アメリカで、私はステレオタイプをたびたび利用した。つたない英語では聞き手を楽しませる自信が持てない。ところが、ちっぽけな女の子が日本のオールドメンズクラブで苦労してきたという型にはめて自分語りをすると、スタンディング・オベーションを起こすことができる。

でも、そのたびに、本来複雑な自分自身の物語が、枠にはめられ削り取られていくことに、私はうすうす気づきはじめていた。そしてね、私は思ったの。私だけの物語は、アジアの名のない弱者の物語になって、そしてどこかの強者を正当化するために利用されてくんだって。

だって、私はおかしいと思うの。東京五輪に興味ない、さらにいえば日本についての興味が薄れている欧米メディアが、森氏の発言に、そして「オリンピッグ」に飛びつくのはなぜだろう。

強者を正当化するためのステレオタイプ

佐々木氏は渡辺直美さんの容姿を揶揄したことが問題視された。だが、似たような話はアメリカにも後を絶たない。

2016年、ハーバードの男子サッカーチームが、学内の決定によって、アイヴィー・リーグのチャンピオンシップを含むそのシーズンの残りの公式戦には出場停止となった。発端は2012年、男子サッカー部の仲間内で出回った「スカウティング・レポート」にある。このレポートの中で、彼らは女子サッカー部に入った6人の新人女子部員を、容姿を含めて格付けしていた。

また、2016年の米大統領選を前に、ミス・ユニバースを主宰していたドナルド・トランプ前大統領が、受賞の後に体重が増加したベネズエラのアリシア・マチャドさんを「ミス子豚」と罵っていたことが問題視された。

1996年にミスユニバースを受賞したアリシア・マチャドさんと、トランプ前大統領。受賞後に体重増加したアリシアさんを「ミス子豚」「食べる機械」などと罵っていたことが大きな問題に。[PHOTO]gettyimages
-AD-

女子サッカー部員の容姿を格付けする、ビューティーコンテストでスタイル抜群の女性たちを並べる……こういうメンタリティは確かに欧米にも共通に流れている。

だって、変じゃない? ブタの顔文字に“=”で「渡辺直美さん」をつなぐことが、どうして“女性”蔑視になるの?  男女に関係なく、間違いなく失礼だろう。この背後にあるのは、男性は太っていても貫禄がある、女性が太っていると醜悪だっていう価値観じゃないか。つまり、女性を容姿で評価するという土台は日米共通に、確かにそこに存在している。

そう、欧米においてもなお、女性は容姿を評価されて選ばれる客体の側で、決して選ぶ主体の側じゃないのだ。それに潜在的に自覚的なアメリカの男たちは、だから、日本人男性の強烈な女性蔑視のエピソードに飛びつく。

「ほーら、ごらん、僕たちは彼らよりはだいぶましだろう」そうやって自分たちの現状を肯定する。そして選ぶ側、選ばれる側という本質的な境目を変えずに維持していこうとする。

それは、メーガン妃のエピソードでも同じだ。いまだに黒人差別が消えないアメリカという土壌で、イギリスはもっと差別的だという物語に白人たちは溜飲を下げる。つまり、弱者というステレオタイプにはめ込んで、私たちが自らの物語を語ることで、それはより強者の正当性を補強する材料として消費されていくのだ。そう、ステレオタイプという神話は、支配者側に資するフレームワークになっている。