やはり仮想現実でも俺の青春ラブコメはまちがっている。 作:鮑旭
洞窟の中には、滴る水の音が響いていた。
1つ、2つ、規則的な間隔で音が反響する。巨大な空洞の大部分には静謐な水面が広がり、弾ける水の波紋だけがゆっくりと胎動していた。岩壁に設置された淡く青白い光を放つ松明と相まって、神秘的な雰囲気を漂わせる空間だった。
これが現実世界ならパワースポットなどと銘打って、いかにも偏差値の低そうな雑誌に特集されるのだろう。俺も静かな場所は嫌いじゃないが、わざわざ労力を払ってまで行きたいとは思わない。そもそも俺、比企谷八幡にとっての1番のパワースポットは自室のベッドの上だ。PFPとスマホがあればなお良し。パワーが溜まり過ぎてそのままベッドから出られなくなるまである。
ぼんやりとそんな思考を巡らせる俺を現実に引き戻すように、甲高い剣戟の音が響く。目の前では黒いコートを靡かせたキリトが1体のモブと交戦していた。
相手取るのは頭に橙色のバンダナを撒き、錆びたタルワールを振り回す骸骨――スケルトンクルー。いつでも加勢出来るように、キリトのやや後ろではトレードマークの紅白の軽鎧を身に纏ったアスナが油断ない表情でレイピアを構えていた。
これ、俺の出番なんかあるの? と言いたくなるような布陣だ。そもそも俺たちのレベルならソロでも問題ない敵だし、この2人なら万が一もないだろう。まあ完全にサボっていると後でアスナに小言を貰うことになるので、一応槍は構えておく。
などと考えているうちに、キリトの剣が敵の首を断ち切った。その一撃が綺麗に敵のHPを削り切り、一瞬の硬直の後、スケルトンクルーはその粗末な装備と共に光を放って砕け散っていったのだった。
洞窟内に再び静寂が訪れる。キリトは辺りを見回し、増援が居ないことを確認してから背中の鞘へと剣を納めた。それに続いてアスナも警戒を解く。一息ついてからお互いの労をねぎらい、俺たちは肩を並べて歩き出した。
「情報の少ないダンジョンだからちょっと警戒してたけど、さすがに大丈夫そうね。モンスターのレベル的にはソロでも余裕かな」
「まあ、まだダンジョンも浅いしな。先は長そうだしサクサク行こうぜ」
「だなー」
アスナとキリトの会話に俺は適当に頷いた。気の抜けた返事にキリトは苦笑いしていたが、幸い特に何を言われることもなく俺たちはダンジョンの奥を目指して歩を進めていく。周囲には人の気配はなく、洞窟の中には俺たちの足音が大きく響き渡っていた。
呆気ないほどに、俺たちは日常を取り戻している。まあアインクラッド内での狭義の意味での日常ではあるのだが。
人間というのは案外図太いものだなと、この3日間しみじみと思った。
ジョーとの戦いや討伐戦でのことは、罪悪感がないと言えば嘘になる。だが、それに押しつぶされるようなことはない。キリトとアスナを含む、多くの攻略組のプレイヤーたちも多分同じだろう。
グダグダと悩んで罪の意識に苛まれるのは、きっとそいつに余裕があって、暇だからだ。俺たちにはまだまだやらなければいけないことがある。自分の行いについて悩んでいる余裕などなかった。発展途上国よりも先進国の方が自殺率が高いという話を聞いたことがあるが、多分同じような理由なんじゃないかと思う。
何だか話が脱線したが、要は俺たちは
周りに視線を走らせながら、3人で肩を並べて洞窟内を歩く。少し薄暗いが、辺り一帯を見渡せる広い空間だ。あまり警戒する必要もないと思ったのか、隣を歩くアスナが表情を緩めながら口を開いた。
「この3人でパーティ組むのも、結構久しぶりよね」
「そうだな。しばらく立て込んでたし……。まあ俺とハチは基本一緒だったけど」
「ふぅん……。良いわよね、2人は。いつも一緒で楽しそう」
「……血盟騎士団は居心地が悪いのか?」
妬ましそうにじっとりとした目線をこちらに向けるアスナに、俺はそう問いかけた。公にはなっていないものの、アスナの血盟騎士団入団には俺も色々と関わっているので他人事ではない。しかし俺の心配を他所に、アスナは首を横に振った。
「ううん、別にそう言う訳じゃないよ。副団長として必要とされるのは嬉しいし。けどやっぱり2人みたいに『友達』って感じじゃないのよね」
「色々大変そうだな……。まあいつでも遊びに来いよ。クラインも喜ぶし」
「うん。ありがと」
キリトの言葉に、アスナは嬉しそうに頷いた。女子にさりげなく優しい言葉をかけてやれるなんて、さすがキリトさんだ。俺に影響されてぼっち道に片足を突っ込みつつあるが、やっぱり生来的にこいつはリア充側の人間なんだろう。
しかしアスナの口にした「友達」というのは俺とキリトの関係を指しているのか、それともアスナと俺たちの関係を指しているのか……。その辺りは少し気になったが、わざわざ聞くのもなんかアレなので俺はだんまりを決め込んだ。
「さて。じゃあ今日は気晴らしも兼ねて、3人でダンジョン攻略だな」
そこで気分を変えるように、キリトが明るく口を開いた。次いでこちらへと視線を向けて、言葉を続ける。
「一応一番の目的はハチのインゴットだけど……」
「まあ、見つかんなかったら見つかんなかったでいい。とりあえずコルが稼げればなんとかなるしな」
「確かここって、大昔の海賊の財宝が眠ってるんでしょ? ちょっと楽しみね」
「トレジャーハントって奴だな。じゃあ、張り切って行こうぜ!」
キリトは無邪気にそう言って、歩調を速めた。明るく返事を返したアスナと、適当に頷いた俺もそれに続く。そうして俺たちはダンジョンの奥へと進んで行くのだった。
時は、数時間前に遡る。
第一層。風林火山のギルドホーム。その一階のダイニングで、俺は朝飯を食べていた。
2列に木製のテーブルが並んだ30畳ほどの部屋には俺以外にも20人以上のプレイヤーが席についており、各々食事を取っていた。その中にはキリト、クライン、トウジ、シリカの姿もある。風林火山には食事担当のギルドメンバーがいるので、望めば朝と夜の決まった時間には給食が食べられるのだ。
まあ俺はこの人の多さにどうにも居心地の悪さを感じてしまうので、いつもは朝の鍛錬を終えた帰りにキリトと2人、外で朝食を済ませている。だが
まあ実際多くの風林火山のメンバーとはそれなりに長い付き合いなので、おおよそ俺との距離の取り方は分かってくれている。向かいの席に座って茶碗から米をかっ込んでいるクラインを除き、面倒な絡みをしてくる人間は居なかった。
これからはここで朝食を取るのも悪くないかもしれないなー、とそんなことを考えながら俺はB定食の焼き魚を箸でつつく。見たことのない小振りな魚だが、味は鯖に近く中々美味い。セットの味噌汁も出汁が利いていて俺好みの味だ。しばらくゆっくりとそれらを咀嚼し、その味に浸る。
今までの疲れが一気に押し寄せたのか、この3日間はほとんど自室で寝て過ごしていた。肉体的疲労が存在しないこの仮想世界だが、それ故に精神的な疲労は如実に表れる。連日のゲーム攻略と
それでも未だ疲労は色濃く残っているが、しかしさすがにそろそろ活動を始めないと不味い。スポーツなどは1日休むと勘を取り戻すのに3日掛かるとよく言われるが、この仮想現実においても似たようなことが言えると俺は思っている。最近はオフの日もキリトと朝練をしていたのでしばらくそう言ったことはなかったが、以前2日ほどサボった時にはかなり動きが鈍くなったのをよく覚えている。
この状態でいきなり最前線に戻るのも危険だし、まずは難易度の低いフィールドで軽く流すべきだろう。とりあえずキリトを誘って最前線から少し離れた階層にでも行くのが無難か。この数日は戦闘どころか槍にさえ触ってなかったし……。
……ん? 槍?
