気性女とエリマキとかげの午後
「おい。エリマキ・・・! スリーコインズって知ってるか?」
月曜の午後2時。昼下がりの、誰しもがちょうど眠くなる時間帯である。
襟巻課長のいる危機管理室オフィスは、大半がテレワークで不在の中、襟巻課長とその女性部下2名がカタカタと、ひたすらノートブックパソコンのキーボードを叩く音がこだましている。
そんななか、だし抜けに汁木エリカ係長のかな切り声が轟いた。
汁木係長は、週末に講師を務める研修資料を作成するため、1時間ほどパソコン作業に熱中していたが、集中が途切れたのか、腹に貯めた息を一気にフーッとはき出した。パソコンでの入力作業は久しぶりだった。こんな単純作業は、本来は襟巻課長の仕事だと決め込んでいるが、汁木係長本人が講師を務めるため、仕方がない。
汁木エリカ課長代理は、43歳のベテラン危機管理担当ビジネスウーマンだ。阪急大震災も東北沖田地震も経験済みで、最近では大阪低槻地震で、たまたま早朝から出社していたことが幸いし、危機管理マネジメント能力と会社の危機対応の秀逸さを、これも、ちょうどたまたま社内にいた曾野(その)社長に示すことができた。
他の多くの社員も、女性マネージャーとして有能ぶりを見せ、この女性係長 汁木に一目を置いている。
ただ、少し気性が他の普通の女性とは違っていた。
ダイバーシティとか男女雇用機会均等法で推進されるようなか弱い女性に報いる、一種未来型の戦略的人事は、彼女にとって不要な価値観である。5年前に中途入社で旅行業から転職し、食うか食われるか、弱肉強食の世界で生きてきた彼女の本質は、まさに「男勝り」である。
勝者が正義であり、弱者は駆逐されるというヒエラルキーを持っている。
深い吐息を巻きながら、組んでいた右足の膝で机の支柱を蹴りつけ、座ったまま、大きくその背筋を伸ばしきる。
パソコン作業で凝り固まった左頸部の筋肉を、右手拳でトントンと叩きながら、右隣の席で、汁木係長がプリントアウトした研修資料素案の文字校正をしている襟巻泰三(えりまきたいぞう)課長のほうに目線を向けるや、長いあくびが尾を引く。
襟巻課長は、汁木係長の直属の上司に当たる正課長(男性)だが、汁木係長には立場が弱い。危機管理業務で同課内の最前線で辣腕を振るう汁木係長に対し、どちらかというと、襟巻課長は事務屋の域を出ない。あまた寄せられる危機マネジメントの問合せには汁木係長が対応する。尋ねられても、的確な指示、指導を出せずに一言一句の応答も覚束ない襟巻課長を無視して、結局のところ他の社員は汁木係長にほぼすべての相談案件等を持っていく。襟巻課長が率先してできるのは、電話での取り次ぎと汁木係長の小言を聞くくらいである。
それでも、襟巻課長自体はそれを苦痛に思っていない。この点は、彼の良い所でもあり、悪い所でもある。
男性上司に女性部下という位置関係で、上司のほうがバリバリでき過ぎると、セクハラ等の弊害が生じやすい。しかし、彼らのように、指揮命令の立場が逆転していると、人間関係の面は、傍目(はため)の印象とは異なり、むしろしこりが残らず、当人同士は、何ら気兼ねなく関係性を構築し、ごくうまく行っているようである。
ただ、汁木係長は襟巻課長を自分の家来のようにぞんざいに扱っている様子を周囲の職場の同僚は、余り好意的に見ていない。
それはそうである。部下が上司に「おまえ」とか「バカヤロー」などと蔑むような発言を職場で聞いているのだから、タテ社会の序列を当然だと思っている人にとって、この関係には違和感しか抱かない。自身と課長との距離と、自信と係長との距離関係が微妙であり、何ともバランスの取りようのなさに苦慮しているのである。
それでも二人の関係は、当人同士が円満に行っているのなら、これに異を唱える必要もないから、他の部下は、見て見ぬふりをするだけである。
こんな状況なので、危機管理室は、他のオフィスとはかなり微妙な雰囲気を漂わせながら、円満な環境自体はあるようである。
「ス、スリーコインズですか・・・! スリーコインズって言えば、あの「スリコ」のことですよね!?」
チェック作業のさなかにいきなり聞かれたため、一瞬聞き漏らしそうになったが、普段、同様に汁木係長から突然に話掛けられる経験もあり、襟巻課長の耳目の全神経は、無意識に汁木係長のほうに向いており、何気ないひとり言でも聞き漏らさないず即時に反応できるよう、臨戦態勢並みに聴覚が訓練されていた。
しかも敬語である。
「そうだ。あのスリコをおまえ知っているか!?」
「スリーコインズと言えば、関西発祥で全国展開している300円均一のお店ですよね。」
「そうだ。でも、そのスリーコインズで、160円の商品が置いてあったとしたら、おまえどうする!?」
「それはおかしいですね。スリコでは、300円均一で商品を販売しているので160円という値段設定はあり得ません。そんな値札の商品が置いてあったとしたら、それは店員の値札の貼り違えか、あるいは半額サービスを始めたのかも知れません。」
「そうだ。300円均一のお店で160円の商品が販売されていたとしたら、何らかのトラブルを想定するだろう。しかし、それは先入観にとらわれた客側の間違いだとしたら、どうする!?」 襟巻課長は、ただきょとんとする他ない。
「先入観による間違い・・・って言うのはどういうことですか?」
「そこが問題だな!おまえ達は先入観で物事を見ているってことだ!」
この汁木が何を言おうとしているのか、何を言いたいのか皆目検討が付かない。
「良いかよく聞けよ!」
「はい!」 いつものことだが、襟巻課長は、机の上の手帳とペンを拾い上げ、メモを取る準備をした。この対応は、まさに事務屋の鏡である。
「先入観というのは、ある物事に対してあらかじめ抱いている見解やイメージで物事を客観的に捉える自由な発想を妨げるもので、つまり、思い込み、って言うやつだよ。」
つづく