勝敗が決まるようになっている。「敵」「モブ」「敵のモブ」にファンを重ね合わせているのだ。好きなキャラクターを応援したいだけなのに、なぜこんな悲しい立場に己を重ねなければならないのだろうか。先ほど引用したセリフも、男性キャラたちを「消費」する側としての女性が男性キャラから激しくなじられる構図になっており、後味は悪い。
「女尊男卑」の意図はどこにあるのか
かっこいい男性キャラが、ヒップホップというカウンターカルチャーを背負って社会に反旗を翻す様子を、「女性向けコンテンツとして」描きたい。今作は、そういう姿勢で作られた作品なのではないかと思う。
それ自体は魅力的な試みだ。現実のヒップホップはミソジニーやホモフォビアが目に見える形で表現されることが多く、女性にとってとっつきやすい文化だとは言いづらい。バトルでは差別的な言葉が飛び交っているし、女性が酒や金や麻薬と並べられて勝利者の性的財産として用いられている曲は無数にあふれている。ラッパーの椿へのインタビューや、あっこゴリラと荻上チキとの対談でも話題になっているように、内部から声を上げるプレイヤーはいるものの、女性としてシーンに関わる困難さは解決されていない。これらの問題をフィクションの中で除去し、「安心して聴けるヒップホップ」を作ってくれるなら、それは一つの救いだろう。
しかし『ヒプノシスマイク』は「反体制文化」をまとった男性同士の反発/連帯を描くために、「女性をパブリックエネミーにする」という選択肢が、いわば「ネタ」として無邪気に選ばれたにすぎなかった。女尊男卑設定が、差別表現の正当化に用いられたのである。制作側の誰もこの設定のグロテスクさには異議を唱えなかったのだろうか。自覚してやっているとすれば悪意があるか物語設計が非常に下手かのどちらかだし、無自覚にやっているとすればさらにたちが悪い。現実社会の問題を何も認識していないのと同じだ。
『ヒプノシスマイク』には第一線で活躍するラッパーが数多く関わっており、現実のヒップホップカルチャーとの接続は明らかである。コンテンツとしても本格的なラップであることを一つの売りにしており、「ベタ」性がない、とは絶対に言えない。
ミソジニーに晒されながら現場で抵抗を続けるヒップホッププレイヤーがいる一方で、現実の「ミソジニーのあるヒップホップ」を安全圏から表象だけ流用し、「ネタ」という体裁で正当化するのは、あまりにも不誠実ではないだろうか。
「政治的に」カルチャーと向き合う
「ジェンダーの問題を押し付けられると、水を差されたような気持ちになる」
「割り切って楽しんでいるだけなのに、私は差別に加担する悪者ということなのか」
『ヒプノシスマイク』についての批判がでたあと、このような内容のコメントが散見された。
『ヒプノシスマイク』のジェンダーについて一切問題ないと考える人や議論を避ける人を「悪」だとは言わない。作品に救われること自体は決して「間違い」ではない。ただ、「議論する」ことも「議論を無視する」ことも、それぞれ一つの政治的立場なのだという認識は必要だ。
ここでいう政治とは、狭義の政治――例えば、ニュースサイトの「政治」カテゴリで語られている話題――ではなく、広義の政治――人間集団における意思決定のための全ての営み――である。
この世に政治的でないものなど存在しない。言及する人間の自由も言及しない人間の自由もあるが、まっとうな批判を黙らせる「自由」はない。おそろしいのは全てが無批判に進むことである。今すぐに変化しなくとも、懸念を示し続けることでこの先に生まれてくるコンテンツがもう少し配慮された内容になるのではないかと考えている。筆者も一人の『ヒプノシスマイク』ファンだ。作品が魅力的であるからこそ、批判すべき部分を看過したくない。全ての文化は政治的であり、文化に向き合う行為もまた政治的であると、繰り返し主張しておきたい。
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