BOOK REVIEW――思考のためのブックツール・ガイド
1997/Spring
なぜわれわれの人生の大半は、労働や企業に奪われるのだろうか。
なぜわれわれの大半はサラリーマンとなり、毎日毎日同じ生活をくり返して、一日10時間も働かなければならないのだろうか。
なぜサラリーマンたちはあんな集団のロボットのような生活を、毎日つづけられるのだろうか。
なぜわれわれは一流大学や一流企業をめざして、人生の多くの楽しみを放棄して、勉強しなければならないのだろうか。
なぜわれわれの人生は単線型のコースだけで、そこから踏み外すことも、寄り道することも、人生の楽しみや満足も享受することができないのだろうか。
この社会はなぜこんなに拘束や束縛の多い、人生を謳歌できない、生産優位社会、会社中心主義の社会になってしまったのだろうか。
社会や個人が存在せず、ただ企業集団だけが存在するこの異常な社会は、いったいどのようにかたちづくられ、どのようにその異常さを堅持するメカニズムを保持しつづけているのだろうか。
なぜわれわれは一流大学や一流企業をめざしたり、マイホームを建てたり、画一的なレジャーや流行を追ったり、だれもが同じになってしまったのだろうか。
社会にはこのような画一的な生活や生き方を強制するような、雰囲気や慣習といったものが存在するのだろうか。
それはいったいどのようなものだろうか。
以下に上げる書物はこのような疑問から読みはじめられたもので、「会社中心主義」や「多数者の専制」といった暴虐から、これらの書物は、そのメカニズムを解明し、われわれを救ってくれるだろうか。
奥井智之『60冊の書物による現代社会論 五つの思想の系譜』
中公新書968 560円
わたしが現代社会論の大要をつかむことができたのは、この本によるところがひじょうに大きく、このようなすぐれたブックガイドがなければ、わたしは以下にあげる社会論の名著に出会うことがなかったかもしれない。
「大衆社会論」「管理社会論」「消費社会論」などの項目別にそれらの主立った著作が紹介されており、どのような人物や著作がどのように評価されているか、どのような問題や難題がのべられているのか、しっかりとわかるようにできている。
このブックガイドはわたしの心をとてもかきたてた。
小説が社会論の案内役となっていたので、文学が好きな人には入りやすい本だ。
今村仁司『現代思想のキイ・ワード』 講談社現代新書788 550円
この本は社会哲学から現代思想のキイ・ワードを捉えた本であり、わたしにとって、すぐれた現代思想の指南書となった。
現代思想家たちのそうそうたるメンバーが、どのようなことを問題にし、どのようなことを語っているのか、ひんぱんにとりあげられている。
「ノマドロジー」「脱中心化」「ディコンストラクション」「群集」「暴力」「自由」などといったキイ・ワードが思想家を中心に語られている。
今村仁司という人は、現代思想家たちをひじょうに魅力的に語ったり、興味をもたせたりするのが、ひじょうにうまいと思う。
今村仁司編『現代思想を読む事典』 講談社現代新書921 1650円
なにか知りたいことや疑問があったときに、これほど重宝する事典はない。
わたしはいつもなにか疑問に思い、解けない問題が出てくると、たいがいこの事典にたよった。
日常やふだんの生活から出てくる哲学的な疑問には、それを解くための「手がかり」が、まったくない。
テレビは自分たちの言いたいことをしゃべり、書物は自分の意見を語ってゆくだけで、自分から問いかけてゆく疑問や問題には、だれも答えてくれない。
そのとっかかりとして、現代思想のあらゆる問題や項目、人物、参考文献を網羅したこの事典は、ひじょうに役に立つ。
でもそれよりも、すぐに解答を与えられるより、粘り強く、自分で思考してゆくほうのほうがもっと大事かもしれない。
自分で考えた思考は、自分の実感として感じられ、リアリティのある世界として感じることができるが、書物の言葉や文脈は、自分の思考ほどに実感は感じられないのである。
オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』 ちくま学芸文庫/白水社 1700円

