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【再掲】ソースは俺!
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【再掲】ソースは俺!

2013-06-12 23:44
  • 5
いやいや。昼間はパーリ語とかを平和に読んでいて、さて夜になったのでブログを更新しようとPCを開いてみたら、昨日の記事の閲覧数とコメント数が異常に伸びていたので驚きました。

コメントについては賛否両論いろいろとあるようですが、いずれにせよそれぞれのお立場から、真摯に自分の意見を提示し、議論してくださっている方々がほとんどだと思いますので、筆者としては、これ以上の喜びはありません。

ただ、コメントの一つ一つにお答えをしていくことは(申し訳ありませんが)できませんので、今回は(コメントでもしばしば議論されていた)「信仰と責任」という問題について、過去にまとめた文章をそのまま引用することで、私の立場を、もう少し明確にしてみたいと思います。

この「ソースは俺!」という文章は、このブロマガに移転する前に私が書いていたブログの、いちばん最初にあるものです。要するに、公開の場で文章を書くにあたっての、私の基本的な態度を明らかにしたものですが、そこで私の基本的な考え方として、「信仰と責任」の問題が主題的に扱われておりますので、前回の記事と合わせて読んでいただくと、私の主張が、よりわかりやすくなるものと思います。

実は前回の記事にも、その文章へのリンクは貼ってあったのですが、少々長いこともあって、残念ながら、あまり読まれてはいないようです。「三行で」という方もいらっしゃるかとは思いますが、まあなかなか難しい問題でもありますので、お時間のある方にはお読みいただいた上で、(賛否については別としても)「考えるきっかけ」になることが少しでもあれば、筆者としては、たいへんありがたいことだと思います。

(※写真の下から、全て引用になります。なお、文中に「ミャンマーまで行って坊さんになった」とありますが、いまの私は僧侶ではありません。ミャンマーで仏教の勉強をさせていただいているだけの、ただの俗人ニートです。)





はい、ニー仏です。
今日からこちらで、ブログをはじめることにしました。

「ソースは俺!」などとエラそうなタイトルをつけておりますが、実際は大した話じゃありません。これまで私は、西洋哲学徒として、仏教学徒として、そしてあるいはテーラワーダの僧侶として、「カントによれば~だ」、「臨済によれば~だ」、「アビダンマによれば~だ」といった話を、ずっとしてきたわけです。

ただ、そういった語り方には我が事ながら不満を持っていたのも事実で、例えば私は昔から、 「現代日本人の価値判断の究極的な根拠は、『フランス人かアメリカ人がそう言っているから』じゃないか!」とずっと言ってきたし、いまでもそう思っているのだけど、そこをひっくり返そうとするのであれば、ソースを自分自身の中に見つけなければいけない。哲学やら仏教やらを勉強してきたのもそのためだし、ミャンマーまで行って坊さんになったのもそのためです。

それで、そうやって色々とやってきて、とりあえずその作業が一段落ついた。別に「悟って」 (なんて曖昧な言葉!)これ以上のフロンティアがなくなったと思っているわけではないし、ヘーゲルみたいな「体系」を完成させたわけでもないのですが、ただ、今後自分がものを考えていく上で基本となる視角、発想の源泉、『易』の言葉で言えば、「寂然不動、感じて遂に天下の故(こと)に通ず」という、思索の基礎的な場所みたいなものは、自分の中に設定できたように思う。だから、そろそろ最初の予定通り、「ソースは俺です」で話をしていこうかな、ということです。


ただ、ここで「ソースは俺!」というのは、必ずしも先賢の語ったことを参照しないという意味ではありません。上で早速『易』の文言を引用していますが、孔子様も「学びて思わざれば、すなわち罔(くら)し。思いて学ばざれば、すなわち殆(あやう)し」とおっしゃっている。勉強するだけで頭を使って考えなければ蒙昧になるし、一人で考えるだけで勉強をしなければ心もとない、というわけですが、これは当然のこと。ソースがいくら自分の中にあるといっても、それを展開するメディアは歴史性と他者性を負荷された言語ですから、何かを説得的に「語ろう」とするのであれば、過去に同様の試みをした人々の言説も、参看すべきなのは言うまでもないことです。


ならば、私の言う「ソースは俺!」の意味は何かというと、それは「信(Glaube)としての価値判断を、己の責任において明示的に提示する」ということです。「なんだ、そんなの当たり前のことじゃないか」と言われるかも知れませんが、これが案外、そうでもないのではないかと私は思っています。

かつて小林秀雄は、「信じるということは、責任を取るということだ」と言いました。例えば、「1円玉は1グラム」であるという「知識」について、私たちは責任を取る必要がありません。それは(一部の哲学者を除けば)普遍的に承認され得る客観的な「事実」であり、そこに個人の意志が介在する余地はないからです。

しかし、「私は神の存在を信じる」といえば、話は変わってきます。神の存在は普遍的に承認され得る認識でもなければ、客観的な事実でもありません。神の「非存在」は証明されていませんが、かといって「存在証明」が万人を納得させ得る形で成功したという話も聞きません。したがって、「神の存在」というのは眼前に既存する事実の知識(Wissen)ではなくて、主体が自らの意志によって選び取らねばならない「信仰(Glaube)」です。自分の意志によって選ぶのですから、そこには当然、「責任」が発生することになるというわけです。