「あ」
「ん? どうした、ハチ?」
呆けた声を上げた俺の顔を、隣で朝からA定食のハンバーグをモリモリ食べていたキリトが覗き込んだ。俺はひとまずそれを無視し、システムウィンドウを開いてアイテムストレージを漁る。しかしストレージの一番下までスクロールしても、探していた物は見つからなかった。
やっちまった……。
俺は頭を抱えながら再び呟くように声を上げる。
「槍、忘れてた……」
「槍?」
問い返すキリトに視線をやり、俺はため息を吐きながら頷いた。
3日前、PoHとの一騎打ちに赴いた時のことだ。俺は奴を攻略組の待ち伏せるフィールドへと引きずり込むため、回廊結晶によって呼び出したゲートに一緒に飛び込んだ。そしてその際、奴の虚をついて懐へと飛び込むために俺は装備していた槍を放り投げたのだ。結果その企みは成功したのだが、PoHを捕縛し極度の緊張から解放された俺はそのまま気を失い、その後槍を回収するのを完全に忘れてしまったのだった。
そんなことを掻い摘んで説明すると、キリトは俺に同情したような表情を浮かべて口を開く。
「あー……あれから丸二日以上たってるし、さすがに消えてるだろうな」
「だよなぁ……。しくった……」
フィールドに放置されたアイテムは徐々に耐久値が減っていくので、時間が経てばいずれ消滅する。武器は消費アイテムなどに比べて耐久値は高い方だが、さすがにそう何日も持つものではない。ただでさえPoHとの戦いでゴリゴリ耐久値が削られていたので、とっくにポリゴンとなって砕け散っているだろう。
手塩に掛けて強化した武器をロストする。この手のゲームをやったことのある人間ならよく分かるだろうが、その喪失感は尋常ではない。仏教の四苦に並ぶレベル。
そうして俺が頭を抱えていると、こちらの話を聞いていたのだろう、向かいに座るクラインが箸を置いて声を掛けてきた。
「いい機会だし、新調すりゃあ良いんじゃねえのか? あれ、確か5層くらい前のドロップ品だろ?」
「まあな。けどミスなしでかなり強化出来た奴だったからもう少し先まで使う予定だったんだよ」
「予備の武器とかはないんですか?」
「あるにはあるけど……さすがに最前線で使うにはなぁ」
クラインの横で俺と同じB定食を食べていたシリカも口を挟んだが、俺はストレージを確認しながら首を横に振った。予備の槍――というか前に使っていた槍なのだが、さすがに10層以上前のドロップ品なので最前線でこれを使うのは遠慮したい。主に《頑丈さ》の数値の問題なのだが、これが適正値に満たないと耐久値の損耗が一気に激しくなるのだ。この槍を装備して最前線で戦えば、下手をすれば5、6戦した程度で武器破壊ということもありうる。
「じゃあ今日はオークションにでも行くか? エギルの所に行くっていう手もあるけど」
話しながら飯を食べ終わったらしいキリトが、麦茶を飲みつつそう提案する。
攻略組が使うような高性能な装備品は基本的にプレイヤー主催で行われているオークションに流れている。そしてエギルの店に並んでいるのは大体中層のプレイヤーが使うような型落ち品――こう言うとエギルは怒るのだが――だった。稀に掘り出し物もあったりするが、望み薄だろう。まあ見るだけならタダだし新しい装備を買うならエギルの店から回る方が楽だろうが、どちらにしろ先立つものが必要になる。
俺はシステムウインドウに視線を走らせ、その端っこに表示された心許ない数字を見つめる。それを確認しながら、再び力なく首を横に振った。
「……いや、最近出費が多かったからあんまり持ち合わせがな」
「何なら少しギルドの予算から出せますよ。ハチさんの武器に使うなら誰も文句は言いませんし」
「いや、いい。俺は養われるつもりはあるが、施しを受ける気はない」
クラインの隣で話を聞いていたのだろう、ギルドの財布を握るトウジからの甘い提案も断固として拒否し、俺はシステムウインドウを閉じる。「その2つって、どう違うんだ……?」というキリトの発言を聞き流しつつ、俺が再び飯を食べ始めると、クラインが何か思い出したように声を上げた。
「あ、そう言えばトウジ。何かこの前レアなインゴットが取れるダンジョンの話聞かなかったっけか?」
「ああ。そう言えばありましたね。確か資料が……」
そう言いながら、トウジがストレージを漁る。すぐに目当ての物は見つかったようで、タップすると何枚かの資料が手元に現れた。角が止められた書類を捲り、目を走らせながらそれを読み上げる。
「第49層、《潮騒洞窟》。数百年前、大海賊が財宝を隠していたとされる洞窟で、今もその最奥には様々な高価なアイテムが隠されている――という設定のダンジョンです。出てくるモンスター自体はあまり強くないみたいですけど、色々と厄介なトラップがあって難易度はそれなりみたいですね。噂では相当レアリティの高いインゴットが手に入るとか。まあ、裏は取れてないんで、眉唾な情報ですけど」
そう言ってこちらに視線をやるトウジ。少し考えながら俺はキリトと顔を見合わせる。
「インゴットか……。材料持ち込みならかなり安くなるだろうし、いいんじゃないか? 最近はプレイヤーメイドの武器も相当強くなってきてるし」
「49層なら予備の槍でもギリギリ何とかなるか。キリト、お前罠解除のスキル持ってたよな?」
「一応な。ちょっと熟練度が心許ないけど……」
そうして早くもダンジョン攻略について打ち合わせを始める俺たち。もう確認するまでもなく2人で行くことが決定していたが、それについては誰も口を挟まない。エリートぼっちを自称していた俺にはあるまじきことだが、このSAOが始まってからはキリトと別行動を取っている時間の方が圧倒的に少ない。難易度は低くとも初見のダンジョンなどは危険度が高くなるので、単独で攻略に挑むことはほとんどなかった。
そんな感じでトントン拍子に話は進み、俺とキリトはその日のうちに第49層の潮騒洞窟の攻略へと乗り出すことになった。いい笑顔のトウジに「あ、ついでにダンジョンの情報収集もお願いしますね」との指示も賜り、若干げんなりとした気分になりつつも上司命令には逆らえないので頷いておいた。
「そういやぁ、血盟騎士団もまだしばらく攻略は休みらしいぜ。せっかくだからアスナも誘ってみたらどうだ?」
