黒江哲郎(くろえ・てつろう) 元防衛事務次官
1958年山形県生まれ。東京大学法学部卒。81年防衛庁に文官の「背広組」として入り、省昇格後に運用企画局長や官房長、防衛政策局長など要職を歴任して2017年退官。現在は三井住友海上火災保険顧問
連載・失敗だらけの役人人生⑧ 元防衛事務次官・黒江哲郎が語る教訓
2017年まで防衛省で「背広組」トップの事務次官を務めた黒江哲郎さんの回顧録です。防衛問題の論考サイト「市ケ谷台論壇」での連載からの転載で、担当する藤田直央・朝日新聞編集委員の寸評も末尾にあります。
私は2009年(平成21年)から2012年(平成24年)までの三年間、民主党政権下で防衛省の防衛政策局次長として日米安保協議を担当し、普天間基地の辺野古移設やオスプレイの普天間導入などに携わりました。民主党政権は、普天間移設について「最低でも県外」を主張し、自公政権下で結ばれた日米合意を事実上自紙に戻したため、米側との議論もゼロならぬマイナスのラインからスタートしなければなりませんでした。
同盟国である米国との間では、日常的に様々なレベルで安全保障に関する政策協議が行われています。中でも中心的なものが次長・審議官級の協議で、当時は月に一度以上のペースで開催されていました。メンバーは、日本側が私と外務省北米局の審議官、米国側が国防・国務両省の次官補代理という四者でした。普天間移設問題もこの場で協議されましたが、双方が自らの論理を主張し合い一歩も引かない直球勝負となりました。
既に一度政府間で合意した内容を日本側がひっくり返すという形だったので、出だしから日本側が難しい立場に立たされました。日本側は「地元の理解を得て安定的に基地を使用するのは日米共通の利益であり、既になされた合意についても検証が必要だ」と主張するのに対し、米側は「両政府間でなされた合意は有効であり、見直す必要はない。合意について地元の了解を取り付けるのは日本政府の責任だ」と反論するという構図です。
協議が直球の投げ合いとなり論理の応酬になると、議論はかみ合う反面、雰囲気はどうしても刺々しくなります。この時期の次長・審議官級協議は正にその典型でした。
ある日の協議の冒頭、私が普天間基地問題に関する日本側の最新の検討状況を説明したのに対して、米側から皮肉たっぷりに"Thank you very much for your very very disappointing briefing."と言われたシーンは未だに脳裏に鮮明に焼き付いています。当時は米側から「d」で始まる言葉(disappointing, discouraging, disgusting等々)を次から次へと投げかけられて不愉快な思いをしていたのですが、あまりに何度も言われるので、最後には時候の挨拶みたいなものだと聞き流せるようになっていました。
またある時には、新間に「日本側は、グーグルマップに線を引いただけのいい加減な案を示すだけ」というアメリカ発の記事が掲載されたこともありました。場外乱闘を狙った米側のジャブでした。この頃、我々のチームの施設業務の専門家は、政権が思いつく様々な案をフォローし、不眠不休で実現可能性を追求していました。現地調査のため、チームのメンバーが徳之島へ飛んだこともあります。
いい加減な作業などしていないのに、政権幹部からは「米側からこんな事を言われるのは事務方の作業に問題があるからではないか」と難詰されました。不愉快ではありますが、幹部が我々よりも新聞記事を信じたというのは米側のメディア工作が奏功したということだったのでしょう。
もちろん、日本側が一方的に押しまくられてばかりいた訳ではなく、開始前にこちらが席を蹴って協議を決裂させたこともありました。一部には我々役人が米国と気脈を通じて移設先を強引に辺野古へ戻したように解説する向きもありますが、我々は当時の政権が指示する方向で解決策を見つけるべく、米側に対し常に厳しい議論を挑んでいました。
しかし、最終的に普天間移設問題は原案通り辺野古移設で決着し、「最低でも県外」は実現しませんでした。民主党政権の主張通りに正面から直球勝負を挑んで、米側から見事に打ち返された、というところでしょうか。交渉当事者として、この結果については複雑な心境だとしか言い様がありません。
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