「ソ連兵に銃撃された傷が今でも痛む」 俳優・宝田明が明かす凄絶な戦争体験
昭和を代表する二枚目スターにして、ミュージカル俳優としても知られる宝田明氏(87)には、決して忘れられない光景がある。満洲・ハルビンで耳にした玉音放送、ソ連軍による暴挙、凄絶な引き揚げ体験。コロナ禍のいまだからこそ語り継ぎたい、戦禍の記憶とは。
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僕と同じ昭和1桁生まれの方々は、新型コロナウイルスの感染率が高いと言われ、実際に、耐え難きを耐えながら自重を続けていると思います。この世代は誰もが戦争を経験し、過酷な人生を強いられました。それだけに、いまがどれだけ辛かろうと、この新たな困難も乗り越えてもらいたいと願っています。
〈多感な少年期を満洲国で過ごした宝田明氏の胸には、戦争に翻弄された日々の記憶が深く刻まれている。そして、令和の日本を襲った現代の疫禍と同じく、国民の生命と平穏な生活を奪った昭和の戦禍についても、風化させてはならないと語るのだ。〉
僕の祖父は、越後国村上藩の士族の末裔で、朝鮮総督府の海軍武官でした。祖父の勧めで朝鮮に渡った父は朝鮮鉄道に勤め、私もそこで生まれました。
その後、父が満洲鉄道(満鉄)に転勤したのを機に一家で満洲へと移り住み、まもなく“アジアのパリ”と呼ばれたハルビンに転居しました。
当時の僕はご多分に漏れず生粋の“軍国少年”。大きくなったら関東軍に入って満洲へ戻り、日本の北方を死守する防波堤にならんと当然のように考えていました。日本の土を踏んだことがなかったので、ひと一倍、我が祖国への思いが強くてね。満洲に住む知り合いが帰国すると聞けば、“宮城(きゅうじょう)”の玉砂利を持ち帰ってきてほしいとねだるような少年でした。
ハルビンは華やかな国際都市で、日本人はもちろん、漢民族、朝鮮族、蒙古族、満洲族とさまざまな人々が互いに手を携えて暮らしていました。文字通り、「五族協和」を体現したような状態で、ロシア革命を逃げ延びた白系ロシア人とも身近に接していた。コスモポリタンな環境に育ったせいか、いつのまにか僕にも国際性が身についたわけです。僕が俳優になって女性のハートを鷲掴みにしたと言われても、別に計算しているわけではなくてね(笑)。ただ、日常的に外国人と付き合っていた少年時代のバタ臭さは影響しているかもしれません。
「憎きソ連兵め!」
さて、1945年になるとそんな満洲の雰囲気は一変し、小学5年生だった僕でも戦況の悪化を感じ取れるようになりました。僕は兄3人と、姉、弟の6人きょうだいでしたが、上の兄二人は出征し、姉も遠方で働いていた。南方での戦が危うくなったと聞くたびに、兄姉の身を案じたものです。
そして、8月6日、雑音混じりのNHKラジオから〈広島に謎の化学爆弾が投下され、10万人の同胞が命を落とした〉というニュースが届けられます。人々が騒然とするなか、9日には長崎にも同じ爆弾が落とされたという。
誰もが不安を隠しきれないまま8月15日を迎え、満鉄の社宅に住んでいた父母と僕たち兄弟は、畳に正座しながら玉音放送に耳をそばだてました。
「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び……」
天皇陛下のお言葉を聞いて、母はガクッと崩れ落ち、父が「終わったな」と漏らしたのを覚えています。幼い僕には意味が分からず、「どうしたの? 負けたの? 嘘だよね!」と父に食って掛かったのですが、「いや、天皇陛下が仰った通り、日本は負けたんだ」。
後年、あの光景を思い出して詠んだ短歌があります。
「威儀正し 玉音放送聞く我が家 終ったと父の声弱くして」
しかし、僕が戦争の本当の恐ろしさを知るのは、終戦後のことでした。
日本の敗戦が明らかになると、40~50輌ものソ連軍の戦車が隊列を成してハルビンに侵攻してきました。ただ、当時の軍国教育では「鬼畜米英」と教え込まれてきたものの、満洲には白系ロシア人の友だちもいたので、ソ連軍が怖いとは思わなかったんですね。
しかし、あにはからんや、ソ連軍は満洲で暴虐、略奪の限りを尽くします。挙句の果てに婦女子に対する凌辱も……。日本の軍隊は武装解除され、兵舎に閉じ込められていたので街は無政府状態です。日本の婦人たちは髪を坊主に丸め、風呂敷を被って集団で買い物に行きました。
ところが、ある日、僕が部屋の窓から外を見ていると、ひとりで歩いている婦人が目に入ったのです。すぐに、2人のソ連兵に捕らえられ、裏路地に引きずられて行った。彼女が「助けてください!」と叫んでも、マンドリンと呼ばれる自動機関銃で武装した兵士が怖くて誰も駆けつけられない。僕は無我夢中で交番に向かって走っていました。