適当な打ち合わせを終え、食事も済んだので食器を片付けるために席を立とうとした俺に、クラインがそんな言葉を投げかける。
「……いや、なんでわざわざアスナを誘うんだよ」
「ここ何日かブランクもあるし、お前ら2人だけだと無茶しそうで心配なんだよ。ホントは俺らがついて行きたいんだけどな……レベル差考えると足手まといになりそうだしよ」
問い返す俺の言葉に、クラインはばつが悪そうに頭を掻きながらそう続ける。足手まといとまでは言わないが、確かにクラインたちと俺たちでは足並みを揃えるのは少し難しいだろう。
しかしクラインのことだから先ほどの提案は下世話なお節介なのかと勘繰ってしまったが、意外と真剣に俺たちのことを考えてくれているようだ。心の中でクラインに謝っておこう。
「それにこういうの誘ってやらねぇと、後で拗ねるぞアスナ」
「そうだな。とりあえず誘うだけ誘ってみるか」
あれこれと考えているうちに、クラインとキリトが勝手に話を進める。まあ断固拒否するような理由もなかったので、俺も適当に頷いておいた。
その後キリトがアスナへとメッセージを送ると、そう間を置かずに色よい返事が返ってきた。そのまま待ち合わせの場所と時間を適当に決め、準備を済ませた俺たちは第49層へと向かったのだった。
「――しかしダンジョンに居る方が落ち着くなんて、もはや病気だよな」
第49層。潮騒洞窟。
入り口付近の巨大な空洞になっていた地点よりも少し奥へと進み、今は幅5メートルほどになった通路を歩きながら俺は呟いた。先頭にはキリト、間にアスナを挟み、殿に俺という陣形だ。
キリトは前方を警戒しつつも、俺の言葉にゆっくりと頷く。
「確かに……。
「ハチ君はともかく、キリト君はその気質在りそうよね」
「おい、ともかくってなんだよ。めっちゃギルドの社畜してるだろ俺」
「ハチ君はいつも嫌々じゃない……」
「馬鹿お前、嫌よ嫌よも好きのうちって言うだろ。とりあえず文句言いながらやるのが俺のスタンスなんだよ」
「つくづく面倒な性格してるわよね、あなた」
なんだか散々な言われような気もするが、正直自覚はあるので言い返せない。
そうして雑談を交えながら、俺たちは徐々にダンジョンの奥へと進んでゆく。緊張感が足りないと言われそうだが、実際これくらいが丁度いいのだ。集中力とはそう何時間も続くものではなく、長時間のダンジョン探索などでは適度に気を緩めながら進んでいく必要がある。
しかしだからと言って無警戒で歩いているわけでもない。長く攻略組として活動してきたおかげか、何となく危険なポイントには鼻が効くのだ。
「ん……15メートル先、左、何か居るぞ。構えとけ」
途中、俺は徐ろにそう口を開く。索敵スキルが敵を感知したわけではなかったが、前の2人は疑うこともなく頷き、武器を構えた。
じりじりと歩を進めて行くと、洞窟内の窪みとなった部分にバラバラになった人骨が散らばっているのが目に入った。こういったものはダンジョン内ではよく見るオブジェクトで、言ってしまえば雰囲気作りのための飾りのようなものだ。
故に普通ならば警戒するまでもないのだが、今回は何となく違和感があった。そしてその予想通り、俺たちがさらに近づくと人骨が音もなく組みあがり、スケルトンクルーへと変貌する――が、完全に組み上がるその前に、キリトが片手剣の一閃でそれを破壊した。そして駄目押しとばかりにアスナがソードスキルによる刺突を浴びせ掛ける。2人の攻撃によってスケルトンクルーは息絶えたらしく、そのままガラス片となって砕け散っていった。
……うん、まあ、プリキュアじゃないしね。変身するまで待ってあげる義理はないんだけど……それでも何となくモブを不憫に感じてしまった。
しかしそんなやり切れない思いを抱えていたのは俺だけのようで、キリトとアスナは軽く一息ついて武器を収める。
「……前から思ってたんだけど、先頭に居るキリト君の索敵よりも先にモンスターに気付くってどういうことなの? ちょっと反則じゃない?」
そう言って振り返るアスナと視線が合った。別に俺のことを責めているわけではないのだろうが、心底不思議だと言うように軽く眉をひそめている。
「いや、反則とか言われても……。ただの勘だし。まあぼっちっていうのは視線に敏感なもんなんだよ」
「そんな理由で片付けていいのかしら……」
「多分データ量の差なんかを肌で感じてるってことなんだろうけど……。まあ理由がわかったところで真似出来るようなものじゃないし、細かいことはいいんじゃないか?」
「そうね……」
アスナはそうしてまだ考えるようにしていたが、やがてキリトの言葉に納得したようで小さく頷いていた。
周囲には他に敵も居なかったので、俺たちは再びキリトを先頭に歩き始める。しかし数歩歩いた瞬間、先頭のキリト目がけて横の壁から何かが発射された。気が緩んだタイミングの不意打ちにキリトは妙な奇声を上げつつも、なんとかそれを回避する。
「あぶなっ! ト、トラップか……」
そう言って、壁に突き立てられた小さな矢に視線をやるキリト。矢はすぐにガラス片となって消えていった。俺が向かいの壁を確認すると、先ほどの矢が発射されたであろう小さな穴が開いていた。一応追加の罠がないかしばらくの間立ち止まって警戒したが、特に危険はなさそうなのを確認してため息を吐く。
「おい、キリト。今の罠、気付けなかったのか?」
「あー、うん。やっぱり熟練度低いからなぁ」
キリトは罰が悪そうに頭を掻きながら答えた。キリトの持つ《罠解除》のスキルには罠の察知能力も含まれるのだ。その精度はスキルの熟練度に依存するので、レベルの高いダンジョンの罠を察知するためには相応の熟練度が必要になる。本人が言うようにスキルの熟練度が低いため、キリトではこのダンジョンの罠を安定して察知するのは難しいようだ。それについては事前に話していたので、今さらキリトを責めるようなことはしない。
「ねえハチ君。スキルなしでモンスターの気配に気付けるんだから、トラップも分かんないの?」
「いや、無茶言うなよ……。そもそもモブも絶対分かるってわけじゃねえぞ」
「行動アルゴリズムが組まれてるモブと違って、トラップはデータ量も軽そうだしな。さすがにハチにも難しいんじゃないか」
