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「信」と金パン(下)
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「信」と金パン(下)

2013-06-05 23:52
  • 4
いやいや。

放送でも言いましたが、ブログ投稿を夜にしたのは、「あまり時間をかけないようにすることで、長くて重たいエントリではなく、軽く読みやすい文章をコンスタントに生産するため」だったのですが、いきなり続きものの記事を書いているようでは世話はない。

そんなわけで、今回はこんな感じで、軽めに書いていこうと思います。



(犬である)



さて、現代日本では多くの場合、逆に考えられているのですが、かつてこの記事にも詳述したように、「信じる」ということは「責任を取る」ということです。

前回のエントリの最後にも書きましたが、自分の生き方にある「筋」を選択し、それを保って生きるということは、その生き方に責任を取るということです。宗教者でなくてもそういう人はたくさんいるし、またそういう人たちは、多くの場合、人からの尊敬を受けますね。

尊敬の念(Achtung)というのは、カントの定義によれば、「自愛の念を挫く感情」です。我が身かわいさゆえに、私たち凡人は己の欲求の対象に引きずられて右往左往し、カント用語で言えば傾向性の奴隷になりながら生きている。しかし、そこで例えば「道徳法則に従う」という「筋」を通して生きている人間を見た時に、私たちの「自愛の念」は挫かれ、「自分もそのようでありたい」と思う。その感情を、カントは「尊敬の念」と言っているわけです。

このような人物の例は宗教(信)者に限らないというか、ほとんどの人にとっては、宗教者以外の具体例を、自分の人生経験の中に思い浮かべることができるでしょう。宗教の信者というのは、自分の「筋」を他者に預けてしまっている人たちだと一般には考えられることが多いですから、この意味での尊敬の念はむしろもちにくいと、考える人のほうが多いかもしれない。

ただ、これは実のところそうでもない。少なくとも私の観察した範囲では、「宗教のヒト」というのも、自分の筋を保って生きようとしているという点では同じですから、実際つきあってみると、上述の意味での「尊敬の念」を、感じさせられる人というのはわりと多い。前回の記事の冒頭で、私が言ったのはそのことです。
(もちろん、同じ箇所に書いたように、ヤバい人もたくさんいるんですけどね)

もとより宗教を信じることは、「筋を通して生きる」ための必要条件でもなんでもないのですが、前回書いたように価値判断というのは究極的には「無根拠」なものですから、「どれを選んでもいいよ」と言われると、結局なにも選べないものでもある。どの価値体系だって、理屈の立て方によっては、まさに「等価値」に並べることができるので、かりに「全く自由な状態」(そんなものは実在しませんけど)から選ぶとすれば、決め手はどこにもなくなるわけです。

宗教をもつということは、そこの悩みをクリアできるということである。したがって、宗教をもつということはとくに必要ではないけれども、それがあることによって、筋を通して生きやすくはなると、言えるかもしれません。


さて、ならば現代日本人は、バカバカしいと一生懸命に否定しながら、同時に心のどこかで何か憧憬のようなものを感じないでもない「筋を通した生き方」を実現するために、宗教を信じることにすればよいのか。もちろん、ことはそう簡単には運びません。

上に「信じることは責任を取ること」だと書きましたが、なぜそうなるかといえば、ひとつには当然のことながら、何かを信じるということが、何かを捨てるということだからです。

何かの価値体系を意識的に選択し、それをもって行為の準則とするということは、その体系の中で低級に位置づけられるものや、そもそもその眼中にないものなどを、いわば切り捨ててしまうということです。違った理屈の立て方をすれば、それらに別の位置づけを与えて「救う」ことも可能なのだから、自分の意志で敢えて「捨てる」からには、そこに責任が発生するということ。現代日本人には、これがたいへんやりにくい。

捨てないでいることも可能なものを敢えて捨てて、そのことに責任を取って生きるからには、その決断の正当性、あるいは「根拠」を探したくなるのが人情です。しかし、そんなものは当然のことながらどこにもない。どこを探したって、原理的に存在しないのです。それでも決断しようと思うなら、そのクレバスを、どこかで目をつむって跳び越えるしかない。


