チェルノブイリ原発の事故で破壊されボロボロになったビル


 重大事案が発生した時、共産党政権下では人民がどのように扱われるか、その端緒として情報伝達(主に隠蔽である)がどのように行われてきたかを2つの事例から検証する。

 ソ連共産党が健在であった1986年4月26日午前1時23分に起きた「チェルノブイリ事故」と、現在の中国共産党治下で2002年11月16日に発症した「SARS(重症急性呼吸器症候群)」についてである。

 チェルノブイリ事故時の状況については事故からほぼ1年10か月後に出版された広瀬隆著『チェルノブイリの少年たち―ドキュメント・ノベル―』を参照した。

 広瀬氏は1979年に起きたスリーマイル島原発事故を機に、原発にかかわり続けている。

 SARSについてはダイエーとの合弁貿易商社で勤務し、『中国てなもんや商社』で作家デビュー後は北京に在住して活動していた谷崎光さんの「中国の『SARS報道』には『本当』がない」(『諸君!』2003年6月号所収)を参考にした。

[JBpressの今日の記事(トップページ)へ]

チェルノブイリ事故時のソ連の対応

 事故が発生した時点から何日もの間、現場・現地は言うに及ばず、世界に向けてのソ連当局の情報は一切発出されなかった。

 9日後の5月5日に、ボリス・エリツイン(当時、ソ連共産党政治局員候補)が西ドイツのハンブルグを訪れ、5月4日時点で原子炉の周囲は1時間当たり150レントゲンの被曝量という超危険状態にあると語っている。

 わずか4時間そこにいるだけで、致死量の600レントゲンになることを意味していた。

 事故当日、西ドイツの旅行者100人を乗せたモスクワ発キエフ行きアエロフロート機は、午後3時、すなわち爆発事故があってから14時間後にチェルノブイリ上空3000メートルを通過した。

 この時の様子を乗客が記している。

「突然、眩しいほど青く輝く空の中に黒い雲が現れ、目の前にその雲がクリスマス・ツリーのようにムクムクと湧きあがってきた。まるで夜のようになり、雷が空を引き裂いた。そして爆発音が数回鳴りわたった」

 原子炉では14時間経った時点でも恐ろしい爆発がまだ繰り返し起きていたのだ。

 当時、避難し始めていた住民が空を見上げると、黒い雲が勢いよく上空に上っていくのが見えたという。

 しかも、煙突状になった黒い雲は、3000メートルの高さにとどまらず、さらに天を突き抜ける勢いで上昇し、やがて大気圏の切れ目に走っているジェット気流に到達した。

 それは1万メートル前後の上空である。

 上空の日常の風速は毎秒5~10メートル(暴風で40メートル前後)で、7メートルとして時速25キロとなる。

 住民が避難し始めた夜明けまでの5時間ではチェルノブイリから130キロ圏内にあるキエフ(人口100万人以上)やゴメリ(同30万人以上)などの大都市の上空に差し掛かっていたことになる。

 上昇気流は大変な勢いで昇っていき、その途中で大量の死の灰を地面に降らせながら、一帯の空気の温度を少しずつ高めていく。

 空気の温度が地表から少しずつ高くなることによって初めて上昇気流の勢いが保たれ、1万メートルの上空まで達することができたのである。

 逆に1万メートの上空まで死の灰が達したという事実は、付近一帯に想像を絶する死の灰を降らせ、猛毒ガスを拡散させたことが根本的な現象として背後にあることを示している。

 このことは、樅ノ木の枯れ方がチェルノブイリの原子炉に近づくにつれてひどくなり、真っ赤になっている現象が証明しているとされる。

「チェルノブイリ原子炉のまわりには人類史上経験のない大量の放射性のガスが充満し、一帯にはおびただしい数の死体が転がっていた。これらの死体は、ブルドーザーが掘った大きな穴に急いで埋められていた。この作業に駆り出されたのは、ほとんどが囚人と兵士であった」

「囚人たちは何の防護装置も身につけずに働かされ、彼らもまた次々と倒れていった。すでにその一帯では、生きている動物の姿一匹見かけなくなっていた」

「キエフでは最初のころはパニックと平静さが交互にやってくるような状態をくり返したが、その大きな原因は病院に続々と送り込まれる人々の姿であった」

「しかし、人間は、目の前でその事実を見ない限り、何とか恐怖を信じないように努めるものだ」

「そのため政府の安全宣言が出される度に、人びとは病院のことを忘れてしまい、大丈夫だと思い込むようにした。実際には、病院の中で起こっている出来事については、全て秘密が保たれていた」