アスナの無茶振りに俺が苦い顔で答えると、更にキリトが尤もらしい理由を補足してくれた。アスナも本気で期待していたわけではないようで、すぐに頷いて納得する。
「けど、これ結構危ないよな。罠関係は全部キリト頼みだし……。最悪、一旦引き返した方が良くないか?」
立ち止まって先ほど矢が出てきた小さな穴を眺めながら、俺はそう口にした。二度手間になるが、やはり安全が第一だ。気は進まないが、ここを攻略するならアルゴを誘って再挑戦した方がいいかもしれない。あいつはこういったダンジョン探索に必要なスキルは一通りカンスト――カウンターストップの略。上限値に達していると言う意味――しているのだ。
「んー……、でもトラップの分差し引いても俺たちのレベルならゴリ押し出来るだろ。それに一応大掛かりなトラップになるほど察知しやすくなるし、全部に引っかかるってわけじゃないぞ」
「……まあ、それもそうか」
キリトの言葉に、俺は少し考えてから頷いた。確かにこのダンジョン程度ならゴリ押しが効くだろう。仮に大量のモブに囲まれたタイミングで罠を踏み、俺たち3人とも麻痺に掛かってリンチされたとしても、5分程度なら耐えられる。そして5分もあれば体は大分動くようになるし、
余程のアクシデントがない限りはこのまま攻略しようという結論に至り、俺たちは再びダンジョン攻略を開始する。
「しかし数はともかく、今のところは聞いてたほど厄介なトラップはないな。まだまだ先があるってことか」
「そこそこ歩いたけどまだ一本道だしな。隠し通路を見落としてるってんでもなければそろそろ何かでかい仕掛けがあっても良い気がするけど」
キリトの言葉に俺はそう言って相槌を打つ。インディージョーンズばりの罠を想像してきたのだが、まだちゃちな落とし穴や先ほどのように壁から矢が飛んでくる程度のものにしか出会っていない。この程度のものなら普通のダンジョンにもたまにあるし、まだまだ先があるということだろう。
「隠し通路を見落としてるパターンだったら面倒だな……。まあとりあえず進めるところまで進むか。……ん?」
言って、キリトが立ち止まった。通路は15メートルほど先で曲がり角になっていて見通せないが、微かに人の声のようなものが聞こえる。その場で耳をすませると、怒りで声を荒げる女の声がはっきりと聞こえた。
「この声、プレイヤーか。近いな」
「あまり穏やかじゃなさそうね」
何だかトラブルの匂いがする。そしてキリトやアスナはこういったトラブルに顔を突っ込むのが大好きだ。若さ故か、こいつらは自分が正しいと思うことをするのに躊躇いがない。
案の定「急ごう」と口にして足早に歩き出すキリトに、頷いたアスナが続く。この場で俺が反対しても黙殺されるのがオチなので、ため息を吐きつつも俺もその背中についていく。途中このダンジョン初めての分かれ道があったが、キリトは迷わずに声がする方へと進んで行った。
「だから、何度も断ってるじゃない!」
響いたのは、女の声だ。
歳は俺よりも少し下くらいか。赤味がかったブロンドは毛先が撥ね、勝気な上がり目と合わさって威圧的な印象を受ける少女だった。
見たところ大の男5人組に絡まれているようだったが、臆することなく仁王立で男たちを睨んでいる。
「そんなツンケンすんなって。こんなダンジョンの奥に女の子1人じゃ危ないだろ?」
「そうそう。それに俺たち中層じゃそれなりに名前の通ったギルドなんだぜ。獅子の咆哮っつうんだけど……」
「知らないわよそんなギルド」
パーティの勧誘を巡るトラブルのようだ。普通なら1度断られて終わりなのだが、見るからに柄の悪そうな男たちがしつこく食い下がっているのだろう。
不良に絡まれる少女。フィクションの世界ならありがちだが、現実では中々遭遇することのないシチュエーションだ。しかし、実はSAOの世界では割と頻繁にこう言ったトラブルは発生する。
ゲーム内では《軍》――ギルド《アインクラッド解放軍》の略称。今では《ALF》よりもこちらの方がプレイヤーの間で根付いている――が警察機構のような役割を担っているが、圏外、特にダンジョン内などは目が届かない場所も多く、そういった場所は無法地帯とはいかないまでも治安はあまり良くなかった。
オレンジカーソルになればシステムによる制裁を受けることになるためその一線を越えるプレイヤーは少ないのだが、逆に言えばそのラインさえ犯さなければ問題ないと考える小悪党は多い。
加えてたちが悪いのはそういった問題を起こすのはそれなりにレベルが高いプレイヤーが多いことだ。ゲーム内での自分の力に酔い、勘違いし、調子に乗ってしまうのかもしれない。
余談だが攻略組は基本的に真面目な人間が多く、さらにはヒースクリフやハフナーなどのギルドのトップがしっかりと目を光らせているので何か問題を起こすことは少なかった。
「おいお前ら、強引な勧誘はマナー違反だぞ」
「あ? 何だてめぇ?」
俺が遠巻きに状況を伺っているうちに、キリトがそう言って男たちと少女の間に割り込んだ。その隣にアスナも続く。
突然現れた闖入者に男たちは食って掛かろうとしたようだが、キリトの隣に立つアスナの姿を認めると驚いたような声を上げて動きを止めた。
「おい、あの後ろの女の子って……」
「閃光アスナ様じゃねえか!」
「え、あの血盟騎士団の!?」
そうして色めきだった男たちの無遠慮な視線に晒されアスナは少し不快気に顔を歪めたが、この程度のことには慣れているのだろう、それを無視し、キリトの後ろに立つ少女を気遣うように声をかけていた。少女も最初は戸惑っていたようだが、2人が自分を庇おうとしてくれるのを察すると、少し表情が柔らかくなる。
……ちなみに俺は思うところがあって、少し離れた位置から状況を伺っている。
「へえ。お前が噂の閃光アスナか」
そう言って、男たちの中でも一際大柄なプレイヤーが一歩前に踏み出す。その横柄な態度から男がこのパーティのリーダー格なのはすぐにわかった。
身長190センチ以上のガッチリした体型の男。刈り上げた側頭部にはラインが走っていて、見るからに柄の悪いチンピラだった。現実世界だったら絶対に関わり合いたくないタイプの人間だ。