そこで多くの人は、社会のまあ大多数に文句を言われないような価値判断に、ついていくという選択をする。現代日本なら「金パン(金銭と性愛)」ですね。「恋愛はいいものだ」と言っておけばとりあえず怒られないし、「お金が大切だ」と言うことは、現代日本の言説空間の中においては、ほとんど「政治的に正しい」物言いであるようにすら感じられる。もちろん「金パン」などというものは、カントのみならず古今東西ほとんど全ての思想家や宗教家たちが唾棄してきた「傾向性」そのものなのですが、それだけ叩かれても生き残るだけの(人間の本性に根ざした)共感の対象としての優秀性がこれにはあるので、資本主義で自由主義の社会の中では、これについていけば、いちおう間違いはないわけです。


長々と書いてきましたが、ここまでの文章を読んでくださった方の中には、「それで何が悪いの?」と思う人が一部(ひょっとしたら大多数)にはいるかもしれない。それはそれで、もちろん構わないのだと思います。そういう方々に別の生き方を強制する気は、私にはありませんし、そうするための言葉ももってはいません。

ただ、世の中には一定数、こういうことを考えがちな人たちがいて、そういう人たちにとって、上述のような現代日本社会の状況は、難儀なものだろうなあと思ったりします。

こういう話は、以前のブログでも言葉を変えながら繰り返ししてきたのですが、こちらのブロマガでは、「その種の人たち」が、「ではどうしたらいいのか」という点に関する私の考えも、ときどき記していくことがあると思いますので、まあその前提のまとめとして。





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こんばんは6xです。待望のブログ再開いいゾ~コレ
生命に否応なくまとわり付いている靄々(文中にある傾向性?)が、明晰に言語化されていくこの時間を待ってました。同じようなことを考えるべき状況に遭遇しても、不注意自堕落に生きてしまっているので、記事のような背筋のしっかりした結論を得ることがなかなか出来ないでいるのです……
と言うのも、実はつい最近、あるニコ生の枠で「我々は物語を持って生きたほうがよい」という どこかのブログの記事が話題になった際、「これは物語を持つことで生ずるトレードオフを軽視しているね!」とかサラッとコメントしたのです。
エンターキーを叩いてコメントを送り出した瞬間に(あっ、コレ突っ込まれたらヤバイ!)と直感して冷や汗ですよ。
こんなもっともらしいことを言っといて、その背後はガバガバとか、なんか郷原の二文字がチラつく。
その時からというもの、一日1クロックくらいの速度で「何がトレードオフになるのか? 何を失うことを恐れてるんだろう」などと考えていましたが、しかしこのエントリに出くわして氷解しました。FOO↑気持ちぃ~!
思うに、前述のような場面で口をつぐむことなく、たちどころに己の見解としてエントリのようなことを示せるのであれば、人間としてもう筋が通っていると見ていいのではないか。書いた当人のニー仏さんには可能なのでしょうし、そして私には今の所できないので、尊敬の念を措くあたわざるところであります。
まだ他にも山のような傾向性を引きずっているので、それが次なるエントリと更なる幸運な出会いをすることを期待しています!
97ヶ月前
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人間が幸福という概念の追求を捨てて、価値観から開放されるために人間をやめるのか、それとも人間で居続ける価値を見出すのか、現代の人々はどちらを選択するのでしょうね。
97ヶ月前
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>luckycookieさん

ああ、このアカウントが6xさんだったのですね。いつもありがとうございます。今後もこんな感じで更新を続けて行きたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

>胸甲騎兵さん

そこから本当に解放されたいと思うのであれば「全員出家」するしかないわけで、それは人類滅亡と同義ですから、現実的には無理でしょうね。価値との付き合い方を、考えていくしかないのだと思います。
97ヶ月前
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文中でカントの尊敬の念を取り上げ、「自愛の念を挫く感情」としていたのですが、
カントはその感情と表裏一体をなす「道徳的熱狂」にも十分警戒心を持っていたのは注意するべきですね。

たしかに、自分の利益優先・自分の責任回避を根源とする各々の自己愛を跪かせるような、
そんな高貴な人や思想体系を信仰したくなってしまうのは、理性的存在者である人の本能とでもいえそうなことですが、
かといってそれが”妄信”とでも呼ばれそうな思考停止した称揚になってしまうと、とても危険です。
第二次世界大戦ではアドルフ・ヒトラーはドイツ人から”高貴”とみなされていて、
彼の思想や政策が今なお大きな傷跡として認知されている現状を見れば、想像にたやすいのでしょうが・・・

あぁ、人生とはなんと難しいことなのでしょうか・・・
97ヶ月前
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