「神の存在」などと言えば、ほとんどの日本人にとっては縁遠いことのように思われるかも知れませんし、実際、多くの日本人が、自分は「信仰」からは自由であると臆念(Meinung、思い込み)しています。しかし、これは敢えて言い切ってしまいますが、誤りです。なぜなら、論理学の常識として、「事実から価値を引き出すことはできない」のですが、だからといって価値判断をしないで生きていける人間も存在しない。したがって、事実から合理的な推論によって導出されるものではない、言ってしまえば「無根拠」な何かしらの価値を、人間であれば誰でもが、必ず「信仰」しつつ生きているからです。

例えば、私たちは日常使用している貨幣の価値を、経済学の用語どおりに「信用」しながら生活しています。あるいは、「人を殺してはいけない」とか、もっと一般的に言えば「暴力は悪いことだ」という現代日本人には広く共有されている倫理的規範にしても、それを事実に基づいた合理的な推論の必然的な結果として導くことはできません。「法律がその根拠だ」という人もいるかもしれませんが、法律を定めたのは国家であって、それが実効的な行為の準則として人々を拘束することができるのは、国家がその権力の源泉たる暴力を独占しているからです。そして、暴力は合法性を担保する究極的なソースですから、それ自体の正当性を遡及して問うことはできません。十年くらい前に子どもが「なぜ人を殺してはいけないの?」とか言い出して、知識人が大慌てしたという事件があったのですが、こんなことが起こるのも、「殺してはならない」という最も基本的な倫理規範についてさえ、「だめだと決まっているからだめなんだ」という以上の根拠を提示することは不可能であり、要するに突きつめれば、それも無根拠な「信仰」でしかないからです。


さて、当たり前のことの説明に贅言を弄しましたが、もちろんここで私は、「倫理に根拠なんてないんだよ、ヒャッハー」みたいな厨二病的主張をしたいわけではありません。私の言いたいことは、「あらゆる価値判断は本質的に『信仰』なのであり、そこには『責任』が発生する。だから私たちは、せめてそのことに対して自覚的であるべきだ(と私は価値判断する)ということです。

日本人は「宗教のない」民族だと言われていて、実際、「自分は無宗教だ」と考えている人も多いですから、上述したような「信じることは責任を取ることだ」という認識も、あまり一般的なものとは言えません。むしろ、(現実にあまり性質のいいとは言えない宗教が多いことも手伝って) 「信じることは判断の責任を他者に預けてしまうこと」だと考えている人が多いでしょう。それは、日本において「信者」という言葉が、多くの場合「悪口」として機能することにも表れていると思います。

しかし、これも既述のように価値判断という「信仰」から完全に自由な人間は存在しませんから、日本人だって現実には信仰をしているわけです。けれども、多くの日本人はそのことに無自覚ですから、彼らはその価値判断の根拠を、国内にいつのまにか醸成されている「空気」の流動に委ねてしまうことになります。そして、この「空気」の形成に大きく寄与している学者・識者・文化人といった人たちの発言のソースをたどれば、それはほとんどの場合、「アメリカ人かフランス人がそう言っているから」ということに行き着くわけです。

要するに、私たち日本人は、判断の責任を他者に預ける「信者」のあり方を批判しながら、現実にやっていることはといえば、自分で負うべき価値判断の責任をアメリカ人やフランス人へ転嫁して平気でいるわけで、これは大人のやることとしては実にみっともないから、そろそろやめたほうがいいんじゃないかと、私は思っているわけです。


もちろん、だからといって私は、アメリカ人やフランス人の言うことを参照すべきでない、などと言いたいわけではありません。これについては既述のとおりで、この場においても、今後頻繁に彼らの主張は引き合いに出されることになると思います。ただ、「誰かがこういう価値判断をした」という「事実」をいくら集めても、それは己の責任においてする「信」としての価値判断とイコールにはなり得ません。その間には確実に断絶があり、此岸から彼岸に渡るためには、ある種の思い切った「跳躍」が絶対に必要とされます。そのことに、私は常に自覚的でありたいと思いますし、この場においては自分が己の責任において価値に関する「信仰告白」をしているのだということを、可能な限り明示し続けておきたいと考えています。このブログのタイトルになっている、「ソースは俺!」という宣言の意味は、そういうことだとお考えいただければ幸いです。



『趙州録』に、「尿は是れ小事なるも、須是(すべか)らく老僧(われ)自ら去(ゆ)きて始めて得(よ)し」という言葉があります。意味は、「小便というのはつまらぬことだ。だが、必ず自分で行くしかない」ということですが、「信としての価値判断」ということも、結局はこういうことなのではないかと私は思っています。尾籠な喩えで恐縮ですが、他人の小便をいくら眺めても、自分の尿意がおさまるわけではもちろんない。それは最終的には己の責任で「自ら去く」しかないことなのだけど、済ませたからといって、それは誰でもがする当たり前のことなのだから、自慢できるわけでもない「つまらぬこと」です。