声をかけられたアスナは不快気な表情を隠そうともせず男を睨みつけた。普段から一回り以上歳の離れたギルドメンバーたちを相手にしているからだろうか、チンピラ相手にも臆すことはないようだった。
「……だったら何だって言うのよ」
「まだガキだけど案外可愛い顔してんじゃねえか。なあ、こんな青臭い小僧より俺らと一緒に行こうぜ。別にギルドメンバーってわけじゃねえんだろ?」
「お断りよ。貴方たちみたいな人よりキリト君の方が100倍頼りになるわ」
「ハッ! 気の強い女は嫌いじゃないぜ」
そう言って下卑た笑みを浮かべるチンピラたち。
これは話し合いだけで解決しそうにないな。そう判断した俺は、来た道を足早に引き返した。
このまま帰るのが精神衛生上一番よろしいのだが、そうするとまた後が怖いのでやめておこう。アスナとキリトにソードスキルで小突き回されそうだ。
先ほど通った丁字路まで引き返し、俺は走る速度を上げつつそのまま反対の道へと進んで行った。駆けながら索敵スキルで何体かのモブを察知しつつ、そいつらをあえて挑発するように通り過ぎる。スケルトンクルー、シルバーウルフなど4体ほどのモブのタゲを取ったことを確認し、俺は再び来た道を引き返した。
モブを引き離し過ぎないように注意しながら、先ほどの場所まで戻る。時間にして5分も経っていないだろうが、見るとチンピラたちとキリトたちは互いに武器を構えて一触即発の状況にまで発展していた。
やっぱりこじれたか。そう思いながら、俺も武器を構える。モブを引き連れたまま、チンピラたちの傍らまで駆けつけた。
「な、なんだ!?」
そう言ってチンピラたちは武器をこちらに向けるが、俺はそれに構わず振り返り、モブへと槍を振るう。青い光を灯した槍が先頭に立っていたスケルトンクルーとその後ろのシルバーウルフの体を軽く掠めた。
トレインしてきたモブたちのタゲが上手くチンピラたちへと移ったのを確認し、俺は再び走りだす。
「行くぞ」
短く言ってキリトたちの前を通り過ぎると、俺の意図を察した2人が弾けるように動きだす。アスナは傍らの少女の腕を取ってダンジョンの奥へと向かって駆け出し、キリトは追い縋ろうとするチンピラたちを牽制しながらその後を追った。チンピラたちは初めこちらに付いてこようとしたが、俺がトレインしてきたモブたちに阻まれてすぐに断念したようだった。
「クソがッ! テメェら覚えてやがれッ!!」
チンピラたちの悪態を背中に受けつつ、俺たちはダンジョンの奥へと駆けて行った。
5分以上無言でダンジョンの中を走り抜け、たどり着いたセーフティゾーンの小部屋で俺たちはようやく息をついた。ここに来るまでいくつか分かれ道があったし、俺が押し付けたモブを処理するのにも少し時間がかかるだろうからしばらく奴らに追いつかれることはないだろう。
「ハチ君って、いつもやることは間違ってないんだけど、やり口が姑息なのよね……」
「おい、第一声がそれか」
手頃な岩に腰掛けて一息つく俺を、アスナが胡乱気な眼差しで見下ろしていた。
アスナには姑息などと言われてしまったが、実際話の通じない相手にはこれが1番スマートな方法なのだ。
実は今までも同じようなトラブルに何度か遭遇したことがあるのだが、ああいった手合いに話が通じることは少なく、大抵の場合刃傷沙汰になる。それでもまだ
だからああいった状況では逃げてしまうのが1番いいのだ。そして上手く逃げるためにはモブを押し付けてしまうのが最も効果的である。
「まあ今回は正直助かったよ。こんな所でオレンジカーソルになるのも馬鹿らしいしな」
今までの経験から俺と同じ結論に至っているであろうキリトが、そう言って俺をフォローする。若干納得がいかなさそうだったが、アスナも「まあ、そうね……」と頷いた。
「……あの」
それまで蚊帳の外だった少女が小さく声を上げた。俺は顔を上げ、前に立つ少女へと目を向ける。
つり上がった瞳からは、少しだけ戸惑いの色が見て取れた。俺と目が合うと、ライトブラウンの髪を弄りながらさりげなく視線を逸らす。
今さらだが、中々煽情的な衣装の少女だった。青い布地に胸部だけ鉄製のプレートが縫い付けられたトップスは露出が高く、上に群青色のケープを羽織ってはいるものの鎖骨も臍も丸見えだった。下衣装備も際どい白のショートパンツであり、膝丈上までの黒いソックス、そして極めつけは生足部分に巻き付けられた革製のレッグポーチである。まだ若干幼さの残る美少女のそんな姿に俺は思わず生唾を飲み込みそうになったが、何とかそれを堪え、何でもないように視線を宙に漂わせる。
そんな不埒な思考を働かせる俺をよそに、アスナが口を開いた。
「あ、ごめんね。あいつらに絡まれて迷惑そうだったから連れてきちゃったけど……。もしかして余計なお世話だった?」
「ううん。助かった。ありがとう」
そこで初めて少女が笑顔を見せた。
「私、フィリア。えっと、アスナ……様って呼んだ方が良いのかしら?」
「お願いだから、様はやめて……」
そう言ってアスナは苦笑いを浮かべる。最近では「閃光アスナ様」などとあだ名され、血盟騎士団の中でも「アスナ様」呼びが定着していたが、本人的には不服らしい。「言っても止めてくれないのよ……」とよく愚痴っていた。
「一応、紹介しておくわね。こっちがキリト君で、あっちの目が死んでる人がハチ君」
「ねえ、何か俺にだけ一言多くない?」
「キリトとハチ……って、風林火山の?」
「まあ、そうだな」
フィリアの視線を受けてキリトが頷く。俺の突っ込みは完全に黙殺された。解せぬ。
「まさかこんな所で3人も有名人に会うなんてね……不思議な感じ」
「有名人とかやめてくれ。背中が痒くなる」
しげしげとこちらを見つめるフィリアに、キリトは苦笑を浮かべてそう答える。
俺とアスナは言わずもがな、ひと月前くらいからキリトの知名度も相当高くなっていた。第50層のフロアボス戦で大活躍し、ラストアタックを取ったことが《Weekly Argo》の一面に載ったことが大きかったのだろう。始めは少し嬉しそうにしていたキリトだったが、最近は煩わしそうにしていることの方が多い。
「2人もさっきはありがとう。しつこく絡まれて困ってたのよ」
フィリアがこちらに視線を向けた。俺とキリトは適当に頷いて答えると、ややあって彼女は少し険しい表情を浮かべる。
