訳者解説:
学者は政治問題や社会問題に、積極的に関与すべきなのでしょうか。本記事の著者マッシモ・ピグリッチ氏は、学者は「活動家主義」から離れるべきだと言います。
以前、ある記事を紹介しました。分析哲学者が社会貢献や、政治問題に取り組みたいと願っていること。またその背景には厄介な事情があると語ったコフィー・ブライト氏の論説です。(哲学者が、「分析哲学は、衰退しつつある」と悲観するワケとは? 翻訳:「分析哲学の終焉」, リアム・コフィー・ブライト)
今回の記事は、対照的です。"もし専門家が社会的・政治的な活動に深入りすれば、専門家としての判断能力が損なわれるし、信用もなくす。活動家としても効果は薄い。だから辞めたほうがいい。とはいえ、どのような活動が「活動家」的なのか。専門家は象牙の塔に引きこもり、何も社会貢献するべきではないのか。そうでないとすれば、どういう行動を推奨できるのか……"こうした興味深い議論を、ピグリッチは行っています。
著者のマッシモ・ピグリッチは、ニューヨーク市立大学の哲学教授です。科学哲学の博士ですが、生物学と遺伝学でも博士号を取得しています。かなり圧の強い経歴です。議論を自分の疑似科学批判という「活動家的な行動」にも適用し、自己批判する箇所が読みどころの一つです。どういう結論を出したのでしょう?
学者は"政治"をやってはいけないのか?ー信頼できる専門家と偏った活動家との間の、微妙な境界線ー
原題:Should Academics Stay Out of Political Activism?
著者:マッシモ・ピグリッチ
原文:www.philosophersmag.com/footnotes-to-plato/96-should-academics-stay-out-of-political-activism
原文公開日:2015 年 12 月 7 日
数週間前に、ニューヨーク大学の社会心理学者であるジョナサン・ハイトとコーヒーを飲みながら楽しくおしゃべりしました。といっても彼とは、現代におけるアカデミーの役割やどうあるべきかについて、必ずしも意見が一致するわけではありません。この会話は、私が珍しくも(全部ではないけれども、大まかに)ジョナサンに同意して、大学の授業でのいわゆる「トリガー警告」*1は、有用性よりも問題のほうが大きいといった事を、ツイートしたのがきっかけでした。
その数日後、ジョナサンから、『哲学的心理学』誌に掲載されたバー・ヴェン・デル・ヴァーセンの論文「象牙の塔を擁護して:なぜ哲学者は政治に関わってはいけないのか」のコピーが送られてれてきました(残念なことに有料記事なんですが、著者にメールするとコピーがもらえますよ)。ヴェン・デル・ヴァーセンの主張はとりわけ哲学者が対象です。しかし同様のアプローチを、アカデミー一般まで広げることができると思います。
この論文の基本的なアイデアはこうです。政治的な活動主義に携わることは、とくにあなたの研究に直接関係するテーマについては、職務上の義務と衝突してしまい、分野における学者としての評判と活動家としての効果、その両方を損なう可能性がありますよ、というものです。
ヴェン・デル・ヴァーセンは、自らの主張がとりわけ哲学の長い伝統に反していると強く自覚しています。カール・マルクスは、「(哲学の)目的は世界を解釈することではなく、世界を変えることだ」と述べました。そしてもちろんプラトンは、活動家主義をはるかに踏み出て、哲学者は啓蒙された社会において理想の支配者になると主張していました(結局、後者は経験的に妥当しないようです。大胆に結論づけるにはおそらく事例が少なすぎますが…)。いずれにしろ、現代の理想的な学者とは、社会参加する人のようです。実際にそのような理想が実行に移されることは、ほとんどないのですが。
ヴェン・デル・ヴァーセンは、いくつか興味深い点を指摘しております。真剣に検討すべきでしょう。ここでは彼の主張を要約し、それを私自身の「活動家主義」の形、つまり疑似科学への公的な取り組みと批判へと適用してみましょう。
ヴェン・デル・ヴァーセンが懸念するのは、政治的活動主義への関わりが、人々の党派的思考を助長することです。これには2つの問題があります。
1つ目は、学者が自分が受けもつ学生や同僚からの信頼を、即座に失ってしまうことです。なぜなら、彼女は自分の研究テーマから十分に距離を取れていない。そのため公平な判断を下すことができない(あるいは、ひとができるほどには、公平に判断を下すことができない)と、そこで見なされるからです。
2つ目は、認知科学の研究から、ひとたび党派的な立場をとれば、通常よりたくさんのバイアス、とりわけ確証バイアスと内集団バイアスの影響を受けやすくなる証拠が得られていることです。