もちろん、警官の姿はありませんでしたが、代わりにソ連の憲兵がいた。「カピタン・パジャーリスト!(将校さん、お願いです!)」と懇願して、どうにか現場まで連れて行きました。しかし、その婦人は下半身を丸裸に剥かれて辱めを受けた後でした。憲兵がこん棒で兵士たちを殴ると、彼らは慌てて脱ぎ捨てたズボンを穿きながら逃げ出しました。その時に感じた「憎きソ連兵め!」という思いはいまだに消えません。
それからまもなく、実際にソ連兵から銃撃された日の記憶も、鮮明に思い出すことができます。
鉛弾が腹に…
敗戦後、日本兵は捕虜として、シベリア抑留をはじめソ連領内に続々と連行されて行きました。僕はすでに出征していた兄二人のことが心配でならなかった。
ちょうど満鉄の社宅近くに引込線があって、そこに日本兵を乗せる貨物列車が数珠つなぎになっていたんですね。何のアテもなかったのですが、「あそこに行けば兄ちゃんに会えるんじゃないか」と思ったのでしょうね。連行される日本兵の列車に無謀にも近づいて行った。すると、彼らが大きく手を振って「戻れ、戻れ!」と叫ぶんだ。振り向くと警備のソ連兵が飛んできて、“ダダダダッ”と銃弾を乱射するのが目に入った。無我夢中で逃げましたよ。
どうにか家に帰り着いたのもつかの間、今度はお腹が熱くて熱くて堪らない。服を脱いだら下腹部が血だらけで真っ赤に染まっていた。逃げるのに必死で気づかなかったけれど、弾が当たっていたんですね。傷口はまるで熟したザクロのようでした。母親に「兄ちゃんがいるかもと思って貨車に近づいたら撃たれた」と話すと、「ばか!」って思いっきりビンタされましてね。そっちの方が痛かったくらいです(笑)。
ただ、ソ連の侵攻によって満鉄病院や市立病院は閉鎖され、家にある衛生用品はヨードチンキやオキシドール、ガーゼくらいのもの。何日かすると傷口が黄色く膿んで高熱が止まらず、寝ることもできなくなった。それを見兼ねた僕の親が、ひげを蓄えた年配の元軍医を呼んでくれたんですね。老医師は凧に竹ひごを張るように僕の手足を縛って固定し、母に向かって「お母さん、裁ちばさみを火で炙って持ってきなさい」と。
続けて、医師は僕に対し、「君は日本男児だろう。それなら歯を喰いしばってがんばれ」と言うなり、加熱されて青白く光る裁ちばさみの先端をブスっと腹に突き刺しました。もちろん、麻酔なんてありませんよ。そのままジョキジョキと腹を裂かれたものだから、こっちは痛みを通り越して失神寸前。しばらくして、僕の腹のなかをまさぐっていた医師の手からコロンと小さな塊がこぼれ落ちました。「ソ連兵め、こんな弾を使ってやがる」。医師によれば、僕が撃ち込まれたのは人道上の理由で使用が禁止されていた“ダムダム弾”でした。この鉛弾を喰らうと、弾頭がマッシュルーム状に裂け、鉛毒によって患部が腐ってしまう。縫合もできず、抗生物質もないので手術後も地獄の苦しみを味わいました。傷口はいまでも痛みますよ。とりわけ梅雨前線が通過する時にはね。そのせいで正確な天気予報ができるんです(笑)。
「三船ちゃん」と「森繁さん」
敗戦から1年以上が経過した頃、ようやく我々にも帰国のめどが立ちました。両親と僕、弟の四人は鉄道でハルビンを離れ、途中から日本行きの船に乗ることになった。引き揚げという名の民族大移動です。
後年、東宝で俳優の道を歩み始めた僕は、同じく大陸からの引き揚げ経験がある大先輩と出会いました。三船(敏郎)ちゃんと森繁久彌さんです。二人とも大変な苦労の末に帰国したわけですが、そのせいで相通ずるところがありました。撮影の合間に集まっては、「あの監督は馬鹿野郎だ」「あの女優はこんなとこがあってさ」と、戦時中に覚えた片言の中国語で大いに盛り上がったものです。
とはいえ、引き揚げは過酷な経験でした。僕たちの家族がハルビン駅から中国に向けて出発する際には、ソ連兵によって必要最低限の荷物以外は焚火にくべられました。兄たちの写真まで没収されて燃え盛る炎のなかに放り込まれたのですが、母はなりふり構わず焚火に素手を突っ込んで、焼け焦げた写真を引っ張り出した。母は強し、ですね。その写真は兄たちの遺影として残っています。
引き揚げで南下する途中に食料が尽きて、列車が停車した隙に畑へと忍び込み、ニンジンを盗んだこともあった。野菜を売りにやってくる地元の中国人から衣服と物々交換で野菜を手に入れたりね。ついに交換するものが無くなって、乳幼児と引き換えに泣きながら食料を受け取る婦人もいました。いわゆる中国残留孤児です。