したがって、この場で私のやることは、つまるところそういう「小事」の報告でしかないわけですが、公開の場で敢えてやる以上、事実の「確実性」は期待できないまでも、せめて人を納得させる一定の「普遍性」は追求すべきだと思っています。この点に関しては、まだ一定の指針が確立できているわけではありません。今後の日々のエントリの中で、その輪郭を、徐々に穿鑿していければと思っています。



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 確かに、長いですね~
 コレは、要約するのは至難の業かも。とりあえず、“自分で考えろ!”ってコトと“その考えには責任を持て!”ってコトは読み取れました。
97ヶ月前
×
記念パピコ(・∀・)v
97ヶ月前
×
>価値判断という「信仰」から完全に自由な人間は存在しませんから、日本人だって現実には信仰をしているわけです
「信仰」
1、神や仏などを信じること。また、ある宗教を信じて、その教えをよりどころとすること。
2、人やものごとを信用・信頼すること。
2、証拠抜きで確信を持つこと。またそれらを信じることを正当化する要因。

上記の内、2の部分をしている人間を
「信仰している」
とする人もいるが、それは流石にねぇ…
信用するとは、確かなものと信じて受け入れること。
信じるとは思い込むこと。
思い込むって、別に誰がどうであっても出来るし、やれるものじゃない?

あと
>私たち日本人は、判断の責任を他者に預ける「信者」のあり方を批判しながら、現実にやっていることはといえば、自分で負うべき価値判断の責任をアメリカ人やフランス人へ転嫁して平気でいる
これ流石に暴論じゃないかな?

この前提に有る
「多くの日本人はそのこと(価値判断という「信仰」をしている)に無自覚ですから、彼らはその価値判断の根拠を、国内にいつのまにか醸成されている「空気」の流動に委ねてしまうことになります。そして、このこの「空気」の形成に大きく寄与している学者・識者・文化人といった人たちの~」
って部分にまず疑問。
実際に空気の形成に大きく寄与しているのは、学者や文化人ではなく、市井の大衆。
そして日本人全体で見れば、アメリカ人やフランス人に転嫁してない人が大半だと思うよ。
正確に言えば、そこまで考えてない人が大多数って意味だけど。
97ヶ月前
×
>>3

>上記の内、2の部分をしている人間を
「信仰している」
とする人もいるが、それは流石にねぇ…

言葉の意味というものは、文章の中でダイナミックに揺れ動くものです。
そのダイナミズムの内の、ほんの一要素である単語一個を取り出して、
「この単語の意味は、著名な辞書ではこうなっているのに・・・・云々」
などするのは、大して意味のある(有意義な)反論とはなり得ません。

ニーチェは”権力への意思”という言葉を、きわめて形而上学的な意味で用いていますが、
だからといって、「権力という言葉は広辞苑の定義とは異なって・・・」などと文句を言って、
ニーチェの舌を巻くほど素晴らしい心理分析の本質を身に着けようとしないのは、あまりにもったいないことではありませんか?


>この前提に有る
「多くの日本人はそのこと(価値判断という「信仰」をしている)に無自覚ですから、彼らはその価値判断の根拠を、国内にいつのまにか醸成されている「空気」の流動に委ねてしまうことになります。そして、このこの「空気」の形成に大きく寄与している学者・識者・文化人といった人たちの~」
って部分にまず疑問。
実際に空気の形成に大きく寄与しているのは、学者や文化人ではなく、市井の大衆。
そして日本人全体で見れば、アメリカ人やフランス人に転嫁してない人が大半だと思うよ。
正確に言えば、そこまで考えてない人が大多数って意味だけど。

その部分(いわゆる空気というものは、何によって醸造されているか)は全体の流れから、そんなに重要なところではないと思いますよ。
この部分の主題はあくまでも、「日本人は無自覚ながらも、空気という謎の概念を(宗教と同じ方式で)信仰している」ということであり、
その空気は学者によって作られたのか、はたまたアメリカやフランスか、大衆なのか、という議題には飛んでいません。

たしかに、「アメリカ人やフランス人に価値判断の根拠を置いている」というのは僕も同意しかねますが、論旨と関係ない部分にまで目くじらを立てて文句をいう行為には議論の健全さが感じられませんし、そこに”暴論”という名を冠するのにも違和感しか感じません。なぜなら、その部分は本文の論理とは関係がないのですから、論理と関係ないのに”暴論”とはどういったのもなのでしょうか?


記事に対して”反論”することは、「自分の力の表出」のように思えて気持ちが良いのは分かりますが、
あまりに的外れだと、少々子供っぽく見えてしまいます。
97ヶ月前
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ちょいと乱暴かもしれないが、思いっ切り平たく言えば…

自分で色々知るように努め、自分で考えて、消化して自らの答えを出そう。
そして、出した答えに自ら責任を持て。
答えを世間の空気に委ねるな。

ということかな。

すっごくアタリマエで、すっごく大切なことだけど、これが出来る人ってそう多くない。
一生できない人も、割といたりする…残念なことだけど。
97ヶ月前
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