「でも、あいつら大丈夫かな。さすがに死んじゃったら寝覚めが悪いんだけど……」
「この階層に来れる奴らだったらあれくらい大丈夫だろ。見た感じ装備も結構いいの揃えてたし」
フィリアの懸念に俺は間を置かずに答えた。相手がチンピラとは言え命に関わることなので、そこは一応気を使っている。チャラい態度とは裏腹にタンク3、タンク寄りのアタッカー2の堅実なパーティだったので、無理にこちらを追って来たりしない限りは問題ないはずだ。
「けどこの後どうするよ? ダンジョンの中でまたあいつらとばったり鉢合わせとか絶対に嫌だぞ」
話を変えるように俺は口を開いた。正直チンピラたちの命よりもそちらの方が心配だ。どんなに長引いても2~30分もすれば奴らも押し付けたモブの処理を終えて俺たちを追ってくるだろう。奥に来てダンジョンの構造も入り組んで来たので可能性は低いが、遭遇する確率はゼロじゃない。
そんな俺の言葉に、キリトは曖昧に頷く。
「そりゃあ俺もそうだけど、このまま帰るってのもなぁ」
「私は絶対に嫌よ。このまま帰ったらなんか負けた気がするじゃない」
「お前って妙なところ意地っ張りだよな……」
どうして俺の周りはこう鼻っ柱が強い女が多いのか……。そう思いながら俺がアスナを見ていると、有無を言わさぬ力強い眼差しのアスナと視線が合った。
「要はあの人たちに追いつかれない速さでダンジョンを攻略すればいいんでしょ? 何も問題ないわ」
「……ああ、うん。そうだな」
俺はもう諦めたように頷いた。
ただ、万が一先ほどのチンピラたちと遭遇した場合には、トラブルに発展する前に転移結晶で撤退することを取り決めた。不承不承と言った様子だったが、最終的にはアスナもそれに同意してくれた。
「フィリアさんはソロで来てたのよね?」
話が一段落つき、アスナがフィリアへと水を向けた。彼女は気さくに「フィリアでいいよ」と一言断ってから再び口を開く。
「うん。ホントはちょっとレベル足りてないんだけどね。罠が厄介な代わりにモンスターのレベルは高くないって聞いたから1人で来てみたんだけど……。やっぱりちょっと戦闘がきつくて引き返そうと思ってたところだったの」
ゲーム攻略の適正レベルはその階層に10を足したものだとよく言われるが、当然ながらモブの分布などによって多少上下する。このダンジョンはフィリアの言う通りモブのレベルは低く適正レベルは57~8と言ったところだろう。
しかしこの適正レベル云々はそもそもパーティ攻略前提の話なので、ソロとなるとまたかなり話が変わる。ここを安定してソロ攻略出来るようになるのは、低めに見積もっても準攻略組レベルのはずだ。
はっきりと分かるわけではないが、フィリアの装備品を見る限りそこまでのレベルに達しているようには見えない。おそらく引き返そうとした彼女の判断は正しい。
フィリアの話を聞いたアスナが、何か問いかけるように俺とキリトに視線を向ける。キリトがそれを察して頷くと、それを確認したアスナが話を切り出した。
「ねえ、もしよかったら私たちと一緒に行かない?」
「フィリアはソロで来るくらいだから罠解除スキルのレベルも高いんだろ? 俺たち戦う分には問題ないんだけど、そっちの備えが心許なくてさ」
俺に断りも入れず、フィリアをパーティに勧誘する2人。なんだかもうこの雑な扱いにも慣れてきたので、俺は口を挟むことなく成り行きを見守ることにした。この場で1人反対して空気を悪くするのも面倒だ。
まあ冷静に考えて、この場でのパーティ勧誘はお互いにとって悪い話ではない。罠解除のスキルを持つのは俺たちの中ではキリトだけで、今まで頻繁に使う機会もなかったのであまり熟練度が高くなかった。フィリアの発言からすると罠解除のスキルレベルは相当高そうだし、お互いに足りない部分を補えるはずだ。
先ほどのチンピラたちの勧誘も、ダンジョン攻略という観点だけで見ればフィリアにとって悪いものではなかったのだろうが、いかんせん態度が悪すぎた。
「一応罠解除のスキルは熟練度カンストしてるけど……いいの?」
「いいも悪いも、こっちからお願いしてるんだ」
突然の勧誘に少し戸惑いを見せるフィリアだったが、キリトの言葉にややあって頷いた。
その後、パーティリーダーであるキリトが手早くパーティ申請を送り、新しくフィリアをパーティメンバーに迎え入れた。陣形やアイテム分配などの打ち合わせもそこそこに、俺たちは再びダンジョン攻略を開始したのだった。
「フィリアって、まさに女盗賊って感じよね。メインウェポンのソードブレイカーに、スピード重視の軽装備、偵察系のスキルも充実してるし」
「あ、わかる? 一応そういうコンセプトでカスタムしてるんだ。トレジャーハンターとかそういうの憧れでさ」
「そういうこだわりって大事よね。うちはギルドの方針であんまり装備弄れなくってさー」
「あー、血盟騎士団って色々大変そうよね。でもアスナの装備って統一感あってかっこいいし、この小物とか凄く可愛いよね」
「あ、これね、知り合いの子に作ってもらったの。他にもね――」
……女3人寄れば姦しいと言うが、2人寄るだけでもやかましいな。
前を歩く2人を眺めながら、俺はそんなことを考える。
しかし、盗賊とトレジャーハンターはイコールで結んでいいのだろうか。RPGなどの職業では2つとも似たようなスキル構成になりそうではあるが、どうにもトレジャーハンターのイメージがカウボーイハットを被ったハリソンフォードに引っ張られてしまうので盗賊という感じはしない。堅気な商売ではないという点では似たようなものなのかもしれないが。
まあジョブシステムの存在しないSAOでは肩書きなど些細な問題だ。しっかりと仕事はこなしてくれているし、野暮なことを口を出すのはやめておこう。
フィリアをパーティに加えてからも、特に問題が起こることもなくダンジョン攻略は進んでいた。斥候的なポジションである彼女は本来なら先頭を歩くべきなのだろうが、不意打ちなどの危険も考慮して先頭にはキリト、真ん中にアスナとフィリアが並んで殿が俺という陣形を取っている。アスナと楽しげに会話しているフィリアだが、ちゃんと周囲は警戒しているようで、度々罠を発見してはそれを危なげなく処理していた。戦闘の方もあまり出しゃばり過ぎず淡々と自分の仕事をこなしてくれている。