現代の危機を、均質化や画一化を押しつける大衆が権力の座にのぼったことにあると警告する大衆社会論の名著である。
大衆というのは、自分が他人と同じであることに喜びを感じる人であり、だれもが自分とは違ってはならないと思い、そこからはみ出る人や物事を排斥しようとする傾向のある人たちである。
オルテガはこのようなタイプの人間が多数出現することは、歴史上の衰退期にはいったことであると警告する。
わたしは、「みんな」と同じ生き方をしなければならない現代にひじょうに強いいらだちや不満を感じていたので、この書の辛辣な批判はとてもこころよかったのだが、同時にそれは、自分自身にも鋭い刃先を向けることになった。
自分が、均質でない人間でないと思い込んだり、表明したりすることは、集団のなかで、よほど強い人間でないと耐えれないのではないだろうか。
またこの見解は大衆に対する侮蔑や差別を生み、ヒエラルキーをつくりだし、大衆は支配されるべき奴隷であるというような考えかたを生み出してしまうのではないだろうか。
だから、わたしはこの見解にはすこし距離をおいて見ていたいのだが、画一化や均質化を強制するような社会は、断固、変えられるべきであると思っている。
オルテガ・イ・ガセット『個人と社会――人と人びと』 白水社 2400円
ただ「みんな」や「大勢」がやっているから、自分もしなければならないという「慣習」。
いったいその慣習は、だれが命じ、だれが義務を課しているのだろうか。
それはほかの人たち、世間、社会――特定のだれでもない人びとである。
慣習とはだれが命じたのでもなく、だれが義務を課したのでもなく、ただほかの大多数の人たちがおこなっているから、おこなうという、非人間的で、機械的で、残酷なものである。
あなたはあなたがおこないたくないものでも、慣習や「みんながやっているから」、あるいは「流行」だからという理由で、強制されたことはないだろうか。
われわれは自分の自由な意志や自由な決断によって、行為をすることができるはずなのに、だれが決めたわけでもない、しかし従わなければ懲罰や敵意をあたえられてしまう、慣習のロボットや奴隷になり下がってしまっている。
この慣習の発生源や起源はどこにあるのだろうか。
このことを知ることにより、われわれは無意味な慣習や、なびきたくない慣習、変えるべきである古い社会的強制力から、訣別することができるのではないだろうか。
このことについて考察したオルテガのこの書は残念ながら、途中で終ってしまっている。
エーリッヒ・フロム『人間における自由』 東京創元社 1700円

産業社会や市場経済に奉仕させられる人間についての警告を発しており、その道具となるような心理メカニズムがどのように形成されているのか、といったことなどが考察されており、フロムは鋭い手腕でこれらの状況を、時計を分解するように解析してゆく。
現代社会は、人生の目的を幸福だと強調するが、じつは労働や成功、金が目的だと教えこんでいるといったり、親がよく教える「利己的」になるなということは、自己や自己の幸福や愛を遠ざけ、権威の要求に従うことだ――そのように教えられた人間は、自分を愛することもできず、ゆえに他人をも愛せないのだ、といったことを、透徹した心理眼で見抜いてゆく。
鋭く現代産業社会の病根をえぐり出した1947年に出版された本だが、この問題は、現代でもあい変らず解決せず、ますますひどくなる一方だと言えるのではないだろうか。
デイヴィッド・リースマン『孤独な群集』 みすず書房 2575円

他人やまわりの人たちの目や承認、同調だけにひじょうに敏感な人たちを「他人指向型」と名づけ、そのようなアメリカ人たちの生活や日常をひじょうに詳細に分析しているこの本に、わたしは何度も苦笑いしながら、読み進めなければならなかった。
なぜならこの本に出ている、他人に媚びを売りつづける人たちというのは、まさに自分自身であり、自分の育った環境であり、社会であり、親の姿であったからだ。
他人やまわりの人たちの評判や評価に一喜一憂するわれわれのなさけない姿が、この本には仮借なく描き出されている。
他人の評判や承認を気にする自分が、ほんとうになさけなくなった。
ウィリアム・H・ホワイト『組織のなかの人間 上下』
