きっと私は「作り物の普通」を内面化している。そしてそれは私が15年もいる芸能の仕事でやっている役割のほとんど全部なんじゃないか。その普通って、誰のためのものなんだろう。小顔矯正が一通り終わって鏡を見てみると、そこにあるのはやっぱり「普通」の顔だった。(p91)
10歳のときから「芸能人」として生きている著者は、多くのバイアスや先入観といった類のものに自分が取り込まれて生きている、ということに気づいている。そしてそれを(わかっていながら)払拭できないでいる自分と戦ってもいる。
本書はとあるウェブ媒体の連載(書評エッセイ)を元に構成されていて、そのはじまりは2017年。2019年までの約3年間の連載と、それ以降を綴る書き下ろし(not連載)。概ね時系列どおりに構成される本書は、彼女のその思考/試行錯誤を感じさせるものになっている。
そして連載部分と書き下ろし部分で、明らかに何かが変わっている。その理由は、外面的なものとしては彼女が所属事務所を辞めて独立したことが大きいのだろう。事務所という、自分を守ってくれる盾でもあり、同時に自分というものを傷つけてくる矛でもあった存在。そこから離れた彼女の感じる不安や戸惑いと、解放感。そしてその変化が、彼女の書くもの(つまりそれは生活や生きかたそのもの)に確かな変化を与えている。
幼少期から感じていた違和感、本当は抗いたかったけどどうにもできなかったあれこれ、それらに対して「自分ひとり」で対峙すること(が可能)になった彼女が、その高揚感と恐怖をともにじっくりと味わっている。彼女はいつか「作り物の普通」という内面化された妖怪を退治できるはずだ。その道のりのスタートを、私たちは目撃している。
ちなみに本書は「書評本」としても非常に質が高い。自分が読みたい本は自分で見つけられてしまうことが多いため、個人的にあまり書評というものを必要としないのだけど(とか言いつつこれを書いている)、1エッセイにつき1冊(たまに複数冊)が終わりに「さらっと」紹介されるだけの彼女の書評は、なぜか「読んでみたい」と強く思わせるものになっていた。
この書評のように長々と文字を尽くすわけではない、ある意味おまけのようでもある彼女の簡素な書評がとても魅力的に思えるのは、やはり彼女の思考/試行錯誤が書かれているエッセイの質の高さが理由なのだろう。
おそらく、書いていた彼女自身もその実態が掴めないままエッセイに落とし込んでいた「内面化された作り物の普通」が、本書の前半部分には多く潜んでいる。それらに対して、わからないなりにも真摯に向き合って紡がれた生活/エッセイだからこそ、読む者になにかを感じさせるのだと思う。そこに本が絡んでくる。彼女の血や肉となり、その思考と生活に確かに取り込まれていった本たち。そうして徐々に気づいていく、自分を取り囲み、身動きを取りにくくしていた壁や靄の存在。開ける視界が、新たな思考/生活/本を呼び込む。その循環をも、私たちは見ていたのかもしれない。
自身の環境変化に伴い、明らかに力強さを増した書き下ろし部分を読むことで、その意味はよりはっきりとしたものになるのではないか。もう一度、最初から読んでみるといいのかもしれない。彼女自身が、そして私たち自身がはっきりとは掴めていなかったあれこれの違和感に、もはや「飼い犬」ではなくなった彼女/私たちは、各々のリズムで、声量で、吠えることができるようになっている気がする。
野良犬は強い。まだ颯爽と駈けることはできなくとも、たとえ首輪のない不安に押し潰されようとも、ぜんぜん大丈夫。一度野良を知った私たちは、いつでも「飼い犬もどき」になることができる。リードも首輪も犬小屋も、必要なときだけ利用すればいい。あるいは、たとえ飼われていても、バレないように見知らぬひとからご飯をもらうことができるし、トイレ以外の場所でうんこもできる。そのことを、彼女/私たちはもう知っている。
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