「キリト、ちょっと止まって」
唐突にフィリアが声を上げ、キリトを呼び止める。立ち止まったキリトを追い越し、フィリアは一見すると何の変哲もない場所にしゃがみ込んだ。
「トラップか?」
「うん。落とし穴系かな……。これで良し、と」
そう言ってシステムウインドウを弄っていたフィリアが一息つく。どうやら仕掛けられていた罠を解除出来たようだった。罠解除の際には何かパズルのような要素があるらしく、それをクリアすることで安全に罠を解除することが出来る仕組みだった。
「やっぱりフィリアをパーティに誘って正解だったな……。今のトラップとか、俺のスキルの熟練度じゃ察知も出来なかったし」
「まあ、それだけが取り柄だしね。でもあんまり信用し過ぎないで。スキルじゃ感知出来ないタイプのトラップもたまにあるから」
「あー。トラップっていうより、ダンジョンのギミック的な奴だな」
キリトとフィリアは会話を続けながら、再び歩き出す。
アルゴに聞いた話だが、フィリアが言うようにスキルによる感知が出来ないタイプの罠が稀に存在するらしい。それは大抵非常に大掛かりな罠で、小部屋の天井が迫ってくるものだったり、床が崩れてくるものだったりという話だ。罠解除のスキルが通用しないという特性とその規模の大きさから言って、それは罠ではなくゲーム内のギミックに分類されるものなのではないかというのが多くのプレイヤーの見解だった。
実際にはそれが本当に感知が出来ないタイプの罠だったのか、それとも単純に熟練度不足、または不注意による見落としだったのかは判別することが出来ないのだが、過去に何度かそれに遭遇したことがあるらしいアルゴ曰く「普通の罠だったらオレっちが見落とすハズがないダロ」とのことだった。
その人となりはともかく、アルゴの探索者としての能力について俺は疑いを持っていない。事の真偽は不明だが、あの鼠に感知出来ない罠ならどっちにしろほとんどのプレイヤーに感知できないだろうということだけは確かである。そう言った厄介な罠が存在すると仮定して用心した方がいいだろう。
「でも、そういうのもダンジョン攻略の醍醐味だよな。フィリアが居てくれて助かってるけど、ゲーマーとしては何もないってのもちょっと寂しいというか……」
「あはは。まあ気持ちは分かるけどね」
――ガコンッ。
キリトとフィリアの会話を途切れさせるように、ダンジョン内に不吉な音が響き渡った。前を歩く3人がゆっくりとこちらを振り返る。
「……ハチ?」
そう呟いたキリトの視線は、俺の足元へと注がれていた。
右足で踏み抜くように出来た、不自然な四角い窪み。15センチほど地面に沈み込んだ足の裏から、「カチッ」という何かのスイッチを押したような嫌な感触が伝わってきた。
ゲーム内で地形が変化するのは、何がしかのギミック、もしくは罠が発動した時だけである。俺は右足を踏み出したままの体勢で固まり、抗議するようにキリトへと目を向けた。
「お前が妙なフラグ立てるから……」
「いや、俺のせいじゃないだろッ!?」
「馬鹿なこと言ってないで! 何か来るわよ!!」
アスナが一喝し、後方へと視線をやる。釣られて振り返ると、いつの間にそこにあったのか幅5メートルほどの通路をぴったりと埋めるような大岩がゆっくりと転がってくるのが遠くに見えた。それは徐々に速度を増しながら、こちらへと迫ってくる。
「走れ!」
お約束過ぎるだろッ! と俺は心の中で妙なつっこみを入れつつも、キリトの叫び声と共に既に走り出していた3人の後を追った。
後方からこちらへと迫りくる大岩。それから逃げるように走りながら、俺は周囲を確認する。見える範囲ではしばらく一本道だ。退避出来るようなスペースはなく、しばらくはあの大岩と追いかけっこをしなければならない。幸い周りにはモブの気配はなかった。
「あれが噂の感知出来ない罠って奴か!?」
「わかんないけど、多分そう!」
大岩の転がる轟音に負けじと声を張り上げるキリトとフィリア。先頭を走るキリトはまだ速度に余裕がある様子で、チラチラと後ろを確認している。そのすぐ後ろを走るアスナも同様に、度々フィリアへと視線を向けていた。2人ともフィリアの走る速度に合わせているのだ。
SAOでの足の速さは敏捷性の数値に依存している。装備の重量や補正などでも多少変化はあるため一概には言えないが、基本的にレベルが高いプレイヤーほど足が速くなると考えていい。
準攻略にも及ばないであろうフィリアと俺たちではステータスにおそらく相当な差がある。つまり攻略組である俺たちが全力で走ると、フィリアが1人だけ取り残されてしまうのだ。
こんな危機的な状況でも協調性を持って行動出来ることは美徳と言えるだろう。ただ、今この場に限って言えば、その行動は特に意味を持たない。そう考え、俺は前を走る2人に向かって声を張り上げる。
「キリト! アスナ! お前ら2人で先行ってろ!」
「えっ!? で、でも……」
「この状況で固まっててもしょうがないだろ! もし先にモブが居たら蹴散らしといてくれ!」
「……わかったわ!」
俺の指示にアスナは一度躊躇うような返事をしたが、さらに続く言葉に納得したように頷いた。キリトも無言で頷き、そのままアスナと視線でやり取りすると、一気にスピードを上げる。
「俺らが居ないからってフィリアに変なことするなよ!」
「そう言うのいいから! さっさと行け!!」
去り際にキリトはそんな戯けたことをぬかしていった。この状況で冗談を言えるとは大した胆力だ。
全力で走り出したキリトたちのスピードは恐ろしく、ものの数秒で数十メートルもの差がつく。小さくなった2人の背中を見つめながら、フィリアは苦い表情を浮かべていた。自分に気を遣われている自覚があるのだろう。俺がここに残ったのも、万が一の時にフィリアをフォローするためだった。
「ごめんなさい。足手まといね、私……」
「今はそんなこといい! とりあえず転移結晶用意しとけ! 下手すりゃ追いつかれるぞ!!」
「……うん!」
今はへこんでいる場合ではない。フィリアもすぐにそれを理解し、気持ちを切り替えるように大きく頷いた。次いで俺の言った通りにポーチから手のひら大の青い結晶――転移結晶を取り出す。俺も同じように転移結晶を取り出して右手に構えた。