現代社会科学叢書 東京創元社 各巻約2000円前後
企業や科学集団のなどの組織のなかにおける人間を分析したものであり、わたしは郊外住宅地のなかでの、均質化の要求がいちばん心につき刺さってきた。
わたしは郊外住宅地にうまれ育ち、そこの因習的な社会関係にひじょうに嫌悪を感じてきたのだが、この本の中に出てくるアメリカの一郊外住宅地は、まさにわたしが暮らしてきた環境とまったく同じものであった。
集団に参加するということはより多くの画一化を要求し、うまくいっているように見せかける反面、逸脱者やそこに適応させている者たちの悲しみや悩み、違和感を拭い去ることはできないとホワイトはいう。
ホワイトはこのような環境は、個人の創意と想像力を抑圧するといい、他人とうまくやる技能は、なんら満足すべき結果をうみださない、と警告している。
これは停滞や退歩をつづける現実の流れについていけない保身や組織維持だけをめざした組織や日本のありかたなどに、ひじょうにあてはまるのではないだろうか。
ウォルター・リップマン『世論 上下』 岩波文庫 460円/520円
ひじょうに感動することの多かった本である。
われわれの捉える世界というのは、じっさいの世界ではなく、あくまでも頭のなかで、まとめられた像にしかすぎないといい、マス・メディアや自分のもっている世界観などに疑問を呈する契機を与えてくれる本である。
現代の社交仲間というのは、杭につながれた犬のようにかれらの承認やまわりをめぐっているだけであるという批判は心に残った。
小牧治『ホルクハイマー 人と思想』 CenturyBooks108 清水書院 620円

ホルクハイマーという人は、ドイツで文化産業や産業社会などの管理社会に鋭い批判のまなざしを向けた哲学者で、この本はその生涯と思想を追っている。
この人は、経済や産業に組み込まれ、隷属化した現代の人間についての鋭い分析をおこなったのだが、1960年代の学生運動には、アドルノとともに体制側につくという皮肉な矛盾におちいったそうだ。
わたしはこの人の著作から、多くを学べると思ったが、『理性の腐蝕』を読むかぎり、形而上学に傾きすぎてわたしには理解できなかったのか、フロムのようには心につき刺さらなかった。
ルイ・アルチュセール『イデオロギーと国家のイデオロギー装置』
『アルチュセールの<イデオロギー>論』所収 三交社 2300円

国家が権力を維持するために生産能力の再生産をどのようにおこなっているか、といったことを考察した本。
テレビや新聞、学校、家族、など私的な領域のものが、既成の秩序への再生産をつくりだしているとアルチュセールはいう。
この本を読んでいると、いかにわれわれが国家のイデオロギー装置に日常まで浸透されているか、いかにわれわれ自身が規律づけられているかよくわかる。
ただこの装置はオルテガが慣習について考察したのと同様に、特定のだれかがコントロールしているのではなく、だれでもない人たちがみずから規則や規律を守ることによって、成り立っているものであり、そこが権力や慣習、世間の恐ろしいところである。
わたし自身もこのイデオロギー装置を、他人に対して毎日、強化させるようなことを、知らず知らずのうちにおこなっているかもしれないのだ。
この本をひさしぶりに読み返してみて、支配-搾取という仰々しい言葉や、怒りによって進んでいるかのように思えるアルチュセールの筆は、このような姿勢こそが、自分を傷つけていると知ったいまのわたしにとっては、すこし心情的に加担できない。
ただ仏教のようになんの問題もなかった、というような姿勢では、物事の解決はなんにもつかないし、でも外部の対象(と思っているもの)のために、自分を痛めつけつづけるというのもなんともバカらしい。
これはアジア的停滞を選ぶか、西洋的な「神経症的」進歩を選ぶかといった問題に重なってくるのだと思う。
いまのわたしには解決できないが、わたしは自分を苦しめるような認識はできるだけもちたくないという姿勢を選ぶ。
でもこういう人がたくさんいるからこそ、不合理な社会はいつまでたっても変わらないのも問題なのである。
ミシェル・フーコー『監獄の誕生――監視と処罰――』 新潮社 4430円