ヴェン・デル・ヴァーセンはいくつかの思考実験を用いて、彼の論点を説明しています。うち一つは、架空の外科医サムを題材にしたものです。
「外科医のサムは、明日の早朝に、ある患者の大手術を行う予定です。サムはそのことを分かっています。またサムは睡眠を十分にとっておいたほうが、概して上手くやれることも知っています。 それでもサムは前夜、友達と飲みに行きました。ベロベロに酔って数時間しか寝ていない状態で出勤し、手術を行いました。」
話の要点は、仮に手術がうまくいったとしても、これをすれば自分の専門的な判断が損なわれるかもしれないと分かりつつ、サムが進んでリスクを取ったこと。つまり重大な職務怠慢をしでかしたことにあります。
活発に政治的活動をしている学者は、学者や教師として職務上の義務があるのに、その傍らで、確証バイアスが増大するリスクを冒してまで政治的活動を行っている。だからサムと同じことだとヴェン・デル・ヴァーセンは主張しています。
ヴェン・デル・ヴァーセンはそこからある予防原則にたどり着きます。これを「責任あるプロフェッショナリズムの原則 Responsible Professionalism 」(RP)と名付けています。"ある役割や職業に就いた人は、自分の仕事を劣化させると予想される事態を避けるべく、合理的な努力をすること。この一見自明な道徳的義務を負う」*2
繰り返しになりますが、いいとこ突いてると思います。ヴェン・デル・ヴァーセンはこの原則を、政治哲学者の具体的状況へと適用しています。ヴェン・デル・ヴァーセンは、この種の学者の仕事は、政治についての真理を追求することであると主張しています(「真理」という言葉に抵抗がある場合は、政治的なことがらを可能な限り客観的に理解することと言ってもよいでしょう*3)。
ヴェン・デル・ヴァーセンは、学者の仕事が記述的、または規範的な意味で公正に行われる可能性もあることを慎重に認めています。しかし後者であっても、それが政治的行動主義と同じでないことは明らかでしょう。例えて言うなら、橋にかかる力を研究するエンジニアを想像してみてください。
エンジニアは研究を記述的に行えますが、実際に橋を作り始めた人々は、エンジニアの仕事を規範的に解釈するべきです。私たちは、ある特定の方法で橋を作らなければならない。さもないと橋が崩壊して、人々が怪我をしたり死んだりする。これは誰も望まない結果でしょう。
これが政治哲学者だとどうでしょうか。そうですね例えば、彼女はリバタリアン的な傾向を持っているかもしれません(ヴェン・デル・ヴァーセンの挙げた例)。そのため、リバタリアン的な傾向を持たない学術的な文献を取り上げるのを、拒否するかもしれません。ジョン・ロールズの研究を無視したり、軽視したり。なぜならご存知の通り、彼女はそれが間違っていると思っているからです。(全く同様に、ロバート・ノージックのようなリバタリアンの政治哲学者を、無視する進歩的リベラル派もいます)。
ヴェン・デル・ヴァーセンの主張は、理論的なものだけではありません。認知科学の豊富な証拠にも依拠しています。例えば2008年に発表されたウェステンの研究を引用しています。ウェステンは「政治家の行動を、一貫性がある、偽善的である、信頼できる……などと、熱心な民主党員と共和党員に評価してもらいました。政治に深く関わっている参加者ほど、最も深刻に偏った推論を行うことを、彼は発見しました」。
コーエン、ハイド、リアリー、ラーナーとテトロックによる後の研究では、過去10年ほどの期間の私たちの推論方法は、自分が責任を負っていると考える特定社会集団に抱くアイデンティティの意識から、強く影響される事が明らかになっています。もちろんこれは、政治哲学だけに限りません。同僚の進化生物学者に、インテリジェント・デザイン*4の議論を真剣に信じていると伝えたり。疑似科学をうさん臭がる人に、第六感の話には何かがあるかもしれない…と考えていると伝えてみてください。とても激しい否定的反応が返ってくることを保証します。
もちろん、だからといって、インテリジェント・デザインの議論を真面目に受け止めるべきだ、と言っているわけではないのです。超感覚的知覚の強力な証拠が本当にあるというわけでもありません。しかし、ここがポイントです。ひとたび特定のグループの(多かれ少なかれ)「公式」な立場にアイデンティティを抱き始めると、私たちの結論は頑なになって、新たな証拠を受け付けなくなり、客観性と信頼性の両方を失うのです。
ここで科学を擁護し、疑似科学を批判している私自身の「活動家主義」について触れておきます。90年代後半、テネシー大学の進化生物学者だった頃からそうしてきましたし、ニューヨーク市立大学シティカレッジで科学哲学者として働いている今だってそうです。そのことで私は、ヴェン・デル・ヴァーセンの「責任あるプロフェッショナリズムの原則」に違反しているのでしょうか? これは私が考え込んでいる、重たい問題です。何らかの政治的活動に関わる私の同僚たちも、自分自身に対して真剣に問うべきでしょう。
