ヤオハン破綻!(前編)(1998.03.09) |
株式会社ヤオハンジャパンが,1997.09.18 に静岡地方裁判所へ会社更正法適用を申し立て,事実上の倒産に追い込まれました.私自身,ヤオハンジャパンの店舗でよく買物をしていたので,身近な大企業の倒産ということでビックリしました.私が住んでいる山梨県忍野村は,ヤオハンジャパン本拠地である静岡県に近いんです.その後,静岡地裁は会社更生手続の開始を決定し,ヤオハンジャパンはジャスコ主導で再建されることになりました.
ヤオハンジャパン倒産の原因は,和田一夫ヤオハンジャパン会長が自ら分析しているように,「転換社債大量発行による安易な資金調達を利用した過剰投資と非効率な経営」(日本経済新聞 1997.10.14 日付)に尽きます. 今回は,ヤオハンジャパンの生い立ちから倒産まで,その歴史を俯瞰してみましょう.(倒産の直接の原因になった転換社債の仕組等その詳細については,またの機会ということで・・・)
ヤオハンジャパンの歴史をず~っと溯ると,明治時代の小田原の青果商八百半に行き着きます.この店は,貧しい農家の次男であった田島半次郎氏が始めた店で,やがて,小田原一の青果商となり,湯本,箱根,湯河原,熱海,伊東と手広く卸を扱うようになりました.八百半の語源は「八百屋の半次郎」なんです.
1928 年,良平氏は,半次郎氏の娘のカツ氏と結婚しました.この和田カツ氏が,おしんのモデルと言われる人です.カツ氏は,両親の勧めで良平氏としぶしぶ結婚しましたが,最初はこの縁談に全く気が向かず,結婚から逃れるため家出したりもしました.高給取のサラリーマンとの結婚を望んでいたようです.良平氏とカツ氏との間には,長男の一夫氏を始めとする 5 人の男子が生れました.いわゆる和田五兄弟です.後に,上の四人はヤオハングループの中核を担うようになり,五男泰明氏は,山西家の養子となり,山陽のスーパー・イズミの社長を継ぎました.
1930 年,良平氏は,半次郎氏から実質的なのれん分けを受け,新店舗を借りて八百半熱海支店を開店しました.これが,和田一族のヤオハングループの発祥と言われています.このとき,こんなエピソードがありました.良平氏は,家主の旅館から家賃のことをよく聞かずに店を借りたのです.そのため,地銀支店長の給料よりも高い月 65 円の家賃を支払う破目になりました.カツ氏は,月 20 円が限度と考えていたので,これにはビックリしたようです.それでも,二人は「やれるところまでやってみよう!!」と決心し,良平がコツコツと得意先を増やし,カツも無我夢中で働き,何とか軌道に乗りました.
1956 年,カツ氏は,旅館相手の野菜卸という業態に疑問を感じるようになりました.板前へのリベートが横行したり,未回収の売掛金が多大になったりで,売上の割に資金繰りが苦しかったのです.カツ氏は,良平氏を説得し,現金正札販売で有名なベニマル(現在のヨークベニマル)を,福島県郡山まで見学に行きました.当時,ベニマルは,八百半商店の 1/10 程の店舗で,1 日 25 万円もの売上がありました.このとき,八百半商店は,せいぜい 1 日 10 万円の売上でした.しかも,八百半商店の売上の大半は掛売なのに対して,ベニマルの売上は総て現金です.良平氏とカツ氏の驚きは相当なものだったのでしょう.この年の内に,良平氏は,社名を株式会社八百半食品デパートと変更するとともに,旅館相手の野菜卸と決別し,主に一般消費者相手に食料品(野菜,魚,漬物,乾物,お菓子,パン,・・・)の現金正札販売を始めました.現在のスーパーマーケットの原形ですが,当時,このような商売を行う店は,全国でも十数軒しかありませんでした.思い切った選択と言えますが,この選択は間違っていませんでした.現金正札販売は,御用聞き,配達,掛け売りなどの手間を省く分,品物を安く販売でき,当時,熱海で大評判になりました.新聞には,「八百半で買い物してその安くなった分を熱海市民が 1 年分出したら,小学校が建つ」とまで書かれました.
1962 年,株式会社八百半デパートに再び社名変更.同時に,良平氏が会長に退き,一夫氏が 33 の若さで社長に就任しました.この頃,八百半デパートの店舗は熱海 1 店だけでしたが,一夫氏は,1965 年頃から,八百半デパートのチェーンストア化を強力に推し進めて行きました.同じ形態の店を次々に作って本部で一括コントロールすれば,効率よく売上・利益を伸ばせるという考えでした.チェーン化は,まず伊豆半島を制覇して,後に富士山をグルリと囲む,という構想だったようです.このチェーン化は着々と進められ,売上は順調に伸びていきました.
しかし,八百半デパートがチェーン化を始めた頃,ダイエー,イトーヨーカドー,西友などの大手スーパーは,すでに全国チェーン展開に乗り出しており,中小スーパーを合併吸収しながら,全国制覇を目指していました.第二次流通革命と言われる弱肉強食の時代でした.1969 年,関西の雄ダイエーは,西友のお膝元である東京赤羽に乗り込み,西友と利益無視の安売合戦を繰り広げました.これは赤羽戦争と呼ばれました.この頃,一夫氏は大変な危機感を持ったようです.というのは,当時,ダイエーは年間売上 1,000 億円,ヤオハンは同 30 億円で,もしダイエー等の大手スーパーがヤオハンのお膝元の静岡に乗り込んできたら,ヤオハンは一呑みにされる可能性があったからです.ヤオハンが大手の仲間入りをしようとすると,東京・大阪へ打って出る必要がありますが,それも返り討ちに遭う可能性が高く危険です.