恐ろしい書である。
刑罰が街頭や広場での十字架刑や絞首刑などの見せしめの形から、監獄で矯正する刑罰にかわったときに、なにが起ったのか。
いつ監視されているかわからない状態におかれたり、規律や訓育が、徹底される監獄においては、その精神が内面化され、自動的に権力や権威に服従することになってしまう。
つまり管理される監獄というのは、精神のなかに権力の自動操縦装置を埋めこむことにほかならないのだ。
このような監獄の誕生は、われわれが暮らし、育てられたきた環境――「教育」や「工場」の誕生時期と、同時期なのである。
知識や思考、精神といったものは、権威や権力に操縦されるための「道具」なのではないのだろうか。
フーコーはこれらの一連の知と権力の著作において、いったいなにを言いたかったのだろうか。
「知」が国家の訓育の手段とするのなら、われわれはこの知を脱ぎ捨てるべきなのだろうか。
内田隆三『ミシェル・フーコー ――主体の系譜学』 講談社現代新書989 600円
フーコーというのはむづかしい。
フランスでフランスパンのように飛ぶように売れたという『言葉と物』という本は、ひじょうに興味のあることが書かれているのだが、理解するのはかなりむつかしい。
しかし知と権力にたいする問題はひじょうに惹きつけられるものがあり、フーコーの評価と同様、ますます重要な問いとなってゆくだろう。
この本はフーコーの思想の、安価で手に入る入門書となっている。
フーコーは日本に来日したさい、禅寺に見物に行ったそうだが、問題の解決を禅にもとめたのではなく、やっぱりフーコー、東洋的支配の原理をみいだそうとしていたそうである。
桜井哲夫『「近代」の意味 制度としての学校・工場』 NHKブックス 830円
デパートや学校、工場などの社会史がかなりくわしく、具体的にのべられている。
フーコーの思想を、具体的なかたちで検証している感じだが、学校、労働者、テイラーなどの広がりまでカバーしている。
フリードリッヒ・ニーチェ『道徳の系譜』 岩波文庫410円/ちくま学芸文庫
『善悪の彼岸』 新潮文庫360円/ちくま学芸文庫

とりあえず道徳についてのべられているということで、この二冊をあげておく。
かれは「善い」おこないをなせという道徳は、人間の水準をひきさげることになるといっている。
なぜなら、わたしにとって「善い」とは、自分を傷つけないことであり、それは行為だけを指すのではなく、「人格」も「能力」も含むことになる。
つまりわたしより優れた、能力のある人は、この道徳的社会においては、わたしを傷つけ、ゆえに「悪」なのである。
このような道徳基準が支配している社会においては、独立した孤高の精神性、独り立たんとする意志、大いなる理性すら、他人を侮辱するものとして、猜疑の的、危険と感ぜられるというのである。
このような世界は、精神をひじょうに卑小なもの、不具のものにしてしまう。
また、『道徳の系譜』には、犯罪と刑罰という形式が、損害や苦痛にはどこかに等価物があるという考えから成り立っており、それは経済や取り引きの考え方から出てきたものであるという、ひじょうに鋭い指摘をおこなっている。
これは社会秩序を維持するためには必要な制度なのかもしれないが、終った過去はどこにも等価なものをみいだせないし、またこの考え方が根底にある、人間関係における「仕返し」は、苦痛や苦悩を長引かせるものでしかない、とわたしは思う。
スチュアート&エリザベス・イーウェン『欲望と消費』 晶文社 1960円
ひじょうに名著である。
労働のみじめさをひきかえに、消費やレジャーに走る大衆の歴史的経緯が、涙を誘わんばかりに語られてゆく。
現代人や女性がなぜこれほどまでにファッションにこだわるのか、人並み以上でないかれらが、認められようとして、服装にその願望をみいだすのだと著者は語っている。
華やかですばらしい世界のようにみえるファッションやマスコミ、それらはわれわれの労働や毎日の不満やみじめさをなんとか目隠しようとする表面だけが七色のカバーなのかもしれない。
20世紀初頭の工場で働く詩人はこう語った。(要約)
「機械の轟音のなかで、自分が誰かということさえ忘れてしまう。
働き、働き、限りなく働く。
何のために働くのか?