 上記の引用文からは、当局が流した情報は「安全宣言」だけであったことが分かる。

 このために、乗客を乗せた旅客機が事故現場の上空を飛ぶという、〝考えられない″ことが起きていたのだ。

 ソ連は原爆開発国であり、広島や長崎の惨状を承知していたに違いない。

 また、7年前にはスリーマイル島事故があり、原発事故にかかわる放射線の影響についても相当の知見を有していたはずである。

 しかし、ソ連当局は国民ばかりか、世界をも騙して「安全宣言」を出し、旅客機の上空通過さえ許可していたのである。

安心を抱かせる仕組まれたトリック

 事故の7か月後、黒海西岸のある町で、10人の赤ん坊が脳のない状態で生まれてきた。

 母親の体内にあった胎児が、ごく幼い生命の段階で遺伝子に影響を受けると起こり得る重い障害であるという。

 その5か月後、すなわち事故から1年後、西ドイツのベルリン自由大学・人間遺伝学研究所は、西ベルリンでの障害児の出産が顕著に増加したことを確認したという。

 著者は「誰ひとり、この子供たちの無念な気持ちを汲むことなく、誰ひとりその被害者の存在さえ知らずに、全世界の子供たちを生体実験にかけ続けている」と語り、「地獄へ突進してゆこうとする人類の姿だろうか」と問いかける。

 そして、当時情報収集などで欧州にいた著者は、ソ連政府は何も語らないが「私たちの耳に届く地下情報は、いま記したように、〝おびただしい数の死体が転がっていた″ことを伝えている」という。

 約1年7か月後の1987年11月、ゴルバチョフ改革の旗手と目され、モスクワ市の共産党第1書記の重要ポストにいたエリツィンは、「党組織の指導に重大な欠陥があった」として解任される。

 間もなくしてポーランドやハンガリーに始まった民主化の動きは、ベルリンの壁崩壊(1989年11月9日)でクライマクスに達し、ソ連崩壊へと向かう。

 事故から3年半後の1989年10月11日に発売の週刊誌「モスクワ・ニュース」で、初めてソ連当局が隠してきた「大いなる嘘」が暴露される。

 この頃はゴルバチョフのグラスノスチ(情報公開)も進んでいたため、クレムリン寄りのタス通信やイズベスチヤとは異なり、作家(アダモヴィッチ)や危険地帯の高官ら6人が激しい怒りをもって議論している。

 これによると、原子炉から放出された放射能の総量は、ソ連が公式発表した5000万キューリーではなく、専門家はほとんど一致して10億キューリーと推定しているという。

 この嘘の発表値と現実の数字の違いは、「全世界に安心感を抱かせるため仕組まれたトリックで、そのトリックを見破られないようにするため、一帯の人びとは死の灰のなかに野放しにされてきたのである。しかもこの嘘に加担したのは、自由主義も含めた全世界の原子力産業とジャーナリズムであった」と述べる。

為政者の傲慢

 事故から4日後には、ソ連自身が死者300人と報道したが、なぜかすぐに「翌朝からニュースに手が加えられ、消え去った」という。

 そして、当局は出国に対して厳しい条件を課す。名前を出して証言しようものなら、過去の経験から残忍な報復が家族に対して行われることも被害者は知っていたという。

 事故から1年後の1987年、米国が明らかにしたのは、「チェルノブイリの雲が地球全土を覆った後で、49種類の鳥の孵化率が65%も減少し、7割近くが死んでしまった」というものであった。

 鳥の卵という最も幼い生命が殺されたことをはじめ、当初に述べた黒海西岸の無脳症の重度障害児や西ベルリンでの障害児出産の増加、事故から1か月後に東欧から陸揚げされた2000頭の羊は目が見えず、耳も聞こえない重度被曝状態にあったこと、事故年のポーランドの出産率は3割で7割が消えたという。

 同じく、約1年後のAP通信は、事故後に移住したウクライナの原子力技術者が、キエフの2つの病院で働いていた友人たちは「事故から5か月の間に、少なくとも1万5000人のチェルノブイリの被害者がこれらの病院で死亡した」と語っていたと伝えた。

 わずか2つの病院で1万5000人の死者である。人口250万人のキエフには大変な数の病院があり、また、近くには人口100万を超えるハリコフなどの大都市がいくつもある。