その答えは、さらに多くの問題に依存しているようにも思えます。まず第一に、何をもって「活動家主義」とするのか。政治哲学の分野では、他の分野よりも明確になっていると思います。例えば、政治哲学者が特定の大統領候補を公然と支持することや、選挙運動のために動くこと。そうしたことは疑いようもなく活動家主義です。それは避けるべきことだと言うヴェン・デル・ヴァーセンに私は同意します。しかし政治哲学者は、党派的な立場でなく専門家視点でする限り、大統領選挙に関する論説を書いたり、問題点や候補者についてコメントすることができます。
疑似科学の場合は、専門家として役割を果たすことと、活動家主義に従事することの境界線が、もう少しぼやけているかもしれません。「懐疑論者」の会議に出席することは、おそらく活動家主義に該当するでしょう。私が次回そのような招待を受けたときは、よく考えてみる必要があります。しかし我々の最良の知識からすれば、子どもへのワクチン接種の拒否は危険なことであり、非合理的な振る舞いです。このように指摘する論説記事を書くのは、単に自分の専門領域における事実に対する理解を述べているに過ぎません(特に私は単に哲学者であるのではなく、生物学者でもありますから)。
一般向けの疑似科学本を書く場合はどうでしょうか? 繰り返しになりますが、ヴェン・デル・ヴァーセンの政治哲学者の場合と同様に、どう書くのか次第だと思います。(明らかに挑発的なタイトルの論文にもかかわらず)彼は、専門家は一般大衆に向けて書くべきではない、と主張しているのではないでしょう。特定の党派的立場から主張する活動家としてではなく、むしろ特定分野の専門家として書くべきであると彼は言っているのです。
政治学や経済学のように意見の不一致に合理性がある分野から、疑似科学のように意見の相違が理不尽である分野へと移ると、難しい問題が現れるようです。前者の中でさえ、個人的好みはどうあれ専門家ならば、ナンセンスであるとされて、または蓄積された経験的証拠によって明確に反論されて、退けられる立場もあるでしょう。しかし例えば、データや議論を(それ以上)見ずに占星術を否定する科学者を、「党派心むき出し」だと非難するならば馬鹿げています。占星術は死んでおり、そう言うことは認知バイアスを反映しているようには思われません。ただ現実を反映しているのです。
以上のように、ヴェン・デル・ヴァーセンは厄介な問題を提起しているでしょう。それは、いわゆる「象牙の塔」の外に出ようとする学者なら誰でも、慎重に検討するべき問題なのです。私たちは常に自分に問いかけるべきです。社会の問題を解決するために、専門知識で貢献することと、何があっても特定の大義にコミットする、イデオロギー信者になること。これらの間にある、ぼやけていると認めざるを得ない境界線を、一般向けに書くことや、語ることでもって、超え出てしまってはいないでしょうか。前者はアカデミアの価値を高めるものですが、後者はアカデミアの信頼性を土台から掘り崩すものです。
*1:訳者:大学の講義で、ショッキングな画像や映像、意見を提示する時に行う、学生への警告。参考:
アメリカの大学でなぜ「ポリコレ」が重視されるようになったか、その「世代」的な理由(ベンジャミン・クリッツァー) | 現代ビジネス | 講談社(4/7)
*2:訳者:一見自明な道徳的義務; a prima facie moral duty。倫理学用語「一見自明な義務; a prima facie duty」を想定していると思われる。(倫理学者の)”ロスは、「ウソをついてはならない」 とか、「困っている人を助けるべきである」 という一般的なルールが正しいことは自明であるが、 特定の状況においてどのルールが優先されるか (すなわち、何が自分の義務であるか)は議論の余地があると考えた。 この意味で、ウソをつかない義務や、困っている人を助ける義務は、 一見自明な義務(prima facie duty / conditional duty) ではあるが、本来の義務 (duty proper / duty sans phrase)ではない、と言われる。” https://plaza.umin.ac.jp/kodama/ethics/wordbook/ross.html
*3:訳者:「真理」の箇所は、原文ではtruthを指して”t-word”と述べている。t-wordには様々な意味があるが、政治的に慎重に扱うべきテーマや「タブー」を意味するようである。
*4:訳者:生命や宇宙は、知性のある何者かによって創造されたとする理論。ID説。