わたしには訊かないでほしい。
機械は考えることさえしないんだ」
アルヴィン・トフラー『第三の波』 中公文庫 900円

現代人の画一化や均質化が、大量生産の経済によるところが大きいと気づかせてくれた未来学の名著である。
工業の大量生産時代には、どんな部品とも組み合わせられることが合理的であり、同時に仕事をはじめることが効率的なこと、モノや情報は一ヶ所に集めたほうが有利なこと、大量にモノをつくったほうが安くしあげられること、このような原則が支配しており、それはわれわれの全生活や行動様式、社会の仕組みのおおくのものを覆いつくし、影響をあたえていったのである。
しかしこれからは第三の波とトフラーがいう、情報化社会の波がやってきて、このような基準を洗い流してゆくという。
つまり工業社会の原則は、経済や効率にとっても有利にはたらかないのだ。
現在、いたるところで工業社会の第二の波のなかで利権や権力を保持し、守ろうとする古い体制の人たちと、新しい波の基準とのあいだにおいて、衝突と抗争がおこっており、トフラーは身近な日常の親子のいさかいや、政治的なことまで含めて、この切り口でその解読をこころみている。
大量生産の原則が有利にはたらく時代はもう終ったのであり、ただ旧来の原則で権益をうけていた人たちが、それを手放さないことが、いくつもの問題をつくりだしているのである。
たとえば子供たちの登校拒否や非行化は、学校という役割がもうべつのところに移ってしまったのを、子供たちが敏感に感じとっているからだと思われるし、コンピューター関係の人たちが政府の規制撤廃をのぞむのもこのようなところにあると思われる。
新しい原則は、われわれの不満というかたちであらゆるところに噴出しはじめているのではないだろうか。
カレル・ヴァン・ウォルフレン『人間を幸福にしない日本というシステム』 毎日新聞社 1800円

タイトルが日ごろ漠然と感じていることをすっぱりと表明しているのがよいし、ベストセラーということで読んでみたが、ものすごい名著である。
われわれの不満や問題のありかたを、きっちりと整理づけている。
日本の中間階級がなぜ政治的にこれほどまでに無力なのか、なぜ民主主義にそなわっているはずの、ものごとを変えるためのメカニズムが欠如しているのか、こういったことをすっぱりと説明してみせ、まるでわれわれ狩猟人が、はじめて農耕の方法を教えられたような、あるいは自分たちの身分に慣れきった「奴隷」たちが、はじめて「解放宣言」を聞くような、神話的出来事に匹敵するように思われた。
われわれはこの知識によって、これまでの日本を変えることはできるのだろうか。
民主主義は育ち、自分の幸福や目的のためにいきられる人生を送れるのか、官僚が権力をもった「生産マシーン」の日本は解体することができるのだろうか。
でもわれわれの無意識のなかには、政治にかかわる人間は「アブナイ」、日常の中で哲学や宗教について語るのは「タブー」だという思い込みがあって、まずはこの「不快感」を撤廃すべきではないのだろうか。
カレル・ヴァン・ウォルフレン『日本/権力構造の謎 上下』
ハヤカワ文庫 各740円
日本の全般的な状況や問題点をあますところなく伝えたかなり大部の内容の濃い名著である。
これ一冊で日本という国がどれほど異常でおかしいのか、どのような権力システムで動いているのか、整理することができる。
われわれが無意識に自明なものとしている、日本のあらゆるシステムや組織をはじめて垣間見せてくれる本である。
われわれはちょっとむづかしかったり、あまり理解できなかったりすると、すぐ自分の口の出すところではないと、専門家に任せてしまうようなところがある。
このような謙遜や回避の美徳が、専門家や官僚による好き勝手な支配を許してしまうのではないだろうか。
また、われわれの不満や批判の吸収されるところはどこにもない。
メディアも、政治手段も、あるいは法的手段さえもっていなかったのである。
既成のものに批判も不満ももってはならないと教えられてきて、そのような人間は爆弾を抱え込む「過激派」だと思いこんできたわれわれにとって、はたしてこの「やましさ」を乗り越えることができるのだろうか。
奥村宏『会社本位主義は崩れるか』 岩波新書 550円
日本のおおきな問題点は、会社があまりにも力をもちすぎていること、政治家が国民を支配しているのではなく、会社が国民を支配しており、それはまるで魂までが売り渡される「恐怖政治」となんら変りはないと思う。
ウォルフレンが指摘するような「従順な中間階級」ができあがるわけは、サラリーマンが企業にすべてを売り渡さなければならないからだ。
またわれわれ自身が、会社を「家族」や「親」のように思いこみ、会社に年金や健康保険、終身雇用(終身刑?)、地位や社会的身分の付与をのぞみすぎたからだ。