 爆発直後に死の灰を乗せた風は北上し、その後方向を変えて南下した。

 事実、チェルノブイリから北方900キロのレニングラードの住民の9か月後の体内放射能は日本人の数千年分に達した。

 また南西へ450キロ離れた市では赤ん坊から15歳までの子供全員が髪の毛が抜ける症状に襲われた。

 広瀬氏は「初期には最も幼い生命に被害が発生した。しかし、このなかにはソ連の報告は1件もなかった」という。

「現実に考えられるだろうか」と疑問視し、真実の報道がされないことからくる不条理も含めて、「最大の被害国はソ連である」と嘆息する。

市民に伝えらないSARS情報

 谷崎さんは貿易商社を退職し、北京大学で授業に参加していた。友人からはマスクをして行ったら精神病扱いされた、上司(中国人?)は「あなたは真面目すぎます。純粋。子供」と言われ、「一つ言葉を教えてあげます。『謊言』(善良な嘘)」と言われる始末だったとのメールが来る。

 これに対し、谷崎さんは「頑張ってマスクをしていってください。こっちも中国の人はわりと平気みたいで、外国人の反応とのギャップを感じています」などと返信している。

 同大学で学ぶ韓国人記者が「先生! 昨日、北京のある医師が、中国政府発表の肺炎患者の人数は嘘だ、とアメリカの雑誌に告げた、という記事を見たんですが・・・」と発言すると、先生は「それは噂です。いま、そういう噂はいっぱいあります!」と取り付く島もない。

 谷崎さんも日本のネットで報道されている状況を見ているが、何日か前の日中の水資源問題のやり取りで嫌な思いをされたことから「(発言するのを)やめた」という。先生は政府見解を告げる一方通行しか許さないようだ。

 事実、この頃になると発症源の「香港や広東ほどではないが、日増しにSARS感染者の数も増え、日本政府からもついに『不要不急』の渡航を注意された地域」になっていた。

 しかし「中国政府は『大丈夫、大丈夫!』と言いつつも、先週末、突然私のマンション(北京の多くの地域も同時に)と学校が消毒された」と記す。

 発生から5か月を迎えようとする時点で、数日後にはパニックが起こる状況であるが、中国の新聞、テレビではこの件は全く報道されていない。

「よくコントロールされた報道のせいか、もしくは国民性か、国の事情か・・・」と疑問を投げかける。

 国民は慣れているのか、諦めているのか、谷崎さんが電話カード売りのおばさんや漢方薬店などで情報交換しようと思って話しかけても、当て外れの返事しかしない。

 こうしたことから上記論文では、「怒るより運を天に任す中国人たち」「楽観的すぎる中国紙報道」などの小見出しが付く。

 真実を書けば処罰される危険があり、そもそも真実自体がなかなか見えない・聞こえないでは書きようもない。

おわりに:信用できない中国当局の発表

 チェルノブイリ事故やSARSで、為政者が事実をいかに隠蔽してきたかが分かる。

 ここで、「チェルノブイリ原発事故」やSARSを「武漢発コロナウイルス」に、周りの人びとを「封鎖された武漢市(湖北省)」に、「自由主義も含めた全世界の原子力産業とジャーナリズム」などを「国際機関のWHOなど」に読み替えてみてはどうだろうか。

 正しく新型コロナウイルスに対する中国の状況そのものである。

 武漢で発生したヒト・ヒト感染する新型コロナウイルスはいろいろな株に変異しながら依然として猛威を振るっている。

 中国当局が発症時点での情報を隠蔽し、市全体を2か月にわたって封鎖し、WHOが正確な情報を流し対応を促さなかったからである。

 これこそは、「全世界に安心感を抱かせるために仕組んだトリック」であったに違いない。

 中国の隠蔽体質がいまだに変わっていないことを書きながら、2020年〝新装版″として再発刊されたラルフ・タウンゼント著の『暗黒大陸 中国の真実』(1933年刊)を想い浮かべた。

 当時、中国の実情を知ることができるのは宣教師、民間事業家、そして領事館員や外交官等の政府役人であったが、実情を報告すれば宣教師は資金を削減され、事業家は不買運動に会い、外交官は外交辞令で口止めされているなどから、誰もが事実上「さるぐつわ」をはめられた状態にあったという。

 今ではIT技術をフル活用して一段と監視が厳しくなり、いよいよ真実が伝わって来ない中国のようだ。

 コロナの真実もほとんど隠蔽されたままではないだろうか。

 一党独裁の共産主義という体制がもたらす必然に違いなく、自由・民主主義に生きる日本人は、それらの功罪を改めて再認識する必要があるのではないだろうか。

筆者:森 清勇