ただ,海外進出はリスクが付きまといます.特に,日本流通業初の海外進出となったブラジル進出では,金融機関が軒並み反対しました.八百半デパートの国内基盤も軟弱な段階だったので,当然です.八百半デパートは,結局,銀行融資を受けることが出来ず,海外経済協力基金に頼りました.このとき以降,一夫氏が国内外で積極的に推し進めるハイリスクな拡大戦略はしばしば銀行の反発を買いました.これが,後々,倒産の原因の一つともなります・・・
しかし,八百半デパートは,何とか持ち直し,ブラジルヤオハンの清算を終え,1982 年に名証二部,1986 年に東証一部への上場を果たしました.証取上場の前後を通じて,八百半デパートは,一時期の危機を忘れたように,尚も拡大戦略を続けました.自社のチェーン店網を拡張するとともに,国内外に子会社・グループ会社を作り,積極的に拡大戦略を取りました.香港,マレーシア,タイ,中国,マカオ,イギリス・・・
八百半デパート本体は,1991 年に株式会社ヤオハンジャパンと再び社名変更し,その前後の 1990~94 年に,転換社債・ワラント債の大量発行で 624 億円を金融市場から掻き集めました(転換社債の詳細は,またの機会に説明致します.ワラント債は転換社債の類似品です.).1990 年頃,ヤオハンジャパンの自己資本は 400 億円程度でしたから,如何に大きな金額であったかが分かります.ヤオハンジャパンは,この 624 億円を,国内外百貨店事業・自社店舗網などへの投融資として固定資産化して行きました.1995 年には,アジア一の巨大百貨店である NEXTAGE 上海を開店し,1996 年,ヤオハングループ本部を上海へ移転しました.多くの人々は,ヤオハングループの中国大陸へのド派手な事業拡張に度肝を抜かれました.これに先立ち,一夫氏自身は,香港の 14 億円の豪邸スカイ・ハイを買い取り,得意の絶頂へ上り詰めようとしていました.この間の 1993 年,カツ氏が亡くなりましたが,今思うと幸運だった気もします.
国内外百貨店事業は,そのリスクのため,銀行がこぞって反対したと言われています.そのため,銀行融資を受けることが出来なかったのです.しかし,ヤオハンジャパンは,銀行と決別し,直接金融で資金調達し,何かに取り憑かれたように,猛烈な拡大に走りました.
転換社債発行により集めた資金は,借金に他なりません.(転換社債が株式に転換されれば借金ではなくなりますが,その辺は,またの機会の説明にて.)グループ躍進のために背負ったこの 624 億円の大借金が,間もなく,ヤオハンジャパンを追い詰めることになりました.転換社債・ワラント債の一部 30 数億円分は株式に転換されましたが,結局,それ以外の転換社債・ワラント債は,1996~2001 年の間に償還しなければいけなくなったのです.借りてから僅か 4~9 年.ほぼ毎年 80~200 億円ずつの返済(償還)を迫られたのです.
1996.12,最初のワラント債残額 117 億円の償還期限が来ましたが,ヤオハンジャパンは,早くもこの段階で資金難が発覚しました.これに先立つ同年 8 月前後から,仕入先に買掛金の支払繰延を要請し始めていたのです.ヤオハンジャパンの資金繰悪化・経営難の噂は,アッと言う間に広がり,社債の格付引き下げ,株価急落と世間の不安感はいっそう深まります.12 月のワラント債は大和銀行の銀行保証が付いていたため,何とか銀行借入で償還資金を確保しました.取り敢えず急場を凌ぎましたが,この頃から,買掛金決済日のたびに 30 億円を超える支払繰延が続いたと言われています.ヤオハンジャパンは,尚も続くピンチを乗り切るため,次々と手を打ちました.
しかし,そうこうしているうちに,同年 5 月の第 2 回転換社債残額 96 億円の償還期限が迫りました.このとき,ヤオハンジャパンは,焦りが募り,ダイエーグループへ優良店舗 16 店を売却してしまいました.これらはヤオハンジャパンの全売上の 40% を稼ぎ出していましたが,売却代金 331 億円を償還資金に当てて資金繰を楽にしようとしたのです.しかし,これらの店舗には銀行の抵当権が付いていたため,331 億円の大半は銀行借入の返済に回りました.償還資金は社債管理会社の東海銀行からの借入で賄ったものの,店舗売却はヤオハンジャパンに何のメリットをもたらさなかったのです.それどころか,店舗減による売上急減・収益悪化,店仕舞いによる在庫処分損など,店舗売却により資金繰はいっそう悪化しました.
会社更生手続の開始が決定した今になって悔やまれるのは,次の点です.
前者については,銀行との関係を改善し支援を引き出しやすくすれば倒産に至らなかったかも知れない,という理由です.また後者については,優良店舗 16 店が残り,支払延期による仕入先の不信感の浅いうちなら,会社更生が随分と容易になったであろう,という理由です. 以上,ヤオハンジャパンの歴史の概略を振り返ってみました.総括すると・・・まず,良平氏・カツ氏の夫妻が,身一つから八百半を築き上げ,コツコツとその基盤を強化していきました.それを引き継いだ一夫氏は,事業規模の拡大に着手し,ヤオハンジャパンを一気に開花させました.ところが,一夫氏の拡大戦略は,常に,足元が不安定な状態で決行される傾向にありました.両親が一線を退き亡くなり,完全なワンマン経営者となった一夫氏は,転換社債・ワラント債の大量発行をテコに,身の丈に合わない拡大に暴走しました.結局,ヤオハンジャパンは,償還資金難を切っ掛けとして,資金繰に行き詰まり自滅したのでした. |
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