わが家も上の兄二人を戦争で亡くし、3番目の兄も満洲でソ連兵に連れ去られて行方不明になっていました。僕たちはどうにか日本海を渡って、父方の故郷である新潟県村上市に落ち着いたわけです。それからほどなくのこと。軍隊の外套を着た男が突然、わが家を訪ねてきたんです。満洲で生き別れになった三兄でした。僕が抱きつくと、兄はこう言いました。「なんで俺を置いて帰ったんだ!」。とても感動の再会などとは呼べません。命からがら帰国を果たした三兄は、その後も親きょうだいと打ち解けることができず、早死にしてしまいました。
結局、戦争は必ず民間人を巻き添えにします。子どもたちが銃で撃たれ、婦女子は凌辱され、家族の絆も引き裂かれてしまう。その傷は生涯癒えることがありません。
戦後まもなく「シベリヤ物語」という総天然色のソビエト映画が封切られました。久しぶりにロシア語を聞きたいと思って観に行ったものの、5分もすると吐き気を覚えて丸の内日活劇場を飛び出してしまった。僕を撃ったソ連兵の顔が思い浮かんでね。やはり戦争の後には恨みと憎しみしか残らない。戦争がもたらす悲劇は決して風化させてはなりません。
日本は世界で唯一の被爆国なのだから、なおのこと反戦を訴え続ける責任があると思います。これはイデオロギーの違いとは全く別次元の話なんです。
さて、日本に帰国したものの、暮らしぶりは一向に良くならず、僕が中学生の頃に仕事を求めて家族で上京を果たします。都立豊島高校に進学すると、演劇部に所属して芝居の魅力に心を奪われました。そして、終戦翌年に東宝が開始した新人発掘オーディションの第6期に応募し、53年に東宝ニューフェイスとして俳優活動をスタートさせます。
その翌年に初主演した作品が「ゴジラ」です。
「ゴジラ」はアメリカでもリメイクされた、世界的な知名度を誇る“怪獣映画”ですが、そもそものコンセプトは違いました。ゴジラは度重なる水爆実験によって安住の地を奪われた“被爆者”なんですね。映画公開時は、アメリカによるビキニ環礁での核実験が大きな社会問題となっており、映画にも核兵器に反対するメッセージが込められていました。実際、この水爆実験によって、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」の船員たちは死の灰を浴びて被爆しています。船員のひとり、大石又七さんと僕は同い年。後に連絡を取り合ったのですが、今年3月に亡くなられました。
尊敬を集める国に
日本の人口が約9千万人だった時代に「ゴジラ」は961万人を動員する大ヒットを記録します。終戦直後の日本では戦争の傷跡が生々しく記憶され、原爆に対する意識も高かったわけです。「ゴジラ」は商業映画、怪獣映画ではあるけれど、作品の底に流れているのは日本人だからこそ世界に訴えることのできるテーマだった。それを忘れてはいけないと思います。
多くの民間人が犠牲になっているコロナ禍はまさに戦争に比肩する有事でしょう。ただ、戦争を知る世代の人間としては、どうしても危機感の欠如を感じてしまいます。東西の冷戦は終結したものの、米中の新たな冷戦が始まりました。中国の覇権主義的な動きに加え、中東情勢も悪化の一途を辿っている。本来であれば、各国が利権や兵器製造のためではなく、伝染病を撲滅するためにカネをかけるべきだと思います。
それなのに日本のテレビをつければ、食べ歩きや大食いの番組ばかり。コロナで大切な家族や仕事を失って、今夜の食事にも困っている人たちの声は全く届いていない。ドラマにしてもバラエティにしても、日本のテレビ番組には幼児性しか感じられません。もっと大人で、利口な国民になるべきだと感じます。尊厳に満ちた、世界から尊敬を集める国にならないと。
正直に申し上げて、エンターテインメント業界も厳しいですよ。僕らが進めていた企画はほぼ全て潰れてしまいました。公演が中止に追い込まれると、俳優だけでなく裏方として支える何百人ものスタッフが路頭に迷ってしまう。それでもコロナ禍が収まることを願って準備を進めている。民間人が否応なく巻き込まれてしまうという意味で、戦争とコロナ禍は似ています。そうであればこそ、この困難も歯を食いしばって乗り越えるしかないんです。
宝田明(たからだあきら)
俳優。1934年、朝鮮・清津生まれ。2歳で満州国・ハルビンに渡る。日本に引き揚げ後の53年、東宝ニューフェイス第6期生として俳優業を始める。「ゴジラ」「放浪記」など出演作多数。「マイ・フェア・レディ」などで舞台俳優としても活躍。
「週刊新潮」2021年6月10日号 掲載