そのしっぺ返しは、長時間の労働時間拘束、家族の崩壊、趣味や個人の喪失、独創性の欠如、子どもの無気力化、経済競争力の低下――いたるところに噴出している。
はやくから会社中心主義を批判してきた佐高信と共著を出版した、奥井宏という経済学者の「日本株式会社」のちょっとお固い分析である。
内橋克人+佐高信『「日本株式会社」批判』 教養文庫 680円
なぜ日本には、会社中心社会を批判する知識人がこんなに少ないのか。
オウム真理教なら徹底的に叩くのに、ほかの「カイシャ」教という宗教は、ぜんぜん批判の対象にならないし、マスコミお得意の新興宗教叩きも行われない。
こんな恐ろしいカルト集団に覆われた社会なのに、だれひとり知らんぷりだ。
そのなかでひとり気を吐くのが佐高信である。
テレビなんかに出ていたら、よくそこまで言える度胸があるものだ、あまりにもすぱっとした毒舌なので、思わず吹き出してしまうが、企業社会とはもっと恐ろしい世界ではないのかと心配になるのだが、ほかにこんなに批判の鋭い人はいないので、ぜひがんばってほしい。
佐高信や内橋克人、奥村宏といった人たちがいなければ、だれがこの「企業専制国家」から、助け出してくれる人がいるというのだろうか。
この本では、この企業社会の異常さが容赦なくあぶり出されている。
日本には企業の価値を上回る価値体系がないから、たとえば市民社会や宗教――企業の力が異常に強いのだという。
企業を超えるものがなにもないことが、際限のないカネもうけや利己主義、社会の崩壊をもたらし、企業の横暴を許しているともいえる。
社会あっての企業なのに、企業のほうがエライといった本末転倒になっている。
多くのサラリーマンたちはなんとも思わないのか、人生のない企業がそんなにうれしいのか、みんなイジメられ搾りとられるのが好きなマゾイストなのか、それとも生活や安定をひきかえに企業に魂も人生も売り渡すしか仕方がないのか、わたしにはよくわからない。
高橋克彦・杉浦日向子『その日ぐらし 江戸っ子人生のすすめ』 PHP文庫 460円
江戸っ子の労働時間はたったの4時間、持ち家なぞけちくせえ、出世なぞどこ吹く風、転職などあたり前――現代のガチガチ労働社会からみれば、よだれが出そうな暮らしぶりである。
われわれはいつからこのような好き勝手に、自分のために生きる人生を失ってしまったのだろうか。
出世、あるいは富、名誉や世間体のため? マイホームのローンのため?
もしかして年金や健康保険などの福祉制度(崩壊した社会主義の落とし子?)のせいかもしれない。
労働や仕事なんて、ほんらいは生活のための「手段」に過ぎず、目的であるわけがないのに、人生の目的になってしまった現代の異常な状況――。
この本のなかの江戸っ子の暮らしぶりは、ガチガチにこり固まってしまったわれわれの頭をスカッとさわやかに、風通しのよいものにしてくれるだろう。
山内ひさし『経済人類学への招待』 ちくま新書 680円
文明が豊かで、未開民族が貧しい? だれがそんなことを言ったのか?
モノサシが悪い! 「国民総生産」てなんだ? それは食べられるものか?
未開民族の労働時間はだいたい4、5時間、仕事の内容も気ままなものだから、毎日が日曜のようなものだ。
それに対してわれわれの労働時間は一日10時間、休日には消費やレジャーなどの「労働!」が待っている。
機械や「おとなのおもちゃ」はたくさんあるけれど、どちらが豊かで、貧しい、といえるのだろうか?
この本は未開民族という「ヒト科ナマケモノ属」と文明の「ヒト科カローシ属」を、新しい視点で見比べた傑作である。
ちなみにわれわれが「侮辱」する動物たちと比べると、かれらは自然という年中無料のスーパーマーケットに暮らしており、かれらの労働時間は「王様」なみではないだろうか。
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BOOK REVIEW
「経済や社会は、これからどうなってゆくのだろうか」へ
現代人の画一性は、大量生産の経済に起因しているところが大きい。
情報社会においては、その原則は崩壊してゆくと思われる。
この新しい経済は、人々を多様性に導くのだろうか。
「社会は、「共同幻想」によって成り立っているのか」へ
われわれを画一性へと規定している世界観や常識というのは、
じつは、たんなる「空想による決め事」ではないのだろうか。
「真理」や「絶対」、「常識」といったものに囚われて、身動きがとれなくなってしまわないよう、社会の常識や慣習といったものが、どのようなもので形成されているのか、知る必要がある。
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