大岩の転がる轟音は、少しずつ大きくなっていた。まだある程度距離はあるが、緩やかな坂道を下っているせいで大岩は徐々に加速している。このままではそのうち追いつかれるのは確実だった。
あの大岩に巻き込まれたら、どうなるのか。あのサイズの岩があのスピードでぶつかれば大ダメージは必至だ。というか、普通に即死する可能性がある。
さすがに追いつかれる前に回避スペースがあるだろうとは思うが、最悪の場合も想定しておいた方がいい。
「やばいと思ったら、何処でもいいからすぐに転移しろよ!」
「わかった!」
俺の言葉に、フィリアは再び頷く。しかし俺は口にした言葉とは裏腹に、最悪転移結晶が使えないのではないかという危惧も抱いていた。
これだけ大掛かりなギミックだ。経験上、こういったものは転移結晶使用禁止エリアとセットになっていることが多い。しかしそこまで話せば無駄に不安を煽るだけなので、口には出さなかった。その分転移結晶が使用できなかった時にパニックに陥るかもしれないが、どちらにしろその時には次の手を打つ余裕もない可能性が高い。
そんなことを考えていると、いつの間にか先を行くキリトたちの背中は見えなくなっていた。通路は緩やかなカーブになっているのだ。そして、後ろに迫る大岩は更にこちらとの距離を縮めてきていた。
じわじわと危機感が募る。何か手はないかと周囲に目をやりながら走ること数十秒。ここまでひたすら狭い通路を走っていた俺たちだったが、急に視界が開け、同時に周囲の空気ががらりと変わったのを感じた。
一瞬もう助かったのかと思ったが、現実はそう甘くはなかった。確かにそこは開けた空間になっていたのだが、左側は数十メートルの崖になっていて、崖下には地下水脈が濁流となっているのが見えた。落ちたら即死はしないまでも、あの流れの速さでは溺れて死ぬ可能性が高い。右は壁になっているので結局道幅は狭く、退避出来るような場所はなかった。体術スキルの壁走りで岩壁を登れないかとも考えたが、反り返りがきつく難しそうだ。
何かの衝撃であの大岩が崖下に落ちてくれれば……とそんな期待を抱いたが、大岩は速度を緩めることもなく相変わらず俺たちを追ってきていた。
これは本格的に不味いかもしれないな、と心の中で呟く。視界が開けたお蔭で道の先も良く見えるようになったのだが、まだしばらく道幅の狭い一本道だ。このマラソンのゴールまで、下手をすればまだ数キロはありそうだった。
幸いSAOの中にはスタミナという概念はない。故にシステム的には何時間でも全力で走り続けることが出来る。しかしそれも、気力さえ持てばの話だ。
俺は隣を走るフィリアに目をやった。息を荒げ、険しい表情を浮かべるその様子には、全く余裕はない。キリトたちには及ばないとはいえ、現実世界ではありえないほどのスピードで走っているのだ。道も舗装されていない洞窟でこんな全力疾走を続ければ、消耗するのも仕方がないというものだった。大岩に追われているというプレッシャーも考えればなおのことだ。
「フィリア、もういい。余裕があるうちにそれ使え」
「……うん。ごめん」
限界が近いという自覚があったのだろう。俺が促すと、悔しそうにフィリアは頷いた。
帰ったら連絡するね、と一言断ってから、フィリアは右手に持った転移結晶を掲げる。
「転移、アルゲード! ……って、あれっ!? なんでッ!?」
フィリアの掲げた転移結晶はボイスコマンドに一切反応せず、沈黙したままだ。焦った様子でフィリアは何度もコマンドを唱え直すが、やはり反応はない。
……やっぱりか。なんでこのゲームのダンジョンはこうも性格が悪い作りをしていることが多いのか。相当性格が捻くれた奴が作ったに違いない。
転移結晶を使えない事実に軽くパニックを起こしてしまったフィリアが、俺の隣で足をもつれさせた。そして小さな悲鳴を上げて、その場に転んでしまう。
すぐにブレーキを掛けて立ち止まった俺が振り返ると、怯えた表情のフィリアと目が合った。しかし彼女はすぐに恐怖を振り切るようにかぶりを振ると、その目に気丈さを取り戻す。
「……私のことは良いから、行って!!」
震える拳を握りしめながら、フィリアはそう叫ぶ。しかし俺はそれを無視し、この危機的状況を脱するために頭を働かせた。
大岩にソードスキルをぶち込んで、軌道を変えさせる? いや、不可能だ。力負けするだろうことは感覚的に分かる。ならば――。
視線を崖の先へと走らせる。地下水脈を挟んだ向こう側。切り立った岩壁に、複数の横穴が開いていた。穴は奥へと続き、どこかに繋がっているように見える。
大岩は、もうすぐそばまで迫っていた。迷っている余裕はない。
俺は持っていた転移結晶を仕舞いながらへたり込んでいるフィリアへと近づき、左腕で抱え込んだ。彼女は小さく悲鳴を上げたが、俺は構わず声を張り上げる。
「飛ぶぞ! 掴まれッ!!」
「えっ……? きゃあああああああああっ!?」
助走をつけて、崖の縁に足を掛ける。フィリアの叫び声と同時に、俺は走り幅跳びの要領で思い切り踏み切った。フィリアが腰に抱き着いているのを確認しつつ、背中から槍を取り出す。
ステータスにものを言わせての、大ジャンプだ。あまり助走は取れなかったが、十数メートルは飛んでいる。しかし、このままでは向こう側までは届かない。丁度中間あたりの距離だった。
巨大な地下空間。眼下に流れる濁流。妙な開放感に何故か恐怖よりも若干の興奮を感じつつ、俺は槍を構えた。
突進系の単発ソードスキル。青い光が槍に灯ると、物理法則を無視して空中で一気に体が加速した。
そのままの勢いでかなり直線的な軌道を辿り、俺たちは岩壁に開いた横穴へと突っ込む。受け身も取れずに2人でもみくちゃになりながらも、なんとかダメージもなく地面へと着地した。
仰向けに倒れ込んだ俺。その腰にしがみつくように、フィリアが上に重なっている。俺たちは放心したように、しばらくその場で固まっていた。
「た、助かった……」
俺の腹へと顔を埋めながら、やがてフィリアは脱力するようにそう呟いたのだった。
フィリアはゲームのキャラです。
ホロウエリアに囚われてないので少し性格は明るめになってます。