日韓併合(読み)にっかんへいごう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「日韓併合」の解説

日韓併合
にっかんへいごう

1910年8月 29日に公布施行された「日韓併合に関する条約」に基づき日本が行なった韓国領有。日露戦争の結果,調印されたポーツマス条約 (1905) 第2条,日英同盟 (同年改定) 第3条においてそれぞれ日本の韓国における政治上,軍事上および経済上の卓絶した地位が承認されたが,さらに日韓協約 (同年) によって日本は韓国の外交権を獲得し,韓国は国際法上の保護国となって統監がおかれた。その間,ハーグ密使事件,伊藤博文暗殺,李完用刺傷,啓蒙運動,義兵闘争,農民反乱などの広範な運動があったが,10年8月 22日第3代統監寺内正毅と首相李完用の間で「日韓併合に関する条約」に調印がなされ,「併合」は強行された。条約8ヵ条の内容は,統治権の日本皇帝への譲与,日本帝国への韓国併合,韓国皇族らへの尊称,歳費などの供与,功労者への栄爵,恩金供与,日本の国法に従う韓国人の身体,財産の保護,日本への忠誠,韓国人の官吏登用などが記されていた。この「併合」には親日派の一進会などの日韓合邦運動などがあったが,旧官人,貴族層は併合に際し自決したり,親日派暗殺,反日義兵への援助,加入を行なった。また,知識人は言論機関を通して反対声明を出したり,反対運動に加わった。またロシアやアメリカにいる知識人も反対の言論運動を行い,在韓外国人紙・誌も反対の論旨を掲げた。しかし日本は軍隊をソウルなど韓国内要地に配置し,反対運動にそなえ,総督府を設立,ここに 45年までの日本の朝鮮統治が始った。

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百科事典マイペディア「日韓併合」の解説

日韓併合【にっかんへいごう】

韓国併合とも。1910年日本による韓国(大韓帝国)の併合。日露戦争開始とともに韓国保護国化の方針を決定した日本は,1904年2月の日韓議定書,および以後3次にわたる日韓協約で実質的に韓国主権を手に収め,1908年の東洋拓殖,1909年の韓国銀行(朝鮮銀行)の設立で経済支配を確立。韓国側も激しく抵抗運動を繰り広げ,愛国啓蒙運動や1907年第3次日韓協約がもたらした韓国軍隊の解散に反対した兵士による義兵闘争を展開,5年間日本軍隊と交戦すること2850回に及んだ。1909年韓国併合の方針を決定した日本は,安重根による伊藤博文暗殺事件を機にその実行を急いだ。1910年8月22日寺内正毅統監と李完用首相とは〈日韓併合ニ関スル条約〉に署名し,併合は完了。以後韓国は朝鮮となり,1945年8月の解放まで朝鮮総督府の直接的支配を受けた。→韓国統監府
→関連項目明石元二郎桂=タフト協定桂太郎内閣高宗洪命熹黒竜会申采浩大韓帝国朝鮮朝鮮独立運動日韓会談日本村山富市内閣山県有朋李完用李朝(朝鮮)歴史認識問題

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世界大百科事典 第2版「日韓併合」の解説

にっかんへいごう【日韓併合】

1910年8月22日の〈日韓併合に関する条約〉および同29日の〈日韓併合に関する宣言〉によって,朝鮮(当時の国号は大韓帝国)が日本の植民地にされたこと。韓国併合ともいう。今日常用されている〈併合〉という語は,このときに植民地支配の本質をおおい隠すために案出されたものである。いわく,〈韓国が全然廃滅に帰して帝国領土の一部となるのを明らかにすると同時に,その語調の余りに過激ならざる文字を選ばんと欲し種々苦慮したるも,遂に適当の文字を発見すること能わず。

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世界大百科事典内の日韓併合の言及

【朝鮮】より

…そして,明治以降の日本では,前近代にみられる平和的,友好的な日朝関係や日本が朝鮮から受けた恩恵は無視されて,伝説にすぎない〈神功皇后の三韓征伐〉や,あからさまな侵略である倭寇とか,豊臣秀吉の対朝鮮戦争が日本の海外雄飛の事例として宣伝され,また,〈任那日本府〉などが,大和朝廷による南朝鮮植民地支配の疑う余地のない歴史的事実とされ,朝鮮を劣等視する蔑視観が醸成されることになった。朝鮮の植民地化(日韓併合)は,古代の〈偉業〉の復活であり,さらに原始・古代の日朝文化の共通性も〈日鮮同祖〉を示すもの(日鮮同祖論),日韓併合は分家が本家に戻るようなものとされるなど,ゆがめられた前近代の日朝関係史像は日本の朝鮮侵略,植民地支配に最大限に利用されたのである。日朝貿易【矢沢 康祐】
【日本の侵略と植民地支配】
 自主的近代国家をめざす朝鮮社会の内在的発展の歩みは,開国前からすでに始動していた。…

※「日韓併合」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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