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「信」と金パン(上)
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「信」と金パン(上)

2013-06-03 23:58
    「信じる」ということについてつらつらと。

    私には業界柄、宗教のいわゆる信者、信徒の知り合いがけっこういて、それが世の中(とくにネット上)でしばしば叩かれるほど悪いものではないのを知っている。もちろん、(その人の脳内にある)教義に対する盲信の度が酷くて、他人に対してひたすら罵詈雑言を投げ続けているような人もいて、そういう「信者」を見ると、「バカが宗教にハマるとロクなことはないなあ」と思うけれども、まあ新宗教だろうが伝統宗教だろうが、ほとんどの信徒さんにはそういうこともなくて、むしろ宗教を信じることで、この人の人生は確実によくなっているんだろうなあと思うことが多い。





    何がいいのか。まず何よりも、当該の宗教が説く価値を信じることによって、その人の生き方に芯ができる。

    かつて別のところで詳述したように、論理学の常識として「事実から価値を導くことはできない」のだけど、価値判断をしないで生きていける人間もいないのだから、私たちは誰でも、(事実から合理的な推論によって導くことはできないという意味で)「無根拠」な価値を「信仰」しながら生きている。「自分は科学的世界観によって生きているから信仰は一切ない」というようなことを言う人も時々いるけれども、科学の知というのは定義上、事実判断に関しては当てになっても、価値判断の直接的な根拠としては当てにならないし、またそうしてはならないものでもある。したがって、私たちが日常的に行なっている「善悪」の価値判断について、それを「科学的世界観によって」行なっていると言うのであれば、それは「科学」に対する初歩的な誤解、または勘違いということになる。

    そんなわけで、私たちはいつでも(濃淡の差はあれ)ある種の「信仰」をもって生きていることになるわけだが、確固とした特定の思想信条、あるいは宗教をもっていない人々(現代日本人の相当数がそうだろう)は、どうしてもその「信仰」が揺れ動く。昨日いいと思ったことが、今日はいいと思えなくなる。そのように悩むことで、程度の差はあれ人は疲労し、エネルギーを浪費する。いわゆる「宗教のヒト」は、そのことが相対的に少ないか、あるいは場合によってはほとんどない。

    まあもちろん、このように言うと現代日本人であれば多くの人が、「自分はそのような宗教に基づいた固定的信条などもちたくないし、またもっていないほうがよいと思う」と言うだろう。その場合は、「宗教」という言葉を外して考えても別に構わない。ここで話題にしているのは、「自分の生き方に責任を持ち、筋を通して生きている人」のことだから、その「筋」が宗教でない場合に、自分や世間がどのようにその人を見るかを、考えてみていただければよいのである。


    ……と、いいところで時間切れになってしまった。
    この